第3話

 母を知る手かがりは、家の中で目につくものは少ない。父は母のことをあまり多くは語らず、かと言って隠そうとしている様子はなかった。

 父は思いの外器用な人で、家事全般はそつなくこなすし、仕事もうまくセーブして家庭と仕事の両立を図っていた。職場の理解も大きかったのだと思うが、僕らに母がいないことを不自由に思わせることはなかった。


母が恋しい。


 そう父に面と向かって訴えたことがなかったのは、父のおかげだと思う。もちろん、子どもながらに気を遣っていたには違いないのだが。

 その父に母のことを聞くのは気が引けた。父だって母のことを思い出すことはあるだろうが、自分からでなく子どもからなのは、心が平静でいられるはずがない、と思うからだ。

「お母さんが書いた日記とか手紙とか、何かない?」

 妹がお風呂に入ったのを見計らって聞いた。父は夕食の洗い物をしていた手を止めて、「なんだって?」と聞き返した。

「お母さんの書いたもの、何かないかな、と思って。どんな字を書いてたのか、興味があるからさ」

 どうしてそんなことを聞くのか? という面持ちで、父はひと呼吸おいて言った。

「お母さんはそんなマメな人じゃなかったからな、どうだろ、なにかあるかな」

 父は洗い物の続きをしながらも、頭の中でそのありかを探し始めてくれた様子だった。



 洗い物が終わり、タオルで手の水気を拭ったところで、ああ思い出したとばかりに言った。

「母子手帳はどうかな」

 ときどき予防接種とか健診とかで使うから、そのときにお母さんの書いたのを見たことがあるんだよ、と父は少し嬉しそうに話した。

「成長を見るのが嬉しかったんだろうな、いろいろ書いてあって、おもしろいぞ」

 自分たちの過去を母を通してみられそうだ。母の気持ちを知るには絶好の機会ではないか。そう思うと早く読みたくなった。それを察したかのように父は続けて言った。

「たぶん、薬箱の隣に置いてあったと思う」

 読んだらもとの場所にしまっておいてくれたらいいからね、と付け加えた。

「ありがとう」

 はやる気持ちを抑えきれずに、薬箱の置いてある棚を見に行った。

 薬箱の隣にもたれかかるように2冊、カバーが付いていて一見すると母子手帳とは分かりづらいが、置いてあった。1つを取って開くと、妹のものだった。


4ヶ月

 よく笑うようになったね。首もしっかりしてきて、抱っこしやすくなったよ。抱っこ大好きだもんね。


7ヶ月

 寝返りはお手のもの、まだハイハイはできないけど、ゴロゴロと移動して、びっくりするようなところにいることがあるね。お座りはもうちょっとかな。


10ヶ月

 つかまり立ちはあっという間で、つたい歩きが上手にできるね。ハイハイも上手になったから目が離せないよ。


1歳

 上手に歩けるようになったね。おっぱいからも卒業できてえらかったね。

 初めて熱を出しました。熱が出た割には元気だったけど、心配したよ。熱が下がってから発疹が出てきてからが不機嫌で、あまり食べなくなったからお医者さんにかかったら、突発性発疹症だと言われました。1週間できれいになって元気も戻ってよかった、よかった。


 これ以降の母の記載はなかった。父が書いたのか、他の大人が書いたのか、検診のたびに書き込みはあるが、どれも事務的で無機質な字面だった。

 マメでない割には節目節目で記載があって、妹の成長がよく分かった。同じ時間を過ごしていた中での母の様子から、こんなことを思っていたのかという、新たな発見もあり、少しは母の気持ちに触れられた気がした。

 字は大人の字だけど、角が取れた丸文字風で、自分にも真似ができそうだ。

 もう一度読み返しながら考えた。母の記憶はおぼろげにはなってきているが、母の写真や映像、書いたものを見れば、母を思い出し感じることができる。妹にはそれができない。いくら母の写真や映像、書いたものを見たとしても、僕のようにはいかないだろう。


それはかわいそうだ。


 きっと母だって妹の成長を楽しみにして、この母子手帳の続きを書きたかったに違いないのだ。


妹の想いと母の想い、両方をなんとかしたい。


 妹の母子手帳を元に戻しながら、どうするべきかと思案した。といっても自分の中ではすでに結論は出ていた。ただ、それを実際に行うかどうかを決めかねていたのだ。


独りよがりかもしれない。


 その思いは払拭できなかったが、なんとかしたいという気持ちがわずかに勝り、僕は実行に移すことにした。



 新聞で週間天気予報を確認すると、明日は午後から雨、次の日にはあがって、日曜日までは晴れマークが並んでいた。そんな先の天気が100パーセント的中するわけはなく、急な夕立があるかもしれないので、決行は土曜日前日の夜に決めた。

 まずは書く内容だ。母だったら何を書くだろうか。小さな仏壇の前に置かれた母の遺影は優しく微笑むだけで応えてはくれない。


 下書きを何度もした。読み返してああでもないこうでもないと文章をこねくり回し、やっとたどり着いたのは、たった3行だった。


 あとは母が書いたかのような字で書くだけだ。チョークで書くだけで大人の字に近づく感じがするから、きっと大丈夫だろう。

 先週とうって変わって土曜日が楽しみになった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る