第4話

 土曜日は朝からうっとうしいぐらいの暑さになった。例によって妹は「いつ行こうか」と声をかけてくる。

 早く妹に見せてあげたい、というのが本音だが、そんなことはおくびにも出さずに

「まだ涼しい朝のうちに見に行こうか」

と提案してみた。これには意外だったようで、妹は不思議そうな顔をした。

「お兄ちゃん、なんかたくらんでる?」

 自分の気持ちを完全に見透かされたようで、少なからず動揺する。女の勘は怖い。

「なに言ってんだ、昼過ぎなんか暑くて公園なんかに行っていられるか。変なこと言ってると行かないぞ」

 伝家の宝刀を抜くかのごとく早口で言うと、妹は「ごめんなさーい」と顔の前で手を合わせた。




 伝言板のある公園は、大きな住宅団地の数ある公園の中で、ひときわ目立って小さな公園だった。団地のはずれに位置し、細長い区画に無理やり公園を作った感じだ。

 入り口は1ヶ所だけで左手に遊具――と言ってもすべり台とブランコだけで――があり、中央は何もなく更地で、右手の端っこに防災倉庫があった。

 伝言板は防災倉庫の裏側の外壁に立てかけられるように置いてあって、その反対側はすぐに柵がある。柵の向こう側は崖になっていて、公園を含めた住宅団地が、小高い丘にあることを認識させるように、水田が眼下に広がっていた。




 妹は伝言板を見ると驚いて声を上げた。

「みて、みて、私の字じゃない、なにか書いてあるよ」

 僕は「まさか、嘘だろ」とわざとらしく言いながら――事前に一生懸命考えた返事だったけれども――伝言板を見やった。


おおきくなったね はなちゃん

じもかけるようになって えらいね

これからたのしいこと きっといっぱいだよ


 昨日の夜に書いたままの字がそこにあった。母の字を見て何度も何度も練習したおかげか、母が書いたようにも見えてくるから不思議だ。

 当たり障りのない内容だし、もっとうまい返事があったかもしれないが、精一杯考えた言葉たちだった。

 妹は何度も何度も読み返した。一字一句を記憶にしまい込むように声に出して読んだ。




 しばらくしても一向にやめようとしない妹に、そろそろ嫌気がさしてきた。もういくらでもそらんじることができるだろうに。

「そろそろいいか?」

「もう少し待ってよ」

 妹の目にはいつの間にか涙がたまっていた。母を思い出したというのか。

「役目を終えた伝言は、伝言板から消えるんでしょ? だから忘れないようにしたいの」


伝言板に書いてある文字を忘れたくない。


 妹の強い気持ちがそこにはあった。

 何も言えなくなった。妹の気持ちは痛いほどよく分かる。もし、これが母からの本当のメッセージだとしたら、僕も目を離したくなくなるだろう。


この伝言はお母さんのだから。


 妹の心の叫びが聞こえるかのように、妹は食い入るように伝言板を見続けた。




「汗いっぱいかいたね」

 不意に妹が振り返って言った。妹の顔には髪がべったりと張り付いていて、顔も涙なのか汗なのか分からないほどにベタベタとして、てかっている。

 自分も額から汗が吹きでていて、目尻の近くを汗が伝っていくので、見ようによっては泣いているように見えるかもしれないと思い、少し大げさに汗をぬぐった。

「行こうか」

 妹は、うんと軽くうなずくと、伝言板から離れた。

 のどがかわいていて頭も重かった。ちょっと長く陽に当たりすぎたようだ。妹もいつもの元気がない。

 家は歩いてすぐだけれど、このままじゃ二人とも熱中症になるかもしれないと思い、公園を出てすぐの自動販売機で、スポーツ飲料を1本買った。

「好きなだけ飲んでいいよ」

 冷たいアルミ缶を開けてから渡すと、妹は「ありがと」とおとなしく受け取った。


 ひとしきり飲んだあと、妹は缶を差し出した。

「お兄ちゃん、今日はなんだか優しいね。お母さんが見てるからなの?」

 残りを喉に流し込んでから、「いつも優しいだろ」とつぶやくように言った。それに、母に見られているわけがないし。

 妹は聞き返すことはなく、歩き始めた。

「お母さん、元気そうでよかったね」

 同意を求められてもうなずくわけにいかず黙っていた。

「また伝言することができたら書きに来よっと」

 次はなしにしてくれと言いたいところだったが、言うわけにはいかず、これも黙っているしかなかった。

「お兄ちゃん、元気ないね、帰ったら休んだほうがいいよ、ねっちゅーしょーになるかもしれないから」

 覚えたての言葉をただ単に使いたいだけだったかもしれないが、黙って歩く僕を、体調が悪くなったのかと本当に心配している様子にもみえた。

「ああ、ありがとう」

 会話をするとボロが出るかもしれないので黙っている、なんて勘づかれても面倒なので、体調が悪くなったことにしておこう、そう思った。


 大きな通りに出て空を見上げると、西の空が黒く重たそうな雲に覆われていた。午後には雨が降ってきそうだ。外に干した洗濯物を早めに取り込まないといけない。

 妹は黙って歩き続けている。母からの伝言を暗唱しているのかもしれない。

 

 役目を終えた伝言は、伝言板から消える。


 午後からの雨は、それを証明する雨となりそうだった。

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伝言板 藤野優紀 @1tose3

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