リ・スタート

白猫亭なぽり

リ・スタート

 青空に信号雷管ピストルの音が響き、決戦の火蓋が切って落とされる。

 関係者だけが立ち入りを許され、まばらに観客席の埋まった陸上競技場。そのはるか向こうではすくすくと入道雲が育ち始めていた。オールウェザーのトラックに沈殿した大気は昼下がりの陽光に焼かれ、ゴールラインの向こう側を歪ませている。

 成夏、国民体育大会陸上競技県予選会、少年女子百メートルハードル決勝。

 その一部始終を、かなではスタンドで見ていた。本来なら部のエースとして、将来を嘱望しょくぼうされた競技者アスリートとして、トラックを駆けていたはずの彼女だが、今日はタイムテーブル通りに進む競技を眺めるだけの傍観者だ。

 号砲から決着までは、十五秒もかからない。

 それ故に、わずかな失敗は確実に蓄積され、取り返しのつかない差に変貌へんぼうして選手たちに牙をむく。自分のハードリングを崩した者は、十台の障害物ハードルの先に待つゴールで、タイム差という負債の支払いを迫られるのだ。

 プレッシャーを跳ね除けて優勝したのは、奏とも面識のある選手だ。居並ぶ八人の中で真っ先に電光掲示板の時を止め、自己記録を更新した彼女は、レース中の鬼気迫る顔から一転、大輪の花咲く笑顔とともに仲間へ手を振っている。

 その様子を目の当たりにした奏の顔に、陽光が落とすものとは明らかに異なる影がさす。


 怪我さえなければ――。


 勝負の世界にはない。

 人生を振り返ってを言ってもきりがない。

 それでも、奏はまだ、心身ともに発展途上の少女だ。走れさえしていれば、あの場所で仲間と喜びを分かち合っていたのは自分だったのに、と思ってしまうのも無理からぬことではある。

 歯車がずれたのは、いつだっただろうか。

 冬から春に猛威を振るった新型肺炎は、インターハイという目標のみならず、仲間と切磋せっさ琢磨たくまする機会すらも高校生から奪っていった。奏やその仲間たちも例外ではない。休校期間中は部としての活動も当然禁止される。その間にできることといえば、一人きりで延々と走り込みを繰り返すくらいのもの。スターティングブロックを置き、ハードルを並べて技術練習をするなんて、夢のまた夢だった。

 結局、登校と部活動の再開に目処めどが立ったのは、梅雨の終わりの足音が聞こえはじめた頃だった。

 シーズン最初の大会は国体予選。今までの遅れを取り戻すように、奏の練習も日に日に熱が入っていったが、よりによって大会直前に足首を捻ってしまった。選手生命が危ぶまれるものでなかったのは幸いだったが、待望のレースは欠場を余儀なくされた。

 グラウンドで男子のハードル競技に向けた準備が進む中で、奏は無意識のうちに足首に目線を落とす。スカイブルーのジャージも包帯を隠してはくれるけれど、大会をただ眺めるしかない悔しさと淋しさまでは紛らわしてくれそうにない。

 奏は静かにスタンドを後にした。その足取りは、怪我だけでは説明がつかないくらいに弱い。ずぶ濡れになった子犬すら、今の彼女ほどはしょぼくれてはいるまい。雑誌や新聞の取材を受け、いつか世界を相手に戦うと期待されたハードラーと、今の奏を同一視できるものは、果たしてどれほどいるだろうか?




「おかえり」

「あ、ただいま」


 チームの拠点テントで一人膝を抱えていたら、奏の幼馴染で部のマネージャーを務める真希まきが戻ってきた。水道を使ってきたのだろう、ウォータージャグを両手にぶら下げている。


「……なんか、いつにもましてボーッとしてない、あんた?」

「そんなことないよ、いつもどおりだって」

「どうかしらね? 暑さで頭やられたりしてない?」


 叩く軽口とは裏腹に、先程まで日向にいた奏を気遣ってか、真希はスポーツドリンクを手渡してくれる。

 彼女が奏に投げかける言葉には、遠慮会釈がない。それでも不快に感じないのは、単に付き合いが長いという理由だけではなく、さっぱりした爽風のような人柄と、奥底に流れる思いやりがあるからだろう。


「ほら、水分、ちゃんとんなさいよ」

「ありがと、真希」


 カップを受け取る時に図らずも交錯してしまう、指と指。自らの日焼けした指から伝わる、少し冷たい真希の体温が、奏の心臓を跳ねさせる。競技者としてスタートラインに立つときすら、ここまで胸は騒がない。

 幼い頃から側にいて、いいことも悪いことも包み隠さず指摘し、時に励ましてくれる頼れる存在――真希に気遣ってもらえるのは、正直嬉しい。叶うなら自分だけを見てほしいという本音も認めざるを得ない。

 だが、それは胸に秘めておく。


「ハードル、誰が勝った? やっぱり時任さん?」

「うん。あのタイムは、たぶん自己ベストじゃないかな」

「この暑い季節にねぇ……。次にぶつかるのは秋の新人戦か。勝算は?」

「どうかねぇ」


 奏が浮かべた弱々しい苦笑いに、煮え切らない態度。それはどうも真希のお気に召さなかったらしい。腹立たしげに眉を釣り上げたマネージャーは、眼鏡をキラリと光らせたかと思いきや、力任せに幼馴染のほっぺたをひっぱった。被害者の口からこぼれだすのは、困惑混じりの抵抗ばかりだ。


いひゃい! 何すんのさ!? 横暴だよ真希!」

「そこは『負けない』って言ってほしいところね。怪我はたしかに残念だけど、ずっと引きずってちゃだめじゃない。あんたは一人の選手であると同時に部長で後輩を引っ張る立場、エースでチームの顔役なの。そこのところわかってる?」

「そうは言うけど……あたし、こんなんじゃん?」


 奏は困った顔で背を丸める。一七〇センチメートルを超える背丈の彼女だが、表情も相まって妙に小さく見えた。

 恵まれた体格と身体能力に加え、地道な練習に裏打ちされた高いハードリング技術を持つ。にもかかわらず、成績にムラが多いというのが、彼女の競技者としての悩みだ。予選をギリギリで通過した数時間後の決勝で、人が変わったような走りで優勝を掴んだこともある。その逆もまたしかりだ。速いけれど脆いという評価が、奏の競技人生にはずっとついて回っている。

 選手としても未熟なのに、ましてや部長なんて、と弱音を吐きそうになる奏の額を、真希は人差し指で軽く小突いた。


「あんたは今でも速いし、強くなる余地もきっとあるんだから、もっと自信持ちなさい。周りの人が評価するより、あんたはずっと真っ当な選手よ」


 まなじりを吊り上げた幼馴染が投げかける、厳しくも温かい激励。困っている自分に手を差し伸べてくれる真希は、奏にとって唯一無二の存在だ。叶うことなら、ずっと一緒にいたいし、そばで笑っていてほしい。

 でも、今の奏が紡ぎ出せるのは、友人同士の間では通じる冗談ばかりだ。


「……真希、お姉さんみたい」

「こんなでっかい妹がいた覚え、ないわよ」

「じゃあ、お母さん?」

「なお悪いわ!」


 付き合ってほしいとか、恋人同士になりたいだとか。

 たとえ冗談交じりでも、そんな本音を口にするのはさすがにためらわれる。大切だからこそ、親友の領域へ踏み出すのが、怖い。素直に想いを伝えられる強さが、彼女には不足していた。

 走路レーンにずらりと並ぶハードルなら、いくらでも飛び超えてみせる。なのに、こと想い人の前では、そんな気概もどこぞへ隠れてしまい、踏み切る足にためらいが出てしまうのだ。


「……奏、あんた、本当に大丈夫? さすがにぼーっとしすぎじゃない?」

「え、そんなことないよ?」


 隣りにいる少女に抱く想いは、奏の反応をわずかに鈍らせ、即座に違和感となって表出する。ただの友人であれば看過されてしまうであろうところだが、幼馴染が疑問を抱くには十分にすぎた。


「ちょっと見せなさい」


 奏の取り繕いに秘められた真意など、真希は意に介さない。互いの前髪をすっとかき上げると、額をそっとひっつける。二人の距離を否応なしに縮める古典的な体温計測は、奏の頬に余計な血液を巡らせ、紅く、熱くする。

 クラウチング・スタートの姿勢をとり号砲を待つ瞬間に似た、永遠に限りなく長い一瞬。

 まばたき数回にも満たない甘美な時間は、真希が額を話したことで、終わりを告げる。あとにはほのかに残り香が揺れるばかりだ。


「大丈夫だと思うけど、なんかあったら言いなさいよ?」

「わかってる」


 奏の返事はややつっけんどんであるが、それは照れ隠しではない。実際、その頬からはすでに紅みが退いている。

 彼女の心を占めるのは、心のそこからぐぐっと鎌首をもたげる違和感だ。


 ――今日の真希、何か違う?


 足元を固めるランニングシューズ、チームカラーのハーフパンツとTシャツ、首から下げたストップウォッチ、色白で細い手首に巻かれた腕時計、両の肩より少し上で切りそろえられた黒髪、そしてトレードマークの銀縁眼鏡。一見した限り、真希はいつもとさほど変わらないようにも見える。

 では、なぜ、胸のモヤモヤが晴れないのか?


「真希先輩、奏先輩、お疲れさまです!」


 深みにはまりかけていた奏の思考を現実に引き戻したのは、後輩の元気いっぱいな声だった。


「お疲れさま、ゆい。調子はどう?」

「バッチリです!」


 ウォーミングアップを終えて戻ってきた期待の新人・結は、必要以上と思えるくらいに力強くうなずく。久しぶりの大会とあって、この後に控えた決勝に向けて相当気持ちが入っているのだろう。奏が口ごもってしまったことには、まるで触れる気配がない。


「国体の出場権、しっかり獲ってきます!」

「いいお返事ね。頑張ってらっしゃい」

「ありがとうございます、真希先輩! ……できれば、頭とかなでてもらえると、もっと頑張れるんですけど……」

 

 しょうがないわね、とおねだりに応えてもらった結は、実に嬉しそうだ。しっぽが生えていたらちぎれんばかりに振り回していたことだろう。忠犬わんこっぽいと称されることも多い彼女は、表情にも行動にも気持ちを目一杯乗せてくる。その天真爛漫さが結の個性で、持ち味だ。

 ちょっと臆病で、時に気持ちを押し隠すこともある奏からするとうらやましい限り。もっと素直になれたら、真希との距離もさらに縮まるかもしれないけれど、それはトラックに並ぶ十台よりも遥かに高い障害ハードルにも思える。


「奏先輩も、いいですか?」


 弱い自分へのもどかしさがくすぶり続ける心中しんちゅうも知らぬまま、後輩はちょっと頭を下げての構えに入る。

 結のお願いに応え、髪をなでる奏の手つきは、真希のそれよりもいくらか荒っぽい。それでも、妹がいたらきっとこんな感じだろうと錯覚させてくれるくらいに、結はくすぐったそうに、そして楽しそうに笑う。


「それじゃ行ってきます、先輩!」

「ちょっと待って、私も行くわ。奏、お留守番よろしく」

「うん」


 名残惜しそうに奏の手を離れた結は、最終招集コールへ赴くべく、くるりときびすを返す。それに合わせて、ちょっと低めにくくられたポニーテールが踊り、フローラルの香りが舞い上がる。

 瞬間、奏の頭の中で、疑問が氷解する音が響いた。


 ――これだ!


 額を合わせた時に漂った真希の香りと、決勝を控えた結が振りまいた香り。二つが等号イコールで結ばれた先の答えに向けて、奏は思考を走らせる。

 彼女が知る限り、真希はこだわりの強い女の子だ。普段使いのコスメ、バッグに財布、服や靴はもちろん、ちょっとした消耗品に至るまで、自分で納得したものを使い続ける一面がある。

 そして、それはシャンプーも例外ではない。奏の記憶が確かならば、真希は香りの弱い製品を長年愛用していたはずだ。華やかな香りのものを勧めたこともあったが、私には似合わないよ、と穏やかに、しかしはっきりと断られている。

 そんな彼女が、結と同じ香りをまとっている。それが意味するものくらいは、奏にだって想像がつく。

 二人の関係に劇的な――そして認めたくない――変化があったからではないか?


 夏の日差し、蝉の声が、奏を現実に引き戻す。

 その視線の先では、二人はどちらともなく自然に手をつなぎ始めていた。


「真希!」


 胸の中で育った疑惑が確信の花を咲かせた時、奏は思わず声を上げていた。

 振り向いた幼馴染も後輩も、一見いつもと変わらない。呼び止めた当人のほうが動揺し、言葉を探す始末だ。


 ――戻ってきて。


「……結のこと、頼むよ」

「任せて」


 本音を押し殺した奏が絞り出した、陸上部の部長らしい言葉。それにこたえる幼馴染の微笑みは、いつもどおり、涼し気だ。


「結、しっかりね」

「はい! 先輩のぶんまで暴れてきます!」


 迷いない言葉で応えた後輩の眼差しは、狩りに出向く直前の猟犬のそれに似ている。真希の手を引き、跳ねるような足取りで決戦の舞台に向かう背中は、実際の身長や体格よりもずっと大きく見えた。

 手を取り合って舞台へ上がる二人を、ただ指をくわえてみているしかない現状。テントの傍らで立ち尽くした奏は、包帯が巻かれた足に目を落とし、静かに拳を固める。


 ――とっとと怪我を治して、また練習しよう。

 真希も言ってくれたじゃない。あたしはもっと、速くなれる――。


 国体予選は不甲斐ない結果になってしまったけれど、今の自分が全てではない。

 明日はもっと、明後日はもっともっと、強くなってみせる。


 次に真希の手を引くのはあたしだ。真希のことは、諦めてなんかやらない――。


「結、あたし、負けないよ」

 

 遠ざかる二人の背中を睨みつけた奏は、新たな決意を胸に呟く。

 彼女の競技生活も、恋も、まだ終わってなどいないのだ。

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