35歳のピンチ・クローザー

佐倉伸哉

本編

 2020年・夏。横浜。

 東京オリンピックで再び競技として復活した、野球。地元開催で国民の期待を一身に背負った日本チームは順当に勝ち進んでいき、決勝戦に進出した。

 決勝の相手は、クーバー共和国。アマチュア野球界では名の知れたカリブ海の強豪で、破壊力抜群の強力打線が自慢のチームだ。

 スタジアムに詰めかけたファンの声援もあり、試合は日本ペースで進む。初回に1点先制すると、小刻みな継投でクーバー打線を無得点に抑える。

 そして……日本が1点リードのまま、9回裏の攻防を迎える。この回、クーバーの攻撃をゼロに抑えることが出来れば、その瞬間に日本の金メダルが確定する。

 マウンドに上がるのは、クローザーの小宮。日本プロ野球でクローザーの実績を積み上げてきており、今大会でも2セーブを記録している。最終回を託すに相応しい選択だ。

 だが、その小宮がピリッとしない。先頭を四球で歩かせると、送りバントを挟んで再び四球。コントロールが不安定で日本を応援するファンもハラハラしたが、次のバッターは三振に抑え、2アウトまでこぎつけた。あと1アウトで日本悲願の金メダル。この場面で迎えるは、3番・ゴメス。

 その初球!

 高めに浮いたボールを見逃さず捉えたゴメスの打球は、なんと小宮の右手を直撃!! こぼれたボールをすぐにサードが掴んでランナーの生還は阻止したが、打球が直撃した小宮はマウンド上でうずくまったまま動かない。小宮は担架で運ばれてそのまま負傷退場となった。

 この状況に慌てたのが、日本ベンチ。早いイニングから継投策に入っていたため、ベンチに投手がほとんど残っていなかった。あと一人抑えれば勝利だが、その1アウトが途轍もなく遠い。しかも、次は今大会3ホームランと絶好調の4番・マルティネス。並大抵の投手では抑えることは難しい。

 そこで監督が指名したのは……!!

『ピッチャー、小宮に代わりまして、藤原』

 スタジアムにコールされた名前を聞いた観衆は、一斉にどよめきが湧いた。藤原は今年17年目を迎えるベテランのサウスポー、御年35。日本チームで投手野手含めて最年長の選手だ。今大会では主に左バッターのワンポイントとして2試合に登板しているが、この場面を託すに相応しいと言われたら疑問符が付く。一応、マルティネスは左バッターなのでワンポイント起用と思えば正しい……か?

 球場全体がまだざわつく中、ベンチからゆったりとした足取りでマウンドに向かう藤原。マウンドにはキャッチャーの浜田と投手コーチの田中が何か話している。

「やれやれ、ランナーだけ残して退場とは、いい御身分ですなぁ」

「藤原さん!!」

 開口一番のぼやきに浜田が慌てた様子で止める。

「仕方ないだろ。あんなことになるなんて誰も思ってもいなかった」

「まぁ、そう言われればそうっスね」

 田中が取り成すように言うと、藤原もあっさりと引き下がる。

「……極めて厳しい状況だが、このピンチを乗り切れるのはお前しか居ない。頼むぞ」

「大丈夫ですよ。あと1アウト取ればいいだけですから」

 飄々とした調子で答える藤原に、肩をポンと一つ叩いて田中はベンチに戻っていった。

 一塁側のスタンドはカリビアンと思われるファンが中南米の音楽を鳴らしたり、クーバーの国旗を振ったりと、まるで勝ったかのような大騒ぎである。それもそうだ。マルティネスはクーバー国内で圧倒的な成績を残しているスーパースターで、国民からは“クーバーの英雄”と呼ばれている。

 押し出しで同点、一打出れば逆転サヨナラ。こんな場面、出来れば登板したくないと思うのが投手心理だが……。

(逆に考えれば、ここを抑えれば俺がヒーローだな)

 思ったより緊張していなかった。自分でもさっき言ったように、あと1アウト取るだけで終わり。なんて楽な仕事なんだ。そう割り切れるのは、17年のキャリアを積んできたベテランだからだろう。


 緊急登板ということで、投球練習は通常より多めに投げられる。ブルペンで予め投げ込んできた訳ではないので突貫工事だが、ペナントレースでも同じような状況が無かった訳ではないので、特に何とも思わない。

 球を投げてみての感覚は……多分、悪くない。ストレートもいつもより早いし、変化球もキレがある。上出来、上出来。

 肩が温まったことを浜田に伝えると、主審は再開を宣言した。

 マルティネスがしっかりとした足取りで打席に入ってくる。腕まわりは丸太のように太く、それでいて体型はシュッとしている。

(……これは出し惜しみなんかしてられないなぁ)

 藤原は舌で唇を舐める。舐めてもすぐに乾いてしまう。これはスタジアムの熱気なのか、自分が緊張しているせいか。

 フゥー……と、息を吐く。少しだけ、気持ちが落ち着いた。これで十分。

 第一球。藤原は振りかぶると、右足を抱え込むように上げる。一つタメを作ってから右足を思い切り踏み込み、左腕を横から振り抜く!

 藤原の左手から投じられたボールは、ベースの手前から打席に立つマルティネスから逃げるような軌道で曲がっていく。

「―――ストライク!!」

 アウトコース低めギリギリに決まったボール。マルティネスは悠々と見送り、ストライク。このボールこそ、藤原の代名詞である高速スライダーだ。切れ味鋭く変化するスライダーは変則的なサイドスローのフォームと相まって、多くの左打者を手玉に取ってきた藤原自慢のボールだった。

(……ガムシャラに振ってこない分、怖いなぁ)

 三振上等のブンブン振ってくるスラッガーは当たれば怖いが、当たらなけばどうということはない。一打サヨナラだが1点ビハインド2アウトと追い詰められている場面だと初球から積極的に振ってくるバッターが多い中、堂々と見送る辺りは“クーバーの英雄”と呼ばれるだけある。

 狙い球を絞っているのか、それともボールの軌道を見たかったか。マルティネスの表情に変化は見られない。

 二球目。浜田はアウトローにストレートを要求してきた。一球外して様子を見ようということか。1つストライクを取れたので気持ちに余裕が生まれたので同意する。

 先程と同じように落ち着いて投球動作に入る。

 藤原から放たれたボールを……マルティネスは躊躇なく踏み込んでスイングしてきた!

 長い腕を振り抜いたバットは白球を芯で捉え―――痛烈な打球は三塁線を僅かに切れた。

(怖ぇー……)

 凄い打球に、藤原は思わずヒヤッとした。ボール一個ほど内に入っていたら、間違いなくフェアゾーンに入っていた。あんな目に留まらない速さのボールは間違いなくレフト線を破っていたことだろう。結果は言わずもがな……である。

 スコアボードに表示された球速は、138キロ。決して速いとは言えないが、まさか一発でアジャストするなんて。

 三球目。外角から落ちるカーブ。これもマルティネスはファール。

 四球目。初球と同じような軌道のスライダーで空振りを狙うが、これもファール。

 五球目。ここまで外角一辺倒だったので思い切ってインローにストレートで攻めるが、これもカット。

 六球目。インコース低めにカーブを投じるが、上手くすくい上げられてしまった。早々にライト線を大きく割る飛球となったが、白球は場外に消えていった。

(……しぶといなぁ)

 ここまで六球、全力投球の藤原の顔には、珠のような汗が浮かんでいた。

 2ストライクと追い込んでいるはずなのに、追い込まれているような錯覚に陥っていた。段々とタイミングは合ってきているし、投げる場所が無い。

 35歳。選ばれないと思っていたオリンピックの代表に選ばれた時は、マスコミは『中年の星』と騒ぎ立てた。内心「俺は中年じゃない」とささやかな抗議はしたが。ここまで期待を背負うのは生まれて初めてのことかもしれない。

 中継ぎというポジションは難しさの割に給料に反映されない影のような存在で、正直なところ割に合わないと思っている。それでも、日の丸を背負って投げられることに誇りを覚えていた。中継ぎって悪くないんだぞ、と全国の野球ファンに示したかった。

 七球目。俺は浜田のサインに何度も何度も首を振った。俺の中で投げる球は決まっていた。サインが合わないことにたまった浜田はマウンドに歩み寄ってきた。俺は意中の球を告げると、浜田は驚きの表情を浮かべた。

「正気ですか!? 絶対打たれますよ!?」

「打たれたら俺が責任を取る」

 そう言うと浜田は渋々といった態で引き下がっていった。悪いな、オッサンのワガママに付き合ってくれて。心の中で頭を下げる。

 運命の七球目。勝負球として選択したのは……代名詞であるスライダーをかなぐり捨て、インハイへのストレート!!

 マルティネスも待っていたとばかりにスイングしてくる。意地と意地のぶつかり合いである!

 勝負の行方は―――白球は浜田が構えたミットの中に、一筋の糸のように真っすぐ突き刺さった。

 140キロ。お世辞にも早いとは言えないボールだったが、今大会屈指のスラッガーから空振りを奪った。

 その瞬間、チームは悲願だった金メダルを確定した歴史的快挙が達成された。




 後年「藤原の七球」として、プロ野球の歴史に名を刻む名勝負として語り継がれることとなる……。




 (了)

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