ヤムやんの絵
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ヤムやんの絵
山小屋には毎年夏になると、絵描きのお姉さんが来る。
ヤムやんはお姉さんが来るのを楽しみにしていた。
***
ヤムやんは、ベトナムから出稼ぎにきた少年だった。
小屋は北関東と東北の境の山間に位置している。山のふもとの駐車場から徒歩で約三時間かけて歩いてこなければならないこの山小屋で、ヤムやんは働いていた。仕事内容は厨房での料理の下ごしらえや温泉の湯船の掃除、そして宿泊客のためのベッドメイキングなどである。
稼いだお金は本国にいる母親の元へ送る。そうして、ヤムやんの弟や妹たちは暮らしていけるのだった。
そんなヤムやんが働く山小屋に、夏になると絵描きのお姉さんがやってくる。
お姉さんは小屋からさらに登った場所に広がる湿原で風景画を描くために、この宿に毎年ひと月ばかり逗留するのだった。
ヤムやんはお姉さんが好きだった。いつも白い服を着たお姉さんはいいにおいがしていて、それに目がとても澄んでいてきれいだった。
それに、ヤムやんはお姉さんの絵も好きだった。お姉さんが描いた湿原の風景の油絵や、宿の近くでさっと描いただけのスケッチなどにも、風が流れているようだとヤムやんは思っていた。
ただの紙のなかに風が流れている。絵のことはぜんぜん知らないヤムやんだったが、それだけはわかって、しかもそれが何か絵というものに関しては、とても大切なものに感じるのだった。
山小屋にやってきて数年が経つと、ヤムやんは日本語もしっかりと話せるようになり、毎年来るような馴染みの客とも仲良くなった。
お姉さんとも楽しく話せるようになった。ヤムやんはよりいっそうこの美しいこころを持ったお姉さんが好きになった。
お姉さんはヤムやんに絵の話をしてくれた。
絵はこころの原風景を映すもので、とてもすばらしいものだということ。
ヤムやんは、その話を聞いてうれしくなった。そして、自分も絵を描いてみるとお姉さんに話した。お姉さんは、それはとてもいいことだ、といった。
***
ヤムやんはそれこそ山のように絵を描いた。
お手本は、宿の建物のところどころに飾られている、お姉さんから小屋へと贈られた絵だった。
ヤムやんは、いらない紙や帳面を見つけるとすべてそれをスケッチ用紙として手元に集めておき、それを使って絵を描くことを繰り返した。
暇な時間のある日は、紙と鉛筆を持って宿の横を流れる川の上流まで登り、広がる湿原の景色を描いた。
最初は素人絵だったヤムやんの絵にも、だんだんにリアリティや叙情が浮かんできた。
絵ばかり描いているかといえばちゃんと小屋の仕事もこなすヤムやんに感心して、宿を仕切るおかみさんは、彼のために山の下の大きな町で絵の具を大量に買ってきてくれた。
ヤムやんは、色を手に入れた。だから、ヤムやんは四季も手に入れたのだった。彼は絵の具を使って、山の四季を丁寧に描き出していった。
翌年の夏、またお姉さんがきた。
おかみさんがヤムやんをお姉さんの前にひっぱっていった。
「この子ったら、マユミさんのまねをして絵を描いてるんです。マユミさんの絵そっくりの絵を。よかったら見てあげてくださいな」
「見せてみて」お姉さんはやさしくヤムやんにそう話しかけた。
ヤムやんはこくりと小さくうなずいて、自分の狭い部屋から描きためた絵を持ってきた。どれもこれもが、余り紙に描いたようなものばかりだったので、ヤムやんはとても恥ずかしかった。
しかしお姉さんは目を輝かせていった。
「すごいねえ、ヤムくん。こんなにたくさん描いたんだね。しかも一年でこれだけ上手になって。それにしても私の絵に似てるなあ」
それはそうだ。だってぜんぶあなたの絵をまねて描いたのだもの。しかし恥ずかしくて、ヤムやんはそう話すことができなかった。
その年は、それまでのヤムやんの人生のなかで一番美しく楽しい年になった。
絵のことでお姉さんとたくさん話ができたし、何度かはお姉さんにお供して湿原までスケッチにでかけたこともあった。
特に、お姉さんがヤムやんの手をとって、スケッチの仕方について教えてくれたとき、ヤムやんは自分の肌がお姉さんの肌と触れ合っていることに奇跡を感じ、震えてしまった。
そしてまた数年が経った。天賦の才があったのか、いつの間にか、ヤムやんの画力はお姉さんのそれを追い抜いてしまった。
***
その年やってきたお姉さんは、ヤムやんの絵を見て驚愕した。
自分のものよりも出来がいいのだ。
水彩だ、油絵だ、そういうこととは別問題だ。
彼の絵は自分の絵よりもすばらしい。美しい。
彼女はそれに気付いてしまった。
ヤムやんはそれに気付いていなかった。
というよりも、ヤムやんにとってお姉さんは永劫無比の至高の存在だったので、自分とお姉さんを比べるということ自体が、頭にのぼらなかった。
だから、その年はお姉さんがいつもよりしゅんとして静かで、あまり自分と話してくれないことが不安だった。
なぜだろう。
僕は何か悪いことをしたのだろうか。
絵を描いてはいけなかったのだろうか。
お姉さんを傷つけるような何かをしてしまったのだろうか。
わからない。わからない。ああ僕がベトナム人ではなくて、日本人で、お姉さんと同じくらいの年齢と人生の経験を持っていたら、もう少し、今どうすればいいのかわかるかもしれないのに。
その年、お姉さんは例年よりもかなり短い期間しか小屋に滞在しなかった。
その夜から、ヤムやんはしばらく泣いて暮らした。なぜかわからなかったが、自分がお姉さんに対して何かとても悪いことをしてしまったことが、それが何なのか正体はわからないにせよ、自分自身で強く感じられたからだった。
***
その年の秋にお姉さんが山小屋に来た。山の森が真っ赤に燃えるころだった。
「あら、めずらしいですねこんな時分に」とあかぎれが切れはじめた手をこすりこすり出てきたおかみさんに、お姉さんはヤムやんを呼んでくれるようにと頼んだ。
谷の夕暮れ時の弱い光が差し込むオレンジ色の暗い八畳の部屋で、ヤムやんとお姉さんは向かい合って座っていた。
「ヤムくん」
「はい」
「お願いがあるの」
「はい」
「あなたの絵を、私にくれないかしら」
「えっ?」
「あなたの絵が、ほしいのよ」
「いいですよ」
「売ってほしいの」
「いえ、お姉さんがほしいなら、あげます」
「だめよ。売ってほしいの。どうしても」
「なぜですか」
「……プライドよ」
「プライドって、なんですか」
「……あたしが絵描きだという、そういうことよ」
「むつかしくて、僕にはわかりそうもないことです」
「そうかもしれないわ」
「とにかく、売ってほしい。でも……」
「……」
「私には、お金があまりないの」
「だからお金は……」
お金はいらない、そういおうとしたヤムやんの唇を、お姉さんの唇がふさいだ。西日は少しずつその光の筋を減らしていき、とうとう部屋は真っ暗になった。
ヤムやんは童貞だった。童貞でなければ、お姉さんがうらやむような絵は描けなかったかもしれない。
***
次の年から、お姉さんは来なくなった。ヤムやんは、またお姉さんが自分の絵をほしいといってきてくれるのではないかと期待して、絵を描き続けた。
***
数年後、ある画商が山小屋に泊まった。
画商はその山小屋の造りや風情がたいそう気に入って、おかみさんに建物中くまなく見せてくれと頼んだ。おかみさんはどうぞどうぞ、何もないところですが、といって小屋の中を案内した。
それでたまたま画商がヤムやんの部屋をのぞいたとき、ヤムやんの布団の枕元に、彼の描きかけの絵があるのを見つけた。部屋にはお姉さんの描いたスケッチが、ヤムやんの手作りの額に入れられて壁に大事そうに飾ってあったが、画商はそちらには目を向けなかった。
「これを描いたのは誰ですか」
仕事中だったヤムやんが呼ばれ、画商と顔をあわせた。
画商はじろじろとヤムやんを頭の先からつま先まで見た。「日本人じゃないね」
「ベトナムから出稼ぎで来てるんです。毎年ここに泊まりにきていた女性の画家さんにあこがれて絵を描いていたら、たいそううまくなってしまって……」おかみさんが説明した。
翌日から、画商から画用紙と大量の絵の具を渡されたヤムやんは、湿原で絵を描いた。
仕事はしなくていいのかとおかみさんに尋ねたが、今回はこれが仕事なのだといわれたので、そういう仕事もあるのかと思い、毎日湿原に足を運んだ。
画用紙は鉛筆のすべりがよかった。
いい絵の具を好きなだけ使っていいというのも、うれしかった。
ヤムやんが描いた、ミズバショウが咲き乱れる湿原の風景画を大事そうに懐に抱え、画商は山を降りていった。
ヤムやんが画商に連れられて山を降り、東京で行われた絵画展の授賞式の舞台上に立ったのは、それから数カ月後のことだった。
***
ヤムやんは当初、山を降りるのを渋った。理由はふたつ。
ひとつは、小屋を離れて働いていけるのか、不安だったこと。
もうひとつは、もしかしてまたこの小屋をおとずれてくれるかもしれないお姉さんに会えなくなってしまうかもしれないから。
しかし、小屋のおかみさんは、都会の暮らしが辛かったら、いつでも戻ってきていい。ちゃんと働かせてあげる。それよりも、都会で絵描きとして一旗あげて、故郷に錦を飾るのが男ってもんじゃないのかね、と励ましてくれたから、ひとつは解決。
そしてもうひとつの心配ごとは、画商の田中さんが、もしその女性(お姉さん)が絵描きなら、芸術会か何かの会員に登録しているはずだから、そこからたどってかならず見つけてあげる、と約束してくれたから、ヤムやんは画家として都会に出る決心をつけたのだった。
ヤムやんの絵は売れた。飛ぶように売れた。
ヤムやんは風景画しか描けなかった。どんな人物も、どんな動物も、どんな抽象画も描けなかった。
しかし、ヤムやんの描く、草花と空模様だけが写りこんでいる風景画には、何か人のこころにさあっとさわやかな風を吹き込むような魅力があった。だから、人々はヤムやんの絵を愛した。
しかし、ヤムやんはどんなに評価されようと、常にこう思い続けていた。自分の絵は、お姉さんの絵があったからこそ、お姉さんに会えたからこそ、描けるようになったものなのだと。
***
ヤムやんは、立派な青年になった。立派な画家としても成功していた。そして、若かりしころに身につけたやさしさや素直さも、失ってはいなかった。
昔は山小屋で古臭い作業着を着て毎日の仕事にあくせくしていたが、今はしっかりとしたスーツに身を固めていた。だが、ヤムやんは昔の自分を卑下してみるようなことはなく、昔の自分がいたからこそ今の自分があるのだと、自分に自信を持っていた。今でもおかみさんをはじめ、山小屋の人々とは頻繁に連絡をとるし、一年に何度かは泊まりに行って、いい関係を保っている。
ただ、ひとつだけ足りないのがお姉さんの存在だった。
現在ヤムやんのパトロンになっている画商の田中さんは、今だに一生懸命お姉さんの居場所を探してくれている。
お姉さんの名前は確かに芸術会会員名簿のなかにあった。しかしそれは数年前の話だった。
ヤムやんがお姉さんに自分の絵を渡したあの年から、お姉さんの名前は会員の名簿から消えてしまっているという。それで、手がかりがない。
ヤムやんはその日も、お姉さんのことを考えながら、ある画廊に向けて街中を歩いていた。
すると、町の片隅の小さなギャラリーで、風景画の展示会が行われているのを見つけた。
ヤムやんは何気なくそのギャラリーに入った。狭いギャラリーのなかには、十数点の風景画の展示があり、数人の人がいた。
絵は奇怪だった。もともときれいだったであろう自然風景の上から、濃い藍色や黒、紫や黒っぽい赤が塗りたくられている。これが風景画といえるのか。ヤムやんは胸が痛くなった。
それでも会場を出なかったのは、それらの黒い絵に、わずかな懐かしさと親しみを感じたからだ。そうだ、もし僕の絵に黒や濃い青や紫を無作為に塗ったら、このようになるかもしれない……。
ギャラリーの中心で静かに立っている人、それがお姉さんだと気付くのに、時間を要した。
お姉さん? もうお姉さんではない。おばさんだった。いつの間にこんなに歳をとったのだろうか。髪の毛はきしんだように縮れ、半分ほど白髪が混じっていた。かつてはかけていなかった眼鏡をかけ、顔中には皺がよっている。背中は何かから刺されるのを守るかのように丸くまるめられ、背がかなり小さくなってしまったように見える。
着ている服は、昔は白い服しか見たことがなかったのに、今は全身、上から下まで真っ黒の服だ。
そして、一番変わってしまったのは、目だ。昔はやさしさと素直さがはっきりと感じられた澄んだ目をしていたお姉さんなのに、今は埃が黒目のなかの光彩に入り込んでしまったかのように、濁った目が、開いているのも億劫なように、だらりと開かれている。
「お姉さん」ヤムやんは声をかけた。
「知ってるわ、ぜんぶ」お姉さんは、声をかけてきた青年が誰なのか、すぐにわかったらしい。彼女は疲れたように言葉をつむぎだした。
「あなたの存在が、わたしの人生を台無しにした」
「なんでですか、僕はただ……」
「そう、あなたはただ、まねただけ。好きな人の描いた絵を、必死でまねしただけ」
「そうです。だから……」
「でも、そんな簡単なことが、人生の命取りになることもあるんだわ」
「……」
「あなたはいつしかわたしを追い越してしまった」
「そんなこと……」
「純粋さという点で、わたしは自分に自信もあったわ。でも、あなたにはかなわなかった」
「……」
「なたよりもいい絵が描ける自信がなくなった」
「でも、なんでいきなりいなくなっちゃったんですか……」
「わたしはあなたから絵を買って、それを自分の作品として売ろうとした。あなたの絵はわたしの絵のグレードをあげたものに違いないから。でも、だめだった」
「なぜ……?」
「ばれたのよ。簡単に。わたしが描いたものじゃないって。絵なんて、複雑なようで単純ね。描く人によって、絶対に違いが出る。わたしは贋作なんか、信じられなくなったわ」
「……」
「それで、わたしの信用はがた落ち。誠実さを売りにしてきた人が誠実を売り払ったら何が残ると思う? ただの絵が少しかけるだけのおばさんよ」
「お姉さんはおばさんじゃないです……」
「わたしはおばさん。白髪だらけの、目のたれたおばさん。突然そうなったわ。あなたがわたしを追い越したときに」
「……」
「あなたは何も悪くない。あなたはただ愛に生きただけ。それは真実よ。ただ、それがわたしの生活を壊してしまったのも真実」
「……」
「わたしの絵は信用を失って、わたしは絵描きとして食べていくこともできなくなった。山小屋へは、あなたに会いたくなかったから行かなかっただけが理由じゃない、もう、出かけていくような生活の余裕がなくなったのよ」
「……」
「それでもわたしには絵しかなかった。絵を描くこと以外、わたしには何も残っていなかった。たとえそれが不純なものになってしまったにしろ」
「……」
「だからわたしは絵の仕事に就いたわ。絵画教室で教えたりした。それに、もう一度、風景画以外のものも描いてみようと、一から勉強しなおした」
「それなら、お姉さんは才能があるからきっと……!」
「いいえ。聞いてヤムくん。それでもだめなのよ、もう。あなたはわたしから、創作にいちばん大切なものを奪ってしまった」
「……それは?」
「自信よ。あのときまで、わたしは自信があった。少なくとも、風景画なら、自分はある程度のものが描けるという自信があった。でも、それが外国からやってきた若い男の子に、その子がそのような意識がなかったにしろ、踏み壊されてしまった」
「……」
「しかもわたしは、自信を回復したいばかりに、あなたに体まで預けた。今思えばそれは間違った解決方法に違いなかったけれど。あのときはそれくらい、わたしはあせっていた。パニックだったのよ。自信を取り戻さなきゃ、いいえ、わたしから奪われた何かをあなたからとりもどさなきゃって」
「……」
「でもだめだった。すべてなにもかもうまく行かなかった。わたしは終わりよ。わたしは老けた。わたしはもうあながたあこがれていたマユミお姉さんじゃない。ただのおばさんよ」
「そんなことは、ありません……」
「ヤムくん、人生って不思議ね。ほんとうに簡単なことで、すべての歯車が狂うのよ」
「お姉さん、今、生活は……」
「まあ、できたりできなかったりってところね。わたしには絵しかない。でもその絵ももうめちゃくちゃ。見てよ、この絵。もうわたし、どうがんばっても、自然らしい色の使い方ができなくなっちゃったの。緑色にしたいと思ったら、紫色にせずにはいられないし、白くしようと思ったら、少しでも黒を混ぜずには、いられない。わたしの生活もそうよ。もう、幸せにはなれない。幸せになろうとすると、わたしのなかの、くずれて変な形になってしまった自信がいうの。『おまえの幸せはその色じゃない』って。だから、わたしはいつも、自分が自分を忘れてしまったような世界で暮らしているだけ。幸せも、お金も、安らぎも、なにもないわ」
「それなら、それなら僕と……!」
「やめて! ヤムくん。わたし、あなたに絵を売ってほしいと頼んだとき、いったわよね。代価を払いたいって。プライドのためにそれをさせてくれって」
「……」
「それだけは変わらない。わたしのなかから一切の自信がなくなっても、それだけは変わらないわ。わたしは安い女じゃない。安い画家じゃない。ただ、ただ、わたしは……」
お姉さんは、そこまで話すと、その場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。ふたりがもめているのを見て面倒を感じたのか、ほかに数人いた観覧者はすでにギャラリーから姿を消していた。お姉さんは泣くのを極力我慢しているようで、ただその我慢の堤防をぶちこわして、涙がいくらも溢れ出してきているようだった。
ヤムやんは立ち尽くすしかなかった。そして、お姉さんの絵をはじめて見たときから、自分のこころのなかに吹いていた風が、そのとき、突然にして止まってしまったことを感じた。
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