第17話 ブラック・キャメロット
飛行機で降り立ったベルリンには、春の兆しが見られ、既に気候にも温かみが出ていた。ベルリンはイギリスにも増して整然とした街並みであり、人々はフランスやチュニジアに比べると、足早に闊歩し、生き急いでいるような印象を与えた。
さて、いつ帰国許可がでるか分からないので、クロウリーは観光でもしながら本国に打診を続けることにした。ベルリン市街を散策していると、頻繁に黒シャツ隊(SS監視団)に遭遇した。彼らは市街を監視し、ユダヤ人を見つければ強制収容所送りにし、外国のスパイがいないか目を配らせているのだ。クロウリーも、入国審査では煩わしい尋問を受けたが、有名人であることと、イギリスを国外追放となっていることが決定的で、観光目的で自由にドイツ国内を移動して良い許可が与えられた。
彼はベルリンの五つ星ホテルを拠点として、しばらく市内観光を楽しんだ後、これからどうしようか考えた。イギリスへもしも戻れない場合は、ここドイツか他のヨーロッパの国で人生を終えることも考えた。そして彼はこの世界大戦の情勢を鑑み、イギリスが自分を受け入れない場合は、イギリスと敵対しているドイツで一生を終えようと考えた。
ベルリンの街は清潔で機能的だった。ロンドンほどの古風な情緒が無い分、都会的に感じられた。建物はコンクリート製の巨大なものが多く、その工業力が世界一であることを伺わせた。たまに目にする厳めしい黒シャツ隊を横目に、この世界大戦はどちらの勝利に終わるのだろうかと思いに耽った。彼としては、微妙な心境だった。このまま故郷への帰国が叶わないのなら、永住する予定のドイツに勝ってもらいたい。もし帰郷が叶うなら、当然祖国が属する連合国側に勝利してもらいたい・・・。
彼は、居場所を求めていた。このまま莫大な財産を元手に、ドイツで気楽に一生を終えることも可能ではあった。しかし、今まで派手な魔術師としての生涯を送ってきた彼は、ここドイツでも、知識層との接触を望んだ。もはや彼が求める知識は、このドイツには無いだろう。それ位、彼は自分の到達点を上に見ていた。しかし彼が抱える英知を求める魔術師、知識人、権力者がこの国にはいるはずだ・・・。かれはしばらく国内の情勢を見たうえで、『トゥーレ教会』なるオカルト結社が、政権内部に重用されていることを知った。
クロウリーは、ナチスお抱えの出版会社を通じ、トゥーレ教会のメンバーに接触することにした。トゥーレ教会は、古代ゲルマン思想を復興させ、ナチスの世界征服へ向けた侵略行為を思想的に正当化することを目的としているようだった。トゥーレ教会の頭目はナチスNo.2のヒムラーであり、彼はオカルティストだった。オカルティストと言っても、クロウリーから見れば好事家の域を出ないものではあったが。
メンバーを通じ、彼はトゥーレ教会の会合に出席することになった。会合は、ドイツ北部のヴェーヴェルスブルク城で行われていた。トゥーレ教会の団員と共に、メルセデスベンツ・コンパーチブルに乗車し、ベルリンからアウトバーンに乗って会合の地へと向かった。車両の快適さといい、アウトバーンの速度感といい、クロウリーはドイツの工業力が世界一であることを改めて実感した。ベルリンから2時間程度車で移動すると、ドイツ発祥の地である、歴史ある都市バーダボルンに入った。ヴェーヴェルスブルク城はこの街に隣接する森の中にあった。
鬱蒼とした森の中を、メルセデスは進む。このような奥深い森の中で、彼らは古代ゲルマンの儀式を実行しているのだろうか。3キロ程度進んだであろうか。件の古城が見えてきた。それは森の中に開けた小高い丘に聳えていた。古風な白亜の城で中庭が広く、中庭は長い回廊で囲われていた。城は改修中らしく、城郭の一部に木組みの足場が添えつけられており、作業員が補修していた。一緒に来た団員によると、この城はヒムラーが買い取り、莫大な金額を投じて改修工事が計画されているとのことだ。
重厚な石造りの入り口を通り、クロウリー一行は城内に入った。何度か改修をしているとはいえ、城内は城の建造時期が近代以前であることを示す装飾で溢れていた。一行は暖炉が燃え盛る応接室に通された。季節は冬であり、かなり寒かったので、暖炉の前の黒い革張りのソファに、おのおのが陣取り、ワインで体をあたためた。
この城内で、トゥーレ教会の定期会合が行われるらしい。応接室は広く、城に配属されているらしい年配の執事が、ワインはもとより、クッキーやチーズなどの軽食を銀器に乗せて運んできた。クロウリーは、ロングドライブで空腹になっていたので、これらの軽食とワインを楽しんだ。しばらく、応接間では団員達がくつろぎ、談笑していた。まだ来ていないメンバーがいるため、全員が揃うまで、この応接室でくつろぐのがいつもの段取りであるようだ。
30分くらい経った頃、入り口付近で「ハイル!」等の掛け声が聞こえた。高位メンバーが到着した様子だ。軍靴の音を石造りの床に響かせながら、三人のメンバーを従えた、背の低い男が応接室に入ってきた。その丸眼鏡、禿げ上がった卵型の頭、小役人めいた柔和なマスク・・・見まごう事なき、ナチスNo.2のハインリッヒ・ヒムラーその人だ。クロウリーは、ヒムラーの噂を耳にしていた。ジェノサイド(大量虐殺)の最高責任者であり、オカルティストでもあるヒムラー。しかし、部下と談笑するその姿からは、柔らかな物腰の事務員といった趣が漂っていた。
やがて彼はヒムラーに紹介された。側近が、ソファに足を組んで座っていたヒムラーに耳打ちし、彼は眼前にいる、髪も髭もぼさぼさに伸ばした、初老のイギリス人男性に目を留めた。
「ミスター・クロウリー。ご高名は聞き及んでいます」クロウリーは笑顔で、差し出された狂人の手を握った。手は柔らかく、労働者の手ではなく、事務員のそれだった。
「趣味のいい城ですね。イングランドでも、貴族が古城の改修を進めていますが、ここまで快適に手入れされた城はあまり無いですよ」
「ありがとうございます。この城はゲルマン発祥の地です。私はここを、第三帝国の精神的支柱とするつもりです」
「トゥーレ教会は、オカルト思想団体だと聞いています。トゥーレ教会の思想とは、ゲルマン至上主義ですか?」クロウリーの率直な物言いに、団員達は騒めき立ったが、ヒムラーは微笑みを絶やさなかった。
「我々ゲルマン民族は、今のヨーロッパの礎を築きました。先の大戦では敗れはしましたが、その後の復興と工業力の前進は、我々が極めて優れた民族であることを世界に示しました。優れたものが世界を支配すべきです。地球の寿命も有限なのですから・・・」最後のセリフはクロウリーには合点が行かなかったが、その超越民族主義が徹底しているのは自明だった。
「そろそろ会合の時間です。あなたを、この城の中枢に案内しましょう。ドイツ人以外の人を、この中枢に案内するのは、初めてなのですよ・・・」ヒムラーは言うなりソファから起立し、団員も皆続いて起立した。素早く彼らは移動した。応接間では、執事連中が後片付けをしていたが、クロウリーも遅れまいと、ヒムラーを先頭に移動する団員達の後を追った。
一行は窓際の回廊を進みながら、城の地下への階段を下って行った。大きなオーク材で出来たドアを通ると、そこは壁の各所に多数ある松明に照らされた、薄暗いホールのような空間だった。ここにも壁際に大きな暖炉があり、ほんのりと暖かな光を発していた。薄暗い中にも目立ったのは、黒光りのする、巨大な円卓だった。おそらく黒大理石でできていると思われる円卓は、優に直径5メートルはありそうだった。厚さは40センチほどあり、地面からの高さは約80センチ。円卓を囲んで、木材の古風な椅子が十三脚並んでいた。クロウリーの頭に真っ先に浮かんだの
は、アーサー王の円卓だった。
「ここにいる団員は、円卓の騎士というわけですか」
「そう、ここは通称、ブラック・キャメロットと呼ばれている。団員が、理想郷の運営方針を定める場所だ」ヒムラーは言った。それは悪魔にとっての理想郷に違いない、ユダヤ人大量虐殺を実行する輩たちだからな、とクロウリーは内心ごちた。ヒムラーの説明によると、13脚の椅子には、背面にプレートがはめ込まれており、参加する団員によって、プレートは都度その団員のものに嵌め変えられるようになっていた。ただ、ヒムラーとハイドリヒの椅子だけは固定であり、プレートの嵌め変えも不可となっていた。ヒムラーによると、総統であるヒトラーその人は、まだこのブラック・キャメロットを訪れたことが無いようだった。ヒトラーもオカルティストではあったが、ヒムラーほど入れ込んではいないようだった。
やがて、団員達はそれぞれの椅子に収まり、本日欠席のハイドリヒの席に、クロウリーが座ることになった。団員達は会合を始めるにあたり、ヒムラーの唱和に倣って古代ゲルマン語で何かしら宣誓を行った。会合の進行役はヒムラーだ。
「今日はハイドリヒ君に替わり、イギリスの賓客に席に座ってもらった。これはかなり異例なことだ。これを認めたのは、彼、クロウリー氏はこの時代の偉大な魔術師であり、同じアングロサクソンを祖先に持つイギリス人だからだ。まずは報告から聞こう。ヒマラヤの探索隊からの連絡はあったのかね?」
「残念ながら、シャンバラが見つかったとの報告はまだありません。現地の隊員は、チベット人たちの頭骨を調べ、古代ゲルマン民族との共通点を探っている所であります」末席近くの団員が答えた。
「そうか・・・。クロウリー君、君はかのシャンバラの実在に関して、どう思うかね?」
クロウリーは内心呆れながら答えた。
「シャンバラは、実在すると思います。ただ、それが物質界に顕現しているかは分かりかねますが・・・」シャンバラは白魔術師達の地球における中枢であり、精神世界に属するるはずだ。ヒムラーは、頷きながら返した。
「シャンバラは、間違いなく実在する。その王国は、ヒマラヤの奥地に隠されているのだ・・・」ヒムラーは、拳を握りしめて答えた。
「引き続き、捜索を続けたまえ。必要な物資があれば、補給隊を派遣する」
「次は、人種選別についての報告を聞こう。ユダヤ人の絶滅計画は、どこまで進んでいるかね?アイヒマン君」
禿頭で丸眼鏡を掛けた役人風の男が、これに答えた。
「四つの絶滅収容所で、遅滞なく進んでおります。このままの進行状況だと、1955年の秋までには、ユダヤ人は一人残らず、この世から消滅します」
「・・・よかろう。劣った枝は切り捨てねばならぬ。健康な枝を生かすためにな」ヒムラーはしたり顔で答えた。クロウリーは、アインシュタインをはじめとした優秀な頭脳を生み出したユダヤ民族が、なぜ劣っているのか合点が行かなかったが、ここでの質問は慎重にすべきなのは明らかだった。
「あなた方ドイツ人は、ユダヤ人を憎んでいるようだが、それは経済的な理由、つまり彼らが職を奪い、経済界を牛耳っているという認識から来ているのかね?」
ヒムラーは、目を細めて答えた。
「もちろん、彼らがゲルマン民族の職を奪い、裏で財産をくすねているという理由もあるが、これはもっと根源的な理由なのだよ。君は、神智学で説明されている人種の進化論を知っているだろう?」
「ええ、レムリア人種からアトランティス人種、アーリア人種と進化してきたという説ですよね」
「そう、ではユダヤ人の位置づけはどういうものかご存じかな?」
「われわれ有史時代の人間は、全てアトランティス人かもしくはアーリア人なのでは?」
「そう、主にアジア人はアトランティス人、そして我々白人はアーリア人に分類される。もっと根源的・秘教的な分類では、アジア人も白人も、同等にアトランティス人に分類されるのだよ。ただ、私が言いたいのは、ユダヤ人はこの地球での言ってみれば落第生である、ということだよ」
「彼らが落第生とはどういうことですか?彼らの頭脳が他の人種と比べても優秀なのは証明済みなのでは?」
「それはそうさ、彼らは他の人種よりも、地球で長く人間稼業をしているからね」
「ユダヤ人よりも古い歴史を持つ人種もありますよ、古代インドは・・・」ヒムラーは遮った。
「いや、人種の歴史を言っているのでは無い。彼らは、地球上であまりにも多くの転生を繰り返しており、そのため知性が優れているのですが、それは神の御心にそぐわないことなのです」ヒムラーは、顎の前で手を合掌させるように合わせ、微笑しながら答えた。クロウリーは、ヒムラーがてっきり無神論者だと思っていたので、神父のような物言いに戸惑ったが、ヒムラーの言う神とは、宇宙的な悪神のことだと捉えれば合点がいく。
ヒムラーは続けた。
「ある程度、地球上で転生を繰り返す中で、生命体は霊的な次元へ突入すべきなのです。しかし、彼らは地上に執着するあまり、霊的生命体の世界に参入することができず、それ故、太古より迫害の憂き目に合ってきたのです。彼らの知性が優れているのは、地球上での経験が豊富な故に他なりません」
ヒムラーの独特な人種観には興味をそそられたが、黒魔術の道であれ、白魔術の道であれ、ともかく霊的次元に突入することが地球上で転生を繰り返す目的であるとすれば、これは黒魔術師達の罪悪感を減らす思想でもありそうだ。
「君はこんなおとぎ話を聞いたことは無いかね?」ヒムラーは相変わらず微笑みながら続けた。
「ある時、師匠が二人の弟子に、激流がうねる川を対岸まで泳ぐ試練を課した。無事対岸まで泳ぎ切れば、その者は天国に入ることができる。泳ぎ切れなければ、当然溺れて死んでしまう。だが、二人は多くの財産を背負っていた。手塩に掛けて集めた財産だ。彼らは恐る恐る激流に足を踏み入れる。二人が川の真ん中辺りにまで来たところで、水深が深くなり、それ以上進むことが困難になった。このまま背中に荷物(財産)を背負ったまま渡れば、溺れ死んでしまうだろう。二人の弟子の内、若い方は思い切って大事な荷物を川に投げ捨て、そのまま身一つで激流を渡り切った。一方、年配の弟子は、川の真ん中で思案した挙句、荷物を捨てて川を渡り切るよりは、渡ることを諦めて岸に戻った。彼は今まで手塩に掛けて集めた財産の方を選んだのだ」ヒムラーは一息入れた。
「後者が、ユダヤ人だというわけですね」
「そういうことになるね」
「彼らは、経験に囚われるあまり、未知の世界に飛び込めない人種だ、と」
「解釈は自由だが、彼らは周回遅れの人種であり、謂わば地球の留年生だ」
「それにしても、何故彼らはそれほどまでに迫害を受けねばならないのでしょうか?」クロウリーは、意外と人道的な発言をしている自分に驚いていた。
「過去はさておき、我々は迫害しているという訳ではない。早く次の転生を迎えたほうが良い生命体を、次の転生に送り出しているだけなのだ。これは神の意志でもある」
どのような神なのかと、再びクロウリーは疑問に思ったが、口には出さないでおいた。
報告が続いた。話題は、ユダヤ人の大量虐殺から、目下大戦の戦況へ移っていった。しかしここは大本営では無いので、戦争の戦略を練る場所ではなかった。一通り報告が終わると、休憩時間が設けられた。円卓には、給仕がジュースやビスケット、チーズや野菜といった健康的な軽食を運んできた。ヒムラーをはじめ、ナチスの高官には菜食主義者が多かった。休憩時間中は、席を立って上階へ向かう者もいた。円卓のある部屋は薄暗く、中央で焚かれる炎を見ていると、地下室の息苦しさも手伝って催眠術に罹ったように朦朧とした気分になった。ヒムラーは足を組み、キュウリを口に運んでいた。ヒムラーは、クロウリーを見つめながら言った。
「クロウリーさん、我々ナチスドイツは、公式には知られていない部門があります。これは魔術に関する部門です」
「それは私の専門分野ですね。魔術で、何を成そうというのですか」
「目下は戦争の勝利です。この部門『ウィッチクラフト』は、決められた日にシュワルツワルトの深い森に集まり、古代の神に勝利を記念するのです。我々トゥーレ教会の一団も、このヴェーヴェルスブルクの森で儀式を行います。しかしそれは古代ゲルマン文化を復興させるためのものであり、団員達に危険が及ぶようなものではありません」
「それはあくまで儀式的なものである、と」
「そうです。しかし、この大戦において、ウィッチクラフトはもっと直接的な手段を用いて闘っています。これはあなたの専門分野でしょうが、敵の大将を呪術で呪い殺したり、防御魔術で敵の呪波を防いだりといった・・・。このような過酷な戦いを、彼女達は引き受けているのです」
「それは過酷な任務ですね。イギリスのみならず、このドイツの森でも、夜な夜な魔女達が集まってサバトを開いているという訳ですか・・・」
「ヨーロッパのみならず、アメリカでも魔女達は活発に動いていますよ・・・。このウィッチクラフトの監督を、あなたに頼みたいと思っているのです」ヒムラーはクロウリーの目を覗き込みながら言った。クロウリーは戸惑った。魔術の世界にどっぷり浸かり、その結果は娘の死という結果で終末を迎えたと思ったが、今また、魔界の戦いに引きずり込まれるのか。
「魔女の頭目・・・。私に、ドイツの戦争に加担せよと言われるのか」
「我々は世界中を敵に回している・・・。イタリアと日本を除いては。しかし総統はまた、アングロサクソン民族に敬意を払っておられるのも事実だ。つまり、あなた方イギリス人に対してだ」
「私に、祖国を敵に廻せと?」
「あなたは、国外追放を受けた身でしょう。我々と共に働けば、有意義な余生が約束されるのですよ」
「私は、もはや老境の身です。もはやこの肉体は、過酷な魔術合戦には耐えられないでしょう」クロウリーは嘆息しながら応じた。
「あなたが、魔術を実践する必要はありません。実際に儀式を行うのは、魔女達に任せてもらえばよい。あなたは豊富な見地から、彼女達にアドバイスをしてもらいたいのです」
「わかりました。引き受けましょう」クロウリーに選択の余地は無かった。国外追放の老境の身で、居場所を保証してくれるヒムラーの言うことを受け入れるしかなかった。また、クロウリーはこのヒムラーという男に興味を持った。彼は予想していたような悪魔的な人物には見えなかった。少々サイコパスの気があったが、常識を備え、実験精神に溢れていた。ドイツが大戦に勝利すれば、少なくとも合理性に溢れた世界が現出するだろう。自分を追放した西側世界ではなく、自分を受け入れてくれるナチスドイツに加担するのは、自然な流れであるように思われた。
ブラック・キャメロットでの会合終了後、クロウリーはベルリンのホテルに戻った。いつも持ち歩いている牛革のバッグの中にある手帳には、ヒムラーから渡された住所が記されてあった。そこはトゥーレ教会お抱えの魔女集団の拠点だった。ベルリンのコンクリート打ちっ放しの巨大建築を眺めながら一週間ほど過ごしたのち、彼は件の住所へ地下鉄を使って向かった。
フランクフルトの一角に、そのアパートメントはあった。扉には、『ウィッチクラフト』とドイツ語で銘打った金色の金属プレートが掛かっていた。ノックすると、しばらくして扉が少し開いた。扉の隙間から、太った女性が斜視で緑色の瞳を向けていた。
「どなたですか?」
「アレイスター・クロウリーです。ヒムラー氏の紹介を受けて来ました」
「どうぞ」女性は、タヌキのような丸い顔に微笑を湛え、クロウリーを部屋に招き入れた。部屋の中は、かなり彼の興味を引いた。そこは雑多なオブジェや動物の剥製などが所狭しと置かれており、壁も絵画やポスターで埋め尽くされていた。オブジェはヨーロッパの陶器やギリシャ彫刻のレプリカのみならず、アフリカのお面や翡翠で出来た龍の彫刻など、この部屋の持ち主が世界を旅して廻っていることを伺わせた。
この太った魔女(そのように表現するしかなかった)は、自分をワシリア・サーシャと名乗った。ロシア人の名前だ。さる侯爵家の末裔らしいが、秘密の奥義を求めて世界中を旅してきたらしい。ワシリアは、澄んだ緑色の瞳をクロウリーに据えながら、一人掛けのソファに巨体を窮屈そうに収めていた。
「私たちは、ヒムラー閣下が話したかもしれませんが、このドイツの命運をかけた世界大戦において、非常に重要な役割を担っています。この戦争が、魔術戦争でもあることはご存知でしょうか」
「ヒムラー氏から聞きました。あなたが魔女の棟梁ですね。魔術戦争とおっしゃったが、あなたがたは、どのような儀式を行っているのですか?」
「私たちは、実際、イメージ通り、森の中で儀式を行っています。深夜ウォーデンの森深くで、かがり火を炊き、バフォメットに祈りを捧げ、舞踏を行ってルーズヴェルトとチャーチルの死を願うのです」
「しかし、彼らはまだ生きていますね」
「そう、イギリスやアメリカでも、防護魔術が行われているからです。彼女らもまた(彼らかも知れませんが)、攻撃を行ってきます」
「あなたは、魔術に熟達しているように見えます。これ以上、私に何を期待するのでしょうか?」
「・・・ホロスコープ(天球図)は、ドイツの命運が尽きかけていることを示しています。こんなことは、総統にはとても言えませんがね。この命運を逆転して大戦に勝利するには、一発逆転の大勝利が必要です。あなたは、そのために適任だ」
「どういうことですか?」
「私達魔女は、使い魔を召喚して連合国の要人を攻撃してきましたが、これでは埒が明かないのです。もっと強力な攻撃が必要です」
クロウリーは、悪い予感がした。
「と、言いますと?」
ワシリアは恐れた表情で、絞り出すように言った。
「左様、魔王の召喚です」
クロウリーはため息をつき、首を横に激しく振りながら答えた。
「とんでもない!大戦に勝利したとしても、自分が地獄の業火に焼かれては何の意味もない!あなたは我々人間が、魔王を御せるとお思いか?」
「これは、光と闇の戦いの縮図です。あなたも、総統がどちらの軍勢についておいでか、見当がつかない訳ではないでしょう」
「確かに私は若いころ、黒魔術を極め、魔王を召喚したこともある。それは戦慄の経験であり、二度と同じことを繰り返そうとは思わない。彼らは大師と同じく、人間以上の存在であり、到底御せるものではないのだ」
しかし、ワシリアは納得したのか、していないのか、薄緑色の目を見開いたまま続けた。
「総統はかの存在に導かれている・・・。七十六の軍団を率いるあのお方に・・・。彼が今まで
何度も命を狙われながら、生き延びてきたのは、その高貴なお方の加護があったからじゃゃ・・・」
クロウリーは恐れた。もはや正気の沙汰ではない。当のヒトラーはどうか知らぬが、取り巻き連中は、ヒムラーにしてもこのワシリアにしても、生粋の悪魔主義であり、黒魔術に染まっている。クロウリーは、魔術の探求を続けることにやぶさかではないが、呪殺業務に手を染めるのはもうまっぴらだった。
「私は、あなたがたに協力するのはやぶさかではないが、魔王の召喚だけは勘弁願いたい」
ワシリアは、当惑したように震える手を顔の前で振りながら答えた。
「しかし、事態は切迫しておる。もはや今までの手段を続けることはできない。このままでは、偉大なる第三帝国は崩壊してしまうじゃろう。そなたはそれで良いというのか?」
老婆の目は、いまや脅しとも思える表情で血走っていた。
「魔王の力で勝利した国家は、悪魔の帝国となるだろう。俺はそんな地球に住むのはごめんだ」クロウリーは吐き捨てるように言うと、踵を返して部屋を出た。興奮気味でふらふら歩きながら、地下鉄に向かって歩いた。ベルリンのホテルに戻り、一息ついていると、不安が襲ってきた。自分はヒムラーの指令に逆らったのだから、ゲシュタポに狙われるに違いない。SSの追っ手が迫る前に、ドイツを出国しなければならない・・・。どこでもよい。フランスか、スペインか・・・。枢軸国以外の国であればどこでも・・・。クロウリーは早々にヴィトンの旅行カバンに荷物一式を詰め込み、部屋を出ようとした。
その時、不意にドアのベルが鳴った。クロウリーは、SSがこんなにも早く来たことに驚いた。あの婆め、早々にヒムラーに報告したようだな・・・。ホテルの窓から逃げるか、居留守を使うか。いずれにしてもSSに捕まるのだけは避けねば。SSに捕縛されたが最後、拷問と処刑が待っているだけだろう。魔王の召喚に同意すれば処刑は免れるかもしれないが、SSと魔王の呪い、どちらも御免被りたい。しかし彼の居室はホテルの高層階で、窓の枠に足場となるだけの幅も無いようだった。彼は居留守を使うことにした。何度もノックされるが、沈黙を保った。外からは見れない覗き窓を伺う。メッセンジャーボーイだ。まだ十代と思しき青年で、とてもSSには見えない。彼は扉をそっと開けた。
「クロウリーさんですね」
「いかにも」
「イギリス外務省からの電文です」メッセンジャーボーイは白い封筒を手渡した。
クロウリーは部屋のソファに腰かけ、ほっと一息付きながら電文を卓上のナイフで開けた。そこには、予想外の文言があった・・・
「貴下の帰国を許可する」
署名欄には「イギリス首相 ウィンストン・チャーチル」とあった。チャーチルが首相に就任し、大赦が出たといったところか。いずれにしても、ドイツからの脱出を決めていたクロウリーにとって、渡りに船だった。冷蔵庫からソーダとオレンジジュースを出し、氷を盛ったグラスに注いで、緊張で乾いた喉を癒した。しかし彼は、これ以上落ち着いている気は無かった。旅行カバンを手に取り、ゲシュタポの影におびえながらホテルをチェックアウトした。帽子を目深に被り、地下鉄にたどり着くと、ベルリン空港へ直行した。ここベルリンでSSの逮捕命令がまだ出ていないことを祈りながら、パスポートを係員に見せた。緊張の一瞬だ。しかし、職員は「グーテンターク」と笑顔で言い、クロウリーを滑走路へ送り出した。もう大丈夫だ。彼はビジネスクラスの座席に座ると、ロンドンまでの数時間、ぐっすり眠って過ごした。
≪続く≫
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