第10話 置かれた場所で咲いてなんかやらない
頬を伝う涙の感触で、目が覚めた。
スマホを見ると、午前二時。
日付は変わり、六月一日になっていた。
娘が穏やかな寝息を立てて眠っている。
その向こうには、夫。
私、また寝落ちしちゃったんだ。
二人を起こさないようにそっと立ち上がり、台所に行って水を飲む。
洗い物は、綺麗に片付いていた。
バカみたいだと思った。
ほんの少ししか話したことのない、住む世界の違う、一回りも離れた男の子が恋しくて泣くなんて。
浮き足立った人間のすることだ。
自分を、まだ少女か、女だと思っている。
言い聞かせるまでもない。
私は恵まれてるし満たされてるし、幸せだ。
現実を生きるべきだ。
地に足を付けて、娘と、夫と、本気で向き合う。
置かれた場所で咲くべきなのだ。
家庭の中で生きていく。
母として、妻として、生きていく。
ゴトン、とコップを流しに置いた瞬間、ポケットの中のスマホが震えた。
インスタの通知だった。
haruhiko_yukawaさんが久しぶりに投稿しました。
止まると思うほど、心臓が強く鳴った。
ソファーに座り、震える手で、インスタを開く。
氷の上で笑うハルくんが、そこにいた。
スケート靴を履いて、友達らしき背の高い男の子と、肩を組んでいる。
「お久しぶりです。三月末に大学から寮生は実家に帰るようにと指示があり、群馬に帰省しました。大学の授業はオンラインで受けています。今のところ群馬は特定警戒区域ではないので、母校の榛名学院のリンクが使えます。今日は久々に中高のスケート部の同期と一緒に滑りました。というわけで、僕は元気です。皆さんも、またお会いできる日まで、身体に気をつけて。#2020夏 #プロ野球見たい #今年こそBクラス脱出」
涙が溢れた。
生きよう、と思った。
母でも妻でも少女でも女でも、何でもいい。
全部であっていいし、どれでもなくたっていい。
ただ、私でさえあれば。
またハルくんのスケートが見られる日まで。
めっちゃ手を洗う。
絶対に、マスクをする。
この際アベノマスクでも全然オーケー。
スーパーに行ったら、娘にもアルコール消毒をさせる。
昨日突然「しゅっしゅ、いや」と生意気にも喋り出した。
(しゅっしゅはアルコールのことを言っている、多分)
私、また絶対に、ハルくんに会いに行く。
もう黙って帰るなんて二度としない。
できれば花束を持って。手紙を添えて。
今日もすごく良かったよって。
ハルくんのスケートが見られるから、私は生きていられるんだよって。
次会う時は、必ず言うから。
ソファーに重い身体を沈めた。
何も映っていない真っ黒なテレビ画面の向こうに、私は架空の銀盤と、その上を滑っていくハルくんのイメージを重ねていた。
(終)
インスタ・オン・アイス 天上 杏 @ann_tenjo
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