第2話
あれから1週間、妹はいつものように元気に保育園に通った。
父は仕事で忙しい中、平日は朝食、夕食を家族3人で摂るようにしてくれていて、食事の時間は妹がいろんな話をして場を盛り上げた。
そこで妹があの伝言板の話をしないか、内心冷や冷やしていたのだが、不思議と父といるときは話題に出さなかった。ときどき僕には、次の休みが楽しみだね、と意味ありげに言ってきてはいたのだが、どうやら二人だけの秘密にしてくれているようだった。
土曜日、父は仕事に行き、妹といつものように留守番となった。午前中のうちに、学校の宿題を終わらせて、昼はそうめんで簡単に済ませ、午後からはみっちりテレビゲームをしようと計画していた。
「昼食べたら、あの伝言板、見に行こうよ」
算数の宿題にとりかかろうとしたところで、妹から声をかけられた。いくどとなく妹から言われていたので、忘れていた、なんてことは言えるはずもなく、「分かったよ」と追い払うように言うしかなかった。ますます宿題を早く終わらせる必要が出てきたので、集中できるように、部屋の扉を閉めた。
11時を少し過ぎた頃、宿題を終わらせた勢いのまま、手早く昼食の準備を始めた。
「またそうめん?」
作ってもらえるだけありがたいと思ってほしいところだが、「ま、お兄ちゃんのそうめんおいしいからいいけど」とニコッとされると、悪い気はしない。そうめんをゆでて、冷流水にさらしてざるに盛り付け、ストレートのめんつゆをつゆ鉢に入れるだけの、至極簡単な手抜き料理の極みである。薬味は子どもには必要ない。
10分もしないうちにそろって食べ終わった。食器類を洗ったところで、「そろそろ行きますか」と声がかかる。どうあっても、見に行くつもりのようだ。一人で行ってくれば、と本音を口にしようものなら、本当に一人で行ってしまうので、それはそれで困ってしまう。近くの公園とはいえ、妹は極度の方向音痴なので、公園にたどり着けるか、家に帰ってこられるかで、全くゲームに集中できなくなるからだ。
「10分で戻ってくるぞ」
午後から忙しいんだから、と付け加えるも、ゲームがしたいだけじゃない、と怒られる。いつものことだ。あと2,3年もすれば、小言に限っては母顔負けになるかもしれない。
「いってきまーす」
玄関先で、誰もいない廊下に向かって妹は元気よく声をあげた。
夏真っ盛りという言葉は、冷房の良く効いた部屋で、お天気お姉さんを通して聞く言葉としてなら耳心地がいいのだが、アスファルトの上を歩くときには聞きたくもないし、言いたくもない。
「今日も暑いね、お兄ちゃん」
暑いという直接的な言葉のほうがまだマシだ。とはいえ、暑さが和らぐわけもなく、ただひたすらに暑い。汗をかく前に公園にたどり着くはずが、今日はすでに額に汗がにじんできていた。
やっと着いた。ちょっと歩を休めたいところなのに、妹は伝言板のある場所へすでに走り出していた。
伝言板はひと目につかない場所にあるとはいえ、真夏の太陽からは丸見えで、今の時間、日陰などはなかった。
伝言板の前で立ちつくす妹の顔は、さっきまでとはうって変わって、神妙な面持ちとなっていた。伝言板に目をやると、1週間前と同じ、何も書かれていないまっさらな状態だった。
ああ、おとといの夕立のせいか。妹の書き込みを、落書きかのように、すべて洗い流してしまったのだろう。
「お母さん、時間がなかったのかな」
妹は伝言板を見たまま思慮深けに言った。
「消したまま、何を書こうか迷っているうちに、時間がなくて帰っちゃったのかな」
なんともまあ、前向きな思考回路だ。
「それか、お母さんが見る前に消えちゃったのかな」
どれでもいいだろ。一生懸命に理由を考える妹に、暑さとゲームしたさで、少しイライラしてしまった。
「もういいだろ、帰ろう」
妹の腕を引っ張ると、「ちょっと待って」と妹がお出かけのときに持つ小さなポシェットから、チョークを出した。「もう一回書くね」と小さく言ってから、スラスラと書き始めた。真剣な眼差しに、無駄だよ、とは言えなかった。
おかあさん げんき
わたしはねんちようさんになったよ
まいにちあついけど たのしいよ
書き終わって満足したのか、チョークをしまって、「おまたせしました」と振り返った。
前回は、会って話がしたい、と書き込んでいたはずだが、今回は違った。妹なりに母が返事を書きやすいように配慮したのだろうか。
「来週も見に来ようね、お兄ちゃん」
公園から出るところでそう告げられた。その場を取り作るように、ああ、来週な、と返した。
母が見たらなんと返事を書くのだろうか。
ふと湧いた疑問に対する答えは、母をほとんど覚えていない妹には分からないだろう。かと言って、母の記憶のある自分がはっきりと分かるものでもない。
母のことを良く知ったなら、その答えは分かるのだろうか。
公園からの帰り道、アスファルトに映った大きな逃げ水は、僕の気持ちをあざけるように、近づきもせず遠のきもせず、ある一定の視界を占めていた。
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