最終話 帰還

 振動を感じて目を覚ますと、機体はロンドン上空に来ており、窓外の雲間から遥か下を見ると、郊外の牧場地帯に羊が点在していた。一面が芝生の懐かしき我が祖国だ。クロウリーは祝福された気持ちで帰国した。空港は涼しく、早朝の霧が立ち込めていた。入国ゲートを通過すると、黒いスーツ姿の男性に呼び止められた。

「失礼、アレイスター・クロウリーさんですね」

「そうだが・・・」まさかイギリス国内でSSは無いだろうが、クロウリーは一瞬、ヒヤリとした。

「祖国への帰国、おめでとうございます。私は政府職員です」男は名刺を差し出した。名刺には、内務省の住所が明記されてあった。

「チャーチル首相が、内密にあなたにお会いしたいとのことです。一息つかれましたら、名刺の連絡先まで一報いただけますでしょうか。」やれやれ、ドイツから冷や冷やもので帰国するや否や、チャーチルが会いたいと?まったく、俺も引っ張りだこだな。

「もちろん、首相の要請とあらば喜んで参じるが、私は長旅で疲れている。少し休みたいのだが・・・」

「もちろん、休息下さい。しかし、一カ月以内にはご連絡下さい。貴下もご存じのように、目下の世界情勢は緊迫の度を増すばかりです」

クロウリーは祖国イギリスへの帰国と、チャーチルの招聘を名誉と捉えた。

 彼はロンドンの、数年留守にしていたマンションの扉を開けた。購入したマンションなので、クロウリーのものではあったが、そこは禍々しい魔術で魔王を召喚した場でもあり、また、長年の中毒となっていたコカインの費用を工面するため、彼はこのマンションを売り払うことにした。富豪として生まれた彼だが、国外追放になった折、財産を政府に差し押さえられたため、彼はそのような財政状況にあった。また、両親も亡くなったとの報を得、彼は悲嘆にくれた。コカインを止めたかったが、まるで呪いに罹ったかのように、止められなかった。

 さて、彼はチャーチルの招きに応じ、国会議事堂であるウェストミンスター宮殿を訪れた。壮麗に屹立する赤茶色のゴシック建築の建物に入り、戦時中故の厳重なセキュリティチェックを受けた後、彼はイギリス首相の執務室に通された。かのマールバラ侯爵は、大きな窓際に立ち、窓から見えるロンドン市街を見つめていた。口元にはトレードマークの葉巻を嗜み、相貌は眩しく光っていた。

「よく来てくれた、クロウリー君。まあ、座り給え」首相は、応接ソファを勧めた。

「帰国許可を頂き、ありがとうございます」クロウリーは言いながら、緑色の革張りソファに身を沈めた。

「さて、君は何故この執務室に招かれたか怪訝に思っていることだろう」チャーチルもまた、クロウリーの真向かいに腰かけながら言った。

「政治家の方が私に用がある時は、大体理由は察しがつきます」クロウリーは、首相の薄青い、人懐っこい瞳を見つめながら答えた。

「ほう、言ってみたまえ」チャーチルは、葉巻を机の上の灰皿に置き、これまた人懐っこい微笑を浮かべた。

「ドイツに滞在した時は、ヒムラーに魔術戦争に参加するよう言われました。私が求められるのは、そういう分野です。閣下も、同様の要請をされるのではありませんかな?」

「驚いた。君はナチスに加担していたのかね?」

「いいや。彼らと接触した時期はありましたが、オカルト的なことには加担していません。私は、このような危険なことには、もう、関わりたくないのです」

「世紀の魔術師も弱気になったものだ」

「霊界との接触は、危険を伴います。閣下もまた、魔術部隊を抱えておられるのですか?」

「大英帝国にも、オカルト部隊は存在する。だが、安心したまえ。私は君に、魔術戦争に参加してほしい訳ではない」

「それを聞いて安心しました。しかしそれでは、私に何をお望みで?」

「我々は、限られた部隊での戦いに限界を感じている。それは実際の戦争のみならず、精神世界での戦いにおいても同様だ。我々は、今、国民一丸となって戦っておる。精神の世界においても、それと同じことが出来ないだろうか?」

「どういうことですか?」クロウリーには、チャーチルの言うことがよく分からなかった。

「英国民全員に、魔術や祈願を実行させるということですか?前代未聞ですが・・・」クロウリーはこの意外な申し出に対し、妙に刺激的な魅力を感じ始めていた。チャーチルの申し出は意外ではあったが、それは今までに無い、新時代の扉を開くかもしれない。それは一般人が精神の力に目覚めることであり、その力のうねりは神々の力を解き放ち、これを現世に召喚し・・・。それは刺激的な新世界の幕開けになるかもしれない。危険は大きいが・・・。

「いや、国民全員にスローガンや儀式を強制するのは、後々面倒なことになるだろう。それより、何かシンボルやサインのようなもので、国民を鼓舞したいのだ。ナチスには、ヒトラー自ら考案した鍵十字のシンボルがある。我々の魔術部隊に聞いたところ、鍵十字(ハーケンクロイツ)には現実に魔術的な効果があり、ナチスの隆盛に資するところ大だというのだ。ハーケンクロイツに対抗する、魔術的なシンボルを考えてもらえないだろうか・・・。私にオカルト的な直観があれば、何かいいアイデアが思いつくのだろうが・・・」なるほどそういうことか・・・

「いや、興味深いですね。少し、時間をいただけますか。何かしら、ナチスの悪運にとどめを刺すような、効果的なシンボルを考案してみます」

「頼んだよ、魔術師君」チャーチルは少年のような笑顔で応えた。

 クロウリーは、官邸街を後にした。何だか、今までに感じたことの無い、誇らしい気持がしていた。自らの道を探求し、時には黒魔術に手を染めたころには、刺激と緊張感に満ちてはいたが、このような颯爽とした、爽快な気分は感じたことが無かった。ヒムラーを始めとするナチスの膝元に居た時も、扱いは厚遇であり、知識人としての優越感があったが、ナチスに逆らえないという恐怖が常に付きまとっていた。しかし、今はそのようなネガティブな不安は無かった。効果的なシンボルを考えつけば、連合国の勝利に貢献できる、このようなシチュエーションは、真に名誉なことと思われた。

クロウリーは、なけなしの金で借りたロンドン市内のアパートメントの一室に籠り、瞑想に耽り、新しいシンボルについて考えた。ナチスのハーケンクロイツは、ルーン文字に由来し、シンプルではあるが強力なパワーを持っている。彼が今住んでいる部屋には、以前のような蔵書が無いので(これらは全て、生活資金にするため売り払っていた)、古代文字の研究のため、彼はかつてメイザースがそうしたように、大英図書館に入り浸ることとなった。あらゆることを考慮し、彼は絵画的なシンボルではなく、身振り・手振り、すなわち儀式における肉体の動きをもって、ナチスドイツの呪力を弱め、これに打ち勝つのが効果的だと考えた。国民全員が用いることができる、シンプルで効果的なシンボル・・・。

二か月後、彼は『用意ができた』と電報を打ち、再びウエストミンスター宮殿に向かった。

チャーチルは以前と同様、執務室に彼を通した。

「さて、君に閃いた天使のお告げはどんなものかな?わが大英帝国を勝利に導くシンボルを見せてもらおう」彼は白煙が立ち上る葉巻を、卓上のガラス製の灰皿に置きながら、クロウリーに座るよう促した。クロウリーは、以前のように高級なタキシードではなく、皺の寄った黒いジャケットに身を包み、チノパンに革靴といういで立ちだったが、その表情は嬉々としていた。彼はソファに腰を下ろすなり、右手を持ち上げ、握りこぶしを作ったかと思うと、おもむろに人差し指と中指をV字に立てた。彼の瞳は少年のように輝いていた。

「・・・それは何だね?まさか・・・」チャーチルは目を細めた。

「そう、首相、これが私が考案したシンボルです。ナチスドイツの魔力を打ち破る、勝利のサインです」チャーチルは、クロウリーの右手に形作られたVサインを目を細めて見つめていた。

「美しいサインだ。いままでに在りそうで無かった・・・。そのサインが、どのようにして生まれたか、いきさつを聞かせてくれるかね」

「ええ。私は、ナチスドイツのシンボルである、ハーケンクロイツを研究しました。詳しいことは割愛しますが、この魔力は、ルーン文字のS(シゲル)を二つ重ねたことに由来します。この文字は太陽・生命力・完全性・成功・名誉を象徴します。このシンボルを二つ交差させることにより、ナチ党の勝利と成功に力を与えているのです。この魔力に対抗するには、同じルーンのシンボルを用いるのが一番効果的です。このVサインは、勝利と友情を表すルーン文字を象っています。Vサイン自体は、百年戦争でイングランドとウェールズの間で長弓兵達が用い始めたのが最初と言われています。『まだ二本指があるぞ、弓を引けるぞ』と相手に示すために使用されたようです。しかし、最近はあまり使用されない。このVサインを、連合国勝利の象徴として使用しましょう」クロウリーは、Vサインの二本指にさらに力を込めて言った。チャーチルは、灰皿の上の葉巻に手を伸ばした。葉巻を咥えながら、自らも右手でVサインを作り、手のひら側を自分の方に向けて、楽しそうに見ていた。

「いいね。これなら分かりやすく、戦意高揚にも役立ちそうだ。しかし、肝心のオカルト的な効果はどうなんだね?」

「効果はてきめんだと思われます。このVサインを、首相が国民の前に姿を現した時に必ず使用し、挨拶で手を振る時のように使用してください。あなたのカリスマ性に釣られ、Vサインは国民に定着し、なにかしら幸運を祈る時や、写真を撮られる時に使うようになるでしょう。ルーンパワーにより、VサインはS(シゲル)の過剰な力を失墜させます。ナチスドイツの敗北です」クロウリーは口角を上げた。

「・・・素晴らしい。連合国が勝利した暁には、君を魔術顧問に任命し、ナイトの称号を贈ることを約束しよう。ところでVサインは、手のひらを相手側に向けるものなのかね?」

「はい。そこは重要な点です。決してVサインを手のひらを自分側に向けてしないでください。逆向きにしてしまうと、攻撃的なパワーが自分に向けて放たれてしまいます。外向きに向けてこそ、ハーケンクロイツの呪力にダメージを与えることが出来るのです」

「良く分かった。今日は食堂に、君のための昼食を用意してある。私は公務があるので同席出来ないが、ゆっくりしていってくれたまえ。また何か用事があれば、私宛に連絡したまえ」そう言って首相は、メッセージカードをクロウリーに渡した。

「私のデスクへの直通電話だ」

クロウリーは恐縮して受け取り、官邸を後にした。

当日、会見後の公務で、さっそくチャーチルは、Vサインを使い始めた。公衆の面前に姿を現したとき、その右腕は高々と挙げられ、Vサインを示していた。以後、Vサインはチャーチルのトレードマークとして、その国民を鼓舞する演説と共に、イギリス国民に浸透していく。その後の大戦の行方は、読者諸氏もご存知の通りだ。

 さて、当のクロウリー氏は、晩年に差し掛かっていた。かつての富豪は、財産を失い、安アパートの窓際で、窓外から聞こえる庶民の歓声を聴いていた。ドイツと日本、イタリアが無条件降伏し、連合国が勝利したことを告げる喜びの声だ。クロウリーは満足していた。自分が首相に教えたVサインが、勝利に貢献したことを疑わなかった。

 彼は一息つこうと思い、壁際のバッグに忍ばせていたコカインに手を伸ばした。御年70を超えていたが、麻薬を止めることはできなかった。そして困ったことに、麻薬を購入する資金が底をついていた。しかも、麻薬中毒はましになるどこかどんどんひどくなり、主に睡眠中に妄想が襲ってきた。かつての仇敵であるメイザースや、時には魔王の幻影が現れ、クロウリーを暗黒の淵に引きずり込む夢だ。彼は毎晩、びっしょりと寝汗をかきながら目覚めた。そのような禍々しい幻影は、大戦勝利という祝事を持ってしても、止むことがなかった。邪悪なナチスドイツに打ち勝つ手助けをしたところで、魔王召喚のカルマは消えないのだろうか。コカインを鼻から吸入すると、気分が落ち着き、束の間ではあると分かっているのだが、清々しい気分になった。

 ある朝、薄明りと鳥の声が窓越しに差し込む時、彼は親族・知人をアパートに呼び寄せた。親族といっても叔父と弟だけであり、両親は既に死去し、彼には子孫もいなかった。

知人はオックスフォード時代の友人や、政府関係者達であり、5名程度だった。かつてはヨーロッパ中に名を轟かせた魔術師も、もはや世間で話題に上ることは無くなっていた。彼が親族・知人を呼び寄せたのは、死期を悟ってのことだった。長年の不摂生と、コカインの影響であろうか。あれほど頑健だった肉体も肺炎に蝕まれ、もはやアパートから出ることも少なくなっていた。叔父は、クロウリーを心配してメイドを雇い、彼の身辺の世話をさせた。

 1947年12月1日。粉雪が舞う寒い朝に、メイドはクロウリーの咳き込む音で駆け付けた。彼は身振りで飲み物を求めたので、メイドは冷水をグラスに入れてベットサイドのテーブルに置いた。彼は水を飲み干すと、少し落ち着いた後、何やら呪文のような文句を唱え始めた。

「ビラモ アンシェール バヌアツ デヒドロゲ モシャス モシャス べべロイ」これは健康を回復し、寿命を延ばすための呪文なのだが、メイドにはクロウリーが錯乱したのかと思われた。唱え終わると、「俺は困った」と言ったきり、薄くなった胸に息を吸い込むと、彼は息絶えた。

 遺体は質素な葬儀の後、ロンドン郊外の公共墓地に埋葬された。葬儀は近親者と、彼の弟子を自称する者数名、政府関係者数名が参加していた。静かな葬儀だった。

 希代の魔術師は土に還ったのだろうか。それとも、生前の悪行故に地獄へ落されたのか。はたまた、次の人生を送るため、転生に入ったのだろうか・・・。それは余人には知り得ない。現代科学は、死後の世界を明らかにしていないからだ。しかし確かなことは、彼は死を超えた存在と接触し、肉体を超越した世界に踏み入ったのだ。今生が終わっても、その強靭な精神は継続するに違いない。その驚嘆すべき人生は、後世の魔術師や文筆家、政治家にまで影響を及ぼしている。彼は魔術の歴史に一里塚を築いた、世紀のトリックスターであったといえるだろう。

【完】

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クロウリー異伝 瑠璃香介 @bwg-tekas

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