第3話
その日は一段と風が穏やかで、忙しない蝉の反響も少なく、山は心地よい夏の日差しを浴びていた。
渓流の荒々しくも生々しい川の音に耳を傾け、静かに竿を垂らし、彼は事の流れに身を任せていた。
如月は夏の恒例、家族旅行で鬼怒川に宿泊していた。その最終日、夜明けと共に一人で釣りをするのがこれもまた恒例行事だった。
まだ薄暗く霞みがかった町中を歩き、目的地で黙々と行うひと時が、冒険的刺激が得られるのか、彼のちょっとした楽しみでもあった。
餌の見極めと、川の流れを読み間違えたせいか余り成果が振るわず若干痺れを切らしていた時だった。
「どうだい、釣れているかい?」
何処からか声が聞こえた。
橋桁周辺で釣りをしていた事もあり、橋から覗き込んだ通行人が声を掛けたのだと思った。
「それほど良い成果は得られてないですね」
と、上に向かって返答した、しかしソコには誰も居なかった。
子供が声を掛けたのなら見えづらい事もあるが、声は女性らしく、年齢は30代前半と、彼より若干年上くらいの声質だった。だとするなら、少なからずとも姿は伺えるはずだった。
それなのに見えなかった、と言うよりソコにそもそも人なんかいなかった。
声は眼前の山から聞こえていた。それに気づいた時、彼はしまったという顔を一瞬した。
「その様子だと私がどういう存在か分かっているようだね?」
そう山側から再度声がした。それはまるで山そのものが呼吸するようにこちらに話しかけていた。
「少し気を抜きすぎていたよ。こんな声の掛け方、人だと思うじゃないか」
「先入観ってものは恐ろしいものだねぇ」
物腰柔らかな口調であるが、発せられる一言ひとことには自然界独特な厳しさの感じられる空気を若干漂わせていた。
「ところで俺は一体どっちを向いて話せば良いんだ?これだとしっかり挨拶も出来ないじゃないか?」
「おや、これはすまなかったね。てっきり見えてるものかと思っていたよ」
そう答えるやいなや先ほどまで山の姿をしていた声の主が姿を現した。
螺旋状にとぐろを巻き、陽の光に当てられ一枚一枚が淡い緑色に反射する鱗。眼(まなこ)は自然の厳しさの象徴し、さながらこの土地を治める山の主そのもの。その姿は度肝抜かすほどの巨大な白蛇だった。
「お前さんにもツレがいるもんだから気づいてると思ったんだがね」
その姿に彼は呆気に取られた。まさに蛇に睨まれた蛙のようだった。
「オイオイ、挨拶するんじゃなかったのかぁ!?」
荒々しい口調で竹を破るように暫しの沈黙にしびれを切らして話に入ったのは彼についていた鎖のような蛇だった。
「あぁ...すまない。あまりにも美しく眩い存在だったもんで...」
それに諭されるように彼も口を開いた。
「よして頂戴な。お前さん、いつもそうやって口説いているのかい?」
満更でもない表情で山の主は答える。
「いや、貴女が初めてですよ。第一見えるようになったのも、こんなヤツが憑いたのも最近なんでね」
隣に出てきた金属音以外にも騒がしい存在に嫌味を言いつつ、彼の喧しい罵詈雑言を流し彼女の質問に答えた。
「そうかい。愉快なお友達じゃないか」
色っぽくも少し子供じみた愛らしい笑みを浮かべ、そして彼女は空を仰いだ。
「こんな愉快な日はいつ振りだろうか。最期に人の子と喋れて楽しかったわ」
「...最期なのか?」
その言葉を聞き不思議そうな顔を彼女した。
「そうだよ。死出の旅路にはとても優しい日和じゃないか」
「何故貴女程の力量をお持ちなら隠居ぐらい簡単な筈じゃ...」
「これが『決まり事』なんだよ、坊や」
そう何処と無く黄昏た表情をした山の主はその「決まり事」について語り始めた。
山の主曰く、ありとあらゆる土地に在中の、またはその場にいる自然達の担い手として任され、人の有る無し関係なく、自然そのものに信仰されている存在を「土地神」と俗称され、その土地神は新たな担い手が芽吹き発現し、孵化した際は、その者に培ってきた権限を譲渡をする。
その後、自身は自然に還ることが習わしとなっていた。
そして自然に還ることは人の死とは異なり、元々自然から発生した存在のため、元の場所に記憶諸共返すとされていた。
「なるほど。で、寂しくないの?」
「そりゃあ、寂しくないと言うと嘘になるのかね」
「何かやり残したこととか無いの?」
「人の子らしい質問だね。そうさねぇ...お前さんは何処から来たんだい?」
しばし物思いにふけった後、彼女は如月に問いかけた。
「え、東京だけど...?」
「やっぱりそうかい。東京ねぇ...一度でもいいから拝んでみたいもんだねぇ」
その姿は都会に憧れる一人の少女のように愛らしく、憂しく感じた。
「ひとつ聞きたいことがあるんだけどさ」
「ん、なんだい?」
「その規約ってさ、その場所に元当事者が居なければ、その新たな担い手が当事者になるんだよね?」
「あぁそうなるね」
「ならさ、今に至るまでのノウハウを教え込ませて、権限を譲渡して『その場』を放棄すれば自由になれるってことだよね?」
彼女は言われて驚愕した。
その内容にではなく、その何とも屁理屈じみているが間違っていない事実をさも当たり前のように言ってのけてしまった彼自身に。
ただ、彼女は彼の言動を理解出来ていなかった。
「自由になったところで自然の無い世界ではアタシは食事はおろか、踏み入る事さえ出来ないんだよ?」
自然から存在しうるもの達はそこの自然からエネルギーを供給され生き続けている。
つまり、都会のように自然の少ない場所では供給源が断たれ、生きることを許されない。それどころか近くことさえも叶わないのだ。
「それなら、俺に取り憑けば良い」
その事を分かってか否か、彼は彼女にそう告げた。
「人の子が…茶化すんもんじゃないよ」
呆れ半分に彼女はそう反応せざる得なかった。
「茶化してないさ。こちとら真面目さ」
「お前さん...アタシだって伊達に山の主をはってたんだよ!それを分かって言ってるのかい!?」
力量差がある存在が人に取り憑いた場合、その取り憑かれた側がエネルギー源を与えることとなる。
つまり、今まで自然界から膨大なエネルギーを供給してもらっていた彼女が人ひとりからそれを摂取しないとならない。賄えるはずが無い。そう彼女は感じた。
「そう言うの話をしているんじゃない。貴女はどうしたいんだ?」
彼は投げかけた。その言葉に彼女はさらに困惑した。
「俺なら望みを叶えられるぜ?取り憑くどうこうはその後考えりゃ良いんじゃないのか。もとより世代交代して最期を迎えようとしてるんだろ?ならこっちが保たなくておっ死んだところで結末は一緒じゃないか。これでも既にある人から供物扱いなんでね」
「供物...どうりで...」
山の主は彼のその発言から微かに香る白檀の匂いに気付いた。
「んで、どうする?」
「お前さん、本当に覚悟はあるのかい?」
「そりゃこんなステキな方を連れてりゃ色んな連中に絡まれるだろうなぁ...そんくらい覚悟しとかなきゃなぁ...あ、あとアレか、彼女にも報告しないとなぁ...」
彼の検討違いな覚悟を聞かされ拍子抜けしてしまったのか、彼女は思わず笑ってしまった。
「こんな、こんな可笑しな子に出逢ったのは初めてだよ!負けたよ、おまえさん」
必死に笑いを堪えながら、彼の想いに応える山の主。先程まで強張っていた表情も何処吹く風。それに反応するように周囲の緑も青々と眩いた。
風色が変わった途端、如月に根掛かりと勘違いする程の大きなアタリが掛かり、思わず身体が持ってかれそうになった。
「お、これはデカいぞ!?こりゃ山神さんの恩恵かな...!?」
「やまがみさん...?あぁ、そうかい。山神さん、か...」
山の主は彼が掛けた名を反芻した。
「そう、山神さん 。安直だった?」
「いいや、良い呼び名だねぇ...」
彼女が明るく笑い、それに釣られるように彼も笑顔で返した。
越境界奇譚(仮) はいたか @haitaka13
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