暗いアオハルの冬、淡いギンハルの夏

御剣ひかる

ギンハルしよう

 あの日の苦し紛れな約束は、まだ生きているのかな。




 一九八九年、元号が昭和から平成に変わった年、わたしと彼は入学したての大学で知り合った。最初は友達の友達という感じだったのだが、グループで遊びに行くうちに親しくなった。


 彼がふざけている時に言う「はーい、すみませーん」というおどけた声とイントネーションがグループの中ではやったっけな。わたしもよく使ってた。


 付き合いも就職活動も順調だった。いわゆる「バブル崩壊」の時期に就職が引っかかったが、彼はそこそこ大手の会社に内定がもらえて、わたしは子供の頃からの夢だった中学校の教師になった。


 でも二年後、すべてがひっくり返ってしまった。


 そろそろ結婚の準備を考えていた一九九五年の秋、彼が勤める会社が不渡りを起こしてしまった。倒産こそしなかったけれど会社は早期退職、希望退職の募集を始め、定年間近の五十代と、まだ主戦力となり切らない若手がターゲットとなった。


 希望退職とは名ばかりの強引なリストラにあってしまった彼は再就職先を探すが、すっかり景気が悪化してしまったこの年に正社員で採用してくれる会社は見つからなかった。


 両親はてのひらを返したように結婚を反対するようになった。「再就職もできないようなバイト風情がうちの娘を幸せになどできるはずがない」なんて本気で言ったのだ。元号は変わったというのに結婚にはまだまだ親の影響力があった時代だ。結婚はあきらめざるを得なかった。


 彼に別れを伝えたのはその年の冬、うちの近所の喫茶店で、だった。


「チカの親がすごい剣幕で再就職もできないような――って言った時さ、頭ン中で『はーい、すみませーん』って浮かんで笑いそうになった。……ごめんな、しょーもない男で」


 うちの親への憤りもあるだろうに、彼はそう言っておどけた。しょーもないは「あの場面でそんなくだらないことを思いついた」というのと「おまえを幸せにできないようなつまらない男」という意味があったんだろうな、とは、後になって気づいた。


「わたしこそ、ごめんね」


 そんなお詫びの言葉しか浮かばなかった。何を言ったって、それこそしょうもない言い訳にしかならないって思ったから。

 だって、親の反対を押し切って絶縁してまで彼と結婚するのは怖いって心の隅っこでは思ってたから。


「縁がなかったってヤツかなぁ。今は」

「……今は?」

「もしかしたら何十年か経ったら、縁があるかもしれないだろ」

「何十年って、それじゃおじいちゃんおばあちゃんじゃない」

「いいじゃないか。時を経て結ばれるなんてドラマになりそうじゃね?」


 彼は名案を思い付いたという顔をして、言った。


「俺らが五十になる年の八月十三日にここで再会できたら結婚するってのはどうだ?」

「わたしの誕生日だね。でもなんで五十歳?」

「きりがいいだろ」

「それだけ?」

「はーい、すみませーん。それだけでーす」


 彼のおどけた様子に噴き出した。

 せめてお別れが険悪だったりしないように、っていう彼の気遣いだったのだろう。

 けれど、だからかな? わたしは答えた。


「それじゃ、約束ね」


 五十歳の誕生日に二人が独身で、ここで会うことができたなら、その時は……。




 あれから二十五年が経った。


 彼と別れてからすぐ親戚が見合い話を持ってきて、わたしは結婚した。夫の仕事の都合で地元を離れて、彼とは音信不通になった。

 夫には恋心というものは抱かなかったが穏やかな生活を過ごさせてもらった。その夫も十年前に事故で他界している。


 子供はすでに成人済み。いつだったか戯れに話した元カレとの口約束を意外にも覚えていて、「お母さん、約束の場所に行ってみたらいいんじゃない?」なんて言ってくれた。


 今日は二〇二〇年八月十三日。五十歳の誕生日を迎えた今日が約束の日だ。


 わたしの方は彼に会いに行ける条件はそろっている。

 でも彼はどうだろう。

 あの日の苦し紛れな約束は、まだ生きているのかな。

 約束といっても、しっかりと取り決めたわけじゃない。

 彼が約束の場所に来る確率は低い。覚えているかどうかも謎だ。

 そもそも場所は話に出たけれど時間の話はなかった。彼が万が一来たとしてもすれ違いになる可能性の方が高い。


 それでも、わたしは故郷に向かう電車の中にいた。

 どうして会いに行こうとしているのか自分でもよく判らない。会いたいなという気持ちはあるが、会ってどうするのか、どうなるのかは判らない。


 生まれ育った街に近づくにつれ、懐かしさと、変わってしまった街並みに驚きと寂しさを覚える。 見知った建物が増えてきて、緊張してきた。


 ドキドキしながら駅から三分ほど歩いて喫茶店に向かう。――けど。


 ない! 喫茶店がない! 今ふうの一軒家になっている。


 ショックと意味不明の笑いも込み上げてきた。ばかばかしいほど暑い空気と日差しに今更ながらにめまいを覚えた。汗も急に噴き出してきた気がする。


 わたしはよろよろと歩いた。

 実家に行こうか、どうしようか。

 頭で悩みながらも足は家に向かう。


 その途中に小さな公園がある。子供の頃より遊具は減ってしまってるけれど公園はめったにつぶれたりしないんだよね。


 木陰のベンチに座る。


 そういえばデートの帰り、家に送ってもらう時によく立ち寄ったっけ。

 ここを約束の場所にすればよかったのにと考えて、あぁ、わたしは本当に彼に会いたかったんだな、と自覚した。

 無意識に無理やり閉じ込めてた想いがあふれてきて胸がじんと熱くなる。


 うつむいてハンカチで目頭を押さえた。

 頭がくらくらする。


「大丈夫ですか?」

 男の人の声がした。


 恥ずかしい。泣いてるなんて知られたくなくて、涙を拭きとって顔を上げた。


「熱中症かもしれないですよ。きちんと水分摂ってくださいね」


 ペットボトルの麦茶を差し出して微笑むのは、記憶よりふっくらした、白髪としわが増えた、彼。


「まさか喫茶店なくなってるなんて思わなかったなー。失敗失敗」


 まるで昨日の自分のちょっとしたミスを軽く反省するかのように言って、彼はわたしの隣に座った。


 信じられなくて、嬉しくて。

 せっかく止まった涙がまたあふれてきた。

 彼はわたしが落ち着くまで、ずっと隣で微笑んで待っていてくれた。




 ファミレスに移動して、わたし達はお互いの二十五年間を話した。


 彼は中堅企業に再就職はできたけれど結婚はしていない。わたしとの約束を律義に守るというつもりはなかったが、それこそ縁がなかったと言う。

 頭もいいし顔も悪くないし、なによりあの頃のように優しいし。いい人みつかりそうな気もするんだけど、ここでわたしが「嘘だー」なんて言ったらまるで自分を待っててくれるのが当然みたいに取られちゃうかもしれないから、言わないでおく。


「今日は会えると思わなかった。結婚したの知ってたし、音信不通になったから」

「じゃあ、どうして来たの?」

「んー、なんでだろうなぁ。会えたらいいなって希望も少しだけあったけど。懐かしさ半分、思い出への昇華半分ってところかな。……あ、今俺かっこいいこと言ったな」

「自分で言うか?」


 おどけて笑って、コーヒーを飲む彼。目じりのしわが深くなった。


 心が、少しだけ揺らされた感じ。ざわざわっじゃなくて、ふわふわって。

 それは心地よい感情だった。


 でも、だからって改めて付き合おうとか、ましてや結婚しようとか、そういう言葉は軽々しく出てこない。


 時の流れってそういうものかもしれない。いいも悪いも、少しずつ、本当に少しずつ、削り落としていく。彼への想いは否定しないけど、もう単純に好き嫌いで人間関係は変えられない。


「で、こうして会えたわけだけど、さすがに『はーい、けっこーん』ってわけにはいかないよな」

「そうだよねぇ。あの頃のような勢いはないかな」


 悲しいけど。あなたとのことはいい思い出として――。


「ってことで、ギンハルしよう」

「は? ギンハル?」

「最近は青春のことをアオハルっていうみたいだし、もうすぐシルバー世代の青春で、ギンハル。若さと勢いはないけど、熟練された大人の恋って感じで」


 言いながら彼がスマフォを出してきた。


「連絡先交換しよう。またゆっくり、関係を築いていきたい」

「……ちょっと、なにそれ、反則」

「え?」

「ここでこそ『俺かっこいいこと言った』とかおどけてよ。嬉しくて泣いちゃうじゃない」

「はーい、すみませーん」


 噴き出した拍子に涙が一粒、零れ落ちた。


「では改めて、再会とチカの誕生日のお祝いに行こうか」

「うん、ありがとう」




 こうして彼ともう一度会うことができたけれど、これからどうなるか判らない。

 今は再会の喜びで舞い上がってるけど何度か会ってみたら付き合うのはちょっと、と思うかもしれないし思われるかもしれない。

 結婚を考えるにしても晩婚だし、わたしは再婚だし、あの頃と違う意味でハードルは高い。

 けれどせっかく再会できたのだから、このギンハルを、大切にしたい。



(了)

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