半透明になる

糸川まる

半透明になる

 



 血を飲んでしばらくすると、半透明になる。胸というかみぞおちというか、体の真ん中あたりがぞわぞわと乱される。手先を見れば、ほら、今日の丸い月がっすら透けている。全身がぽよぽよと半透明になったあたりで、私は立ち上がった。

 足が浮いている。

 ちょっとだけくうを蹴り、縁側から座敷に入ると、そのまま一枚、二枚、三枚と襖を通り抜ける。半透明になっている間は、開け閉めせずともそのまま抜けられる。ぽよん、ぽよんと抜けていく。便利なものだ。

 最後に一枚、襖を抜けて、私は文机ふづくえに向かって書き物をしている住職の背中にぴたりと張りついた。ぬるい私の体温に、ほんのわずか、住職の肩が怯えるように、あるいは期待するように震える。


 夏。しゃころもは、すべすべとしてはだにまとわりつかなくて、すこし物足りない。じんわりと着物を抜けて、生身の膚にたどり着くと、そのまま潜って住職の体と私の体を混ぜる。ぴったりと膚の凹凸が合う瞬間、住職はいつも呼吸が浅くなる。私はわざわざそのことを伝えてはいないが、住職の膚と私の膚のさかいめが、まるで薄い膜を壊すように一つになるとき、住職がねぶられるような快感に襲われていることを知っている。

 なぜならそのとき、私と住職の感覚はまったく一つになっているので。


 浅く息を吸って吐いて、住職は体の芯のあたりを震わせる。ほんのわずかに、うめき声をあげさえする。住職の体の中を泳ぐたび、私がすすった血の香りがぬるい体液と混ざってまとわりつく。これを繰り返してもう100年になる。住職の体のなかも、たっぷりと生き物の血の気配で満たされている。


 そうしてしばらく待って、快感が落ち着いた頃に、ずるん、と私は住職の体を脱ぐように這い出るのだ。


 私の半透明だった体はしっかりと実体を取り戻している。以前、他の人間で試してみたことがあったが、混ざりあうところまではよかったものの、そのまま向こうを吸収してしまい、ただただ大きな半透明の私ができあがるだけで、うまく戻れなかった。たぶん、重さと体を取り戻すときに、相手方のなにかを取り込んでいるんだろうと思うのだけれど、たいがいの人間はその何かを取り込まれるときに、まるごと私に奪われてしまう。


 その点、この住職は、啜っても啜ってもでる泉がごとく、どれだけ泳いでも減らない。失われないことは、すばらしいことだ。人間は、たやすく失われてしまう人が多くて、だめだ。


「どうも、ありがとうございました」


 私は恍惚の表情のまま、指をついて御礼の口上を述べる。


かえで


 住職は、私をかえでと呼ぶ。


「お前、まさか生きた人間を食ろうたのか」





 ◇





 我が村のご住職はおにだと言うものがある。曲げ赤松のお屋敷のご隠居なんかがそうだ。なぜ鬼だと思うたのか、そのあたりも聞いたはずだったが、なぜかすこんと頭から抜けていた。そんなご隠居が今朝死んでいたとかで、朝から隣組が通夜の支度のために動員されていて、それはもう一日中あわただしい。面倒に巻き込まれたくなくて、お勝手で時間をつぶしていたら、女衆おんなしゅうに見つかった。「暇なら枕経まくらぎょうの時間がもうすぐだから」と言われ、俺はしぶしぶご住職を呼びに行く。ごめんくださいと声をかけると、いつものように使用人の若い女が顔を出した。


「へえ、お待ちを」


 女はいつも、聞いているのかいないのかわからない、ぼやぼやした声で応じる。女は村の誰の顔も覚えていないから、いつでも不審げに眉を寄せている。陰で、きっと子なのだろうと言われていた。しばらくして、住職がふらつく足取りでゆるゆると現れた。いつものように、顔のあたりを布で覆っている。ずいぶん昔に寺で大火があった際、ご本尊を守るために全身にやけどを負って、顔がずいぶん崩れてしまったから隠しているのだと、村の老人たちは言っていた。俺は住職の手を取って、ゆっくり、ゆっくりと坂道を下っていく。曲げ赤松の屋敷は門から玄関までがこれまた遠い。飛び石に躓かないよう、ゆっくり、ゆっくりと住職の手を引いて歩いていく。住職の手は、年に見合わずふっくらとして、白い。


 葬式や通夜はなんともないが、葬列を見るのだけは怖い。

 何か大切なものを持っていかれるような気持ちさえする。翌日、葬式を終えていざ出棺となった折、若い俺はおかんを持たなければならないけれど、こっそり隠れてやり過ごす。きっとすぐにばれて、帰ってきた親父にこっぴどく叱られるが、親父よりも葬列のほうが、怖い。

 隠れている間に、居眠りをしていた。目を覚ましたらすっかり日は暮れて、青いような夜闇が隠れ場の納戸をぬるく満たしていた。俺は唐突に、曲げ赤松のご隠居が言っていたことを思い出した。


 ―――我が村の和尚は鬼だ。あれはわしわらべのころからあの姿だった。腰を曲げて顔を隠しているが、あれは嘘だ。年を取らず老いもせずずうっとあのままなのだ。儂は見た。死んだ人間の血を啜る鬼に違いない。


 ご隠居が言うことが正しければ、今夜、ご住職はご隠居の血を啜るんだろうか。俺の胸は興味でいっぱいになって、思わず家を飛び出す。隠れていたことに立腹中の母や父の相手もそこそこに、寺までの急な坂道を登る。


 ご隠居の墓地の前には、果たして、淡い色の着物を着た人間が一人、空から縄でも引いて首をっているかのごとく、すらりと背筋を伸ばして、立っている。誰だ、と俺は声をかける。かの人はゆったりと振り返る。お寺の使用人だ。俺はなんとなく拍子抜けして、そこで何をしている、と質問を継ぐ。使用人の女は、ほんのわずかに首を横にかしいだ。見れば、女の足元には掘り返された棺。そこからだらんと突き出す、ご隠居の枯れ枝の腕。―――血を啜っております―――と、女は応えた。淡い色の着物に、襟もとのべっとりと黒いのが、いやに映えている。

 あ、と俺が声を出す間に、女は俺の喉仏にかぶりついた。白くて、ふっくらとした女の頬が、一瞬、葛餅くずもちのようにぷるりと崩れて、それで終わった。





 ◇





「生きた人間を食らうことだけはよしてくれと、何度も頼んでいるだろう。いったい、何が不満だったのだ。わたしの何が至らなかったのだ。どうしたらお前はそれを、めてくれるのだ」


 気づけば住職は、ほろほろと涙を流している。その涙さえ、つんと匂うような、人の血の気配をはらんでいる。さっき墓地で遭遇した、若い男の死の匂い。不用意に嗅いでしまって、じゅわりと唾液がにじみ出る。


「そうは言っても、和尚さま、畜生の生き血や死んだ人間の血だけでは、不十分ですもん」


 私は困ってしまって、眉を下げる。


「和尚さまだって、死にたくないでしょう」


 たまには生き血を啜らなければ、お腹がすいて死んでしまう。それはきっと、私と混ざりに混ざってになってしまった住職もそうだ。住職は、いかにも若々しくはりのある額にしわを寄せて、さめざめと涙を流している。その膚は涙さえもぴんと弾く。


「明日も忙しくなりますよ」


 また死人が出ましたもんで。励ますように言ったものの、住職はいっそう、とめどなく涙を流す。あっ、と気づけば、顔を覆う住職の指先が、ほんの少し透けている。


「和尚さま」


 私は思わず手を伸ばして、透けている住職の手に手を重ねた。ひんやりとして、ぷるりと柔らかく、水に溺れて死んだ人間のそれに似ていた。まだ泣いている。泣けば泣くほど、その体は透けていく。私は住職のからだを前から抱きすくめた。瞬間、住職のからだがぼこんと大きく膨れ、私を圧し潰した。息が吸えなくてもがく。腕をかけどもかけども、水のようにつかみどころがなく、そしてそれはもがくうち、私の胸のあたりからずるりと入ってきた。痛いほどの、破滅的な快感に、私は体が縦に裂けたかと思った。住職のすすり泣く声が腹のあたりで反響している。ぶるぶると震えている。いつの間にか私の体も部屋いっぱいに膨張して、着物や、仏具や、硯が、私の体の中を所在なげに泳いでいる。


「ああ、もう」


 私はこらえきれずに、嬌声きょうせいを上げながら全身を弛緩しかんさせた。快楽がなだれ込んできては、引く。またなだれ込む。それを繰り返して、気づいたときにはそこに住職の姿はなかった。畳の上に転がった私は、べっとりと汗をかいて、小一時間そのまま体を休める。気を緩めると、全身が泥のように崩れていく。いかん、いかんと、私は自分に活を入れて、よぼよぼ起き上がる。


 人間は、失われてしまうから悲しい。私は、住職が永遠に失われてしまったことを、これ以上なく寂しく思った。一人ぼっちで永遠に生き続けるのは寂しく、味気なく、耐えるのに骨が折れる。かといって、みずから飢えて死を選ぶのもおそろしい。千年、一人で生きてきていてしまったから、私の不死を分けあいながら長くともにいられる人間を探してきたけれど、この住職もまただめになってしまった。また探さなければならない。私はまた一人ぼっちで、よぼよぼと、寺をあとにする。

 まだ不安定な体が、たぷたぷと音をたてている。












 

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