第9話 ドアラ

 マクドナルドで遅い夕食をとった後、東伏見駅のホームで震えながら電車を待っていたら、階段からハルくんが降りてきて、私は心臓が止まるかと思った。

 正確に言えば、ハルくんだけじゃなく、明東や日学のスケーターも一緒だった。

(今思えば、あれはシチズンのクラブ生で固まっていたのだ)


 私は深く息を吸い込んだ。


 今しかない。

 今を逃せば、私は一生、ハルくんと会うことはない。

 私が一方的に見つけただけで、人生が終わる。


「湯川晴彦くんですよね」

 気付けば、その背中に声を掛けていた。


「はい」

 少し怪訝そうな表情で、ハルくんは振り向いた。

 ゆるくカールした髪の毛がふわりと揺れて、いい匂いがした。


 ハルくんの目は真っ直ぐに私を捉えていた。

 ハルくんの世界に、私が立ち現れた瞬間だった。


「……あの、今日の演技、すごく良かったです」

 震える声で、私はやっと言った。

 喉の奥で必死にこみ上げてくる涙を堪えながら。


 今日だけじゃないよ。

 ほんとはね。ハルくん。

 私は、ずっと前から、あなたのことを知っている。

 ネットでも、氷上でも。

 ずっと、あなたを探していたの。


「ありがとうございます」 

 パッと笑顔になって、ハルくんは言った。

 こんなに柔らかく笑う人なのか、と私は思った。

 氷上で見せる不敵な笑みとは、全然違う。


「これ。迷惑かもしれないんですけど。ボックスに入れそびれちゃって」

 私は、いそいそとリュックからバラの花を取り出した。

 入場前慌てて押し込んだから、フィルムがくしゃくしゃになっていた。

 しまったな、と思ったその時


「あ、ドアラ」

 急にハルくんが、私のリュックのジッパーを凝視して言った。


「え?」

 唐突すぎて、私はハルくんが何と言ったのか聞き取れなかった。


「ドラゴンズ好きなんですか?」

 ハルくんは、私の付けているドアラのキーホルダーを指差していた。


「はい……」

 目茶苦茶好きってわけじゃないけど。

 プロ野球なら、一応ドラゴンズファンだ。

 十年前の日本シリーズ。抑えで投げる浅尾に一目惚れして以来、惰性で。


「俺もドラゴンズファンなんです」

 一人称が俺なのが意外だ、と私は思った。


「え、群馬の人でドラゴンズファンって珍しくないですか」

 呆気にとられつつ私が言うと


「松井雅人が前橋出身だから。俺、プロ野球選手でMMが一番好きなんです」

 さらりとハルくんは言った。


「じゃあ、今はオリックスファンに鞍替えですか?」

「や、惰性でドラゴンズファンのままっす」


 私は思わず吹き出しそうになった。

 心が軽くなった。

 趣味、プロ野球観戦。

 なるほどね。


「花、ありがとうございました。また見に来てください」


 ハルくんは私があげたバラを振って、電車に乗った。

 扉が閉まり、発車する時、ホームに立つ私の目を真っ直ぐ見て、礼儀正しく会釈した。


 また見に来て下さい。

 ハルくんの声にはエコーが掛かり、ずっと私の脳内に響いている。



 ハルくん。

 ハルくんはちゃんと生きてる?

 今、どこで、何をしているの?

 プロ野球、結局開幕しなかったね。

 ドラゴンズ、今年こそBクラス脱出だと思ってたのに。


 ……違う。

 本当に言いたいのは、そんなことじゃない。


 ハルくん、スケートはどうなったの?

 私がまた、ハルくんのスケートを見られる日は、本当にやって来るの? 

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