伝言板
藤野優紀
第1話
母は僕が小学生になった初めての夏にいなくなった。いなくなったという表現は、どこか遠回しで本質的ではない。世間的には、流行り病で母を亡くした、という表現が適切だろうか。しかし、母の死に目に立ち会えず、遺骨の入った小さな壺を、母だと言われても納得できるはずがなかった。
母がいなくなってから5回目の夏が来たとき、妹から母のことを尋ねられた。
「お母さんはどこに行ったの?」
父は再婚もせず、男手1つで僕と妹を育てていた。妹は母のことは覚えていないはずで、いつかはそんな問いがくることは予想できていたはずなのだが、答えを用意しておけるほどの周到さを、僕は持ち合わせていなかった。
「ちょっと遠くにいったんだよ」
お父さんに聞けよ、という言葉を飲み込んで、かろうじてそう言った。妹は「そうなんだ」とつぶやくように小さく言ったきり、黙ってしまった。
保育園年長のおませさんに、そんな戯言(たわごと)が通じるとは思えなかったが、それ以上の説明は面倒だし、自分自身もそれで納得させていたので、妹にもそれで納得してほしかった。
少しの間をおいて、思いつめた顔で妹は言った。
「じゃあ、どうしたら連絡がとれるの?」
この世に存在する母をイメージしたのだろうか、それとも、答えをはぐらかした僕への非難だろうか。ますます面倒な問いになってきたと思い、焦燥感にかられた。
「そんなに連絡がとりたければ、公園の伝言板にでも書き込んでみれば?」
苦し紛れに出した答えではあったが、それを悟られないように、妹の顔をしっかりと見据えてゆっくりと言った。
「そっか! そうしてみる!」
妹の表情がぱっと明るくなり、やけに嬉しそうにはしゃいだ。
その反応を見て、まずいことになったと思った。面倒なことになるかもしれない。妹の性格からいって、実行する可能性が高い。
家から少し離れた小さな公園に、古い黒板が無造作に置かれていた。ひと目につきにくいところにあるので、「置いてある」というより、「捨ててある」と言ったほうが正しそうだ。僕が小さな頃から、雨ざらしの中でも朽ちるこなく、ただそこにそっとあり、チョークさえ持っていけば、落書きし放題だった。黒板消しはなかったが、雨が降ればきれいに洗い流されるので、不要なのだ。伝言板の本来の使われ方については、母から教わったので、それを妹に教えてやった。
スマホやアプリがコミュニケーションツールとして一般的ないま、伝言板なんて実物を見る機会はほとんどないし、実際あったとしても、本来の使われ方はしないであろう。この伝言板だって、黒板に『伝言板』と『駅の名称』が書いていなかったら、それが駅の伝言板だったなんて、想像もしなかった。
家から一番近い公園なので、妹とはそこでよく遊んでいた。もちろん最近は昔のようには遊ばなくなってはいたが、兄妹の共通認識として、公園の伝言板といえば1つしかなかった。
この伝言板はね、ちゃんと書けば不思議と返事が来るんだよ。
それは、意味不明な落書きばかりする妹をからかうつもりでついた嘘だった。妹はまだ覚えていたのだ。
「お兄ちゃん、一緒に行ってみようよ!」
後ろめたさでいっぱいの僕の気持ちを推し量ることもなく、妹は天真爛漫に誘ってきた。あとに引くこともできず、僕は軽くうなずいた。
「なに書こっかなー」
妹は、短くみすぼらすくなった白いチョークを黒板にトントンしながら考え込んでいる。
「字、書けるようになったのか?」
「失礼ね、保育園で郵便屋さんしてるから、手紙だって書けるよ」
いまの保育園では平仮名も習うのか。
小学生になったばかりの春に、お母さんから習ったことを昨日のことのように思い出す。「あ」がなかなか書けなくて、お母さんを困らせたっけ。困ったお母さんの顔は、最近ではよく思い出せなくなってきているが、写真で見る微笑んだお母さんの顔とは違った、自分へと向けられる期待感が溢れていて、それはそれで心地良かったと思う。
おかあさん げんき
わたしはねんちようさんになったよ
あつてはなしがしたいな
覚えたての平仮名の割には読める字で、妹が母に伝えたいことが、よく分かる書き込みだった。
妹の書き込みに感心はしたものの、母が目にすることはなく、ましてや返事が来るはずもなかった。
「気が済んだか?」
重苦しい空気を感じているのは僕だけのようで、妹はピクニックの続きを楽しみにしているかのような軽やかなステップで「楽しみだなー」と笑った。
「帰ろう、すぐには返事が来ないからさ」
伝言板から目を逸らすと、努めて明るく言った。ついて良い嘘と悪い嘘があるなら、今回の嘘は前者だと、自分に言い聞かせる。
「また、見に来よう。お母さんを急かすとかわいそうだから、次の休みの日に来ようね」
妹の変な気の使いように、少し救われた気持ちになった。優しい妹に育っているものだ。
返事が来なかったらどうするんだ?
そう聞きたい気持ちをぐっと胸に押し込んで、家路についた。
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