Calling

あなぐま

Calling

 雨の降る夜の倉庫街で、倒れた男から携帯端末が転げ落ちる。冷たい地面の上に転がる端末は通話中のままだ。


 いる。


 この端末の向こうに奴が、ニコラスが二年間追い求めていた相手がいる。彼にとってその人物は書類上の文字の羅列であり、解像度の低い監視カメラの映像であり、プロファイラーが語る空想上の人間だった。だが初めて会った気がしなかった。正確に言えば、会ってはいないが。


『予定より一分三十五秒遅れている。ミスターブラウン、何かトラブルかい?』


 聞こえてきたのは合成音声だった。テレビ越しに見ていた筈の大統領と対面している気分だ。だが残念ながら声を掛けられているのは自分ではない。当の通話相手なら、たった今ニコラスが射殺してしまった。どうしたものか。薄く硝煙を吐く銃を下げ、死体を跨いで端末を拾う。そして一瞬迷った後、口を開いた。


「ミスターブラウンなら俺が殺した。まあトラブルと、言えない事もない」


 上手い言葉が思いつかないまま、ニコラスはありのままを説明する。怒らせるかとも思ったが、相手は感心したように『へえ……』と言っただけだった。


『すると君はFBIかな? 武器商人の業とは言え、ミスターは随分と君達の恨みを買っていたからね』

「……いや、俺の目的はお前だ、アドバイザー」

『これはこれは、私をご指名か。つまりミスターはとばっちり。彼も不運な男だね』


 不気味に笑う声からは性別すら読み取れない。ニコラスが耳にした事のない変換方法だ。これでは録音して分析官に回しても碌な結果は出ないだろう。いや、そもそも十年近く世界を煙に巻いてきた「アドバイザー」が音声記録など残す筈もない。


『それにしても見事だ。今晩の取引はミスターにとってここ数年の集大成でね。私も真面目にセッティングしたつもりだ。どこから足が着いたのか、参考までに教えて貰えるかな?』


 露骨に探りを入れられて嫌でも警戒心が高まった。もし自分が彼の立場なら、取引を潰した捜査官など生かして帰す筈もない。引き時だ。そう思ってニコラスは話を切り上げにかかった。


「準備期間が長かったのは、知っている。だから存分に調査出来たんだ」


 決定的な手掛かりがすぐそこにある気もしたが、それ以上に身の危険を感じる。慎重に言葉を選んだ。


「できれば資料を見せて説明したい。明日十三時、五丁目のカフェで会わないか?」

『会って、かい? 君は面白い事を言うね』


 アドバイザーは楽しそうに笑っていた。ここまでにしよう、そう言外に含ませたのは伝わっている筈だ。亡霊の尻尾が掴めただけでもラッキーだった。すぐに戻って上に報告しなければ。そう思っていたが。


『いいだろう。では明日の十三時に』


 予想外の返答に、ニコラスは「は?」と間抜けな声を漏らす。


『そうだな。君も大変だったろうし、今日はゆっくり休む事だ。連絡は私からするから安静にしていたまえ。なにせ、酷い顔色だ』


 切れた。思わず周囲を見回す。だが人影などある筈もない。どこから見ていた。カメラか、スコープか、ドローンか。いや、それよりも。


「……明日?」


 雨に打たれる黒い画面を見ながら、ニコラスは茫然と呟いた。



***



 アドバイザー。


 そう呼ばれる人物に関して分かっている事は、あまり多くない。最初に現れたのは丁度十年前、場所はフランクフルトだ。移送中だった犯罪組織の大物がたった二分で護送車ごと姿を消した。死者なし、目撃者なし、足取りも不明、実に鮮やかな手際だった。実行部隊は組織の人間だったが、作戦を立案した者は別にいた。


 それからというもの、警察を手玉に取るような難事件が世界中で多発した。全て同じ人物が裏から事件を支えていたと考えられている。考えられているものの、そのアドバイザーの正体はまったく謎のままだった。


 名前も性別も国籍も、警察はともかく当の依頼主達まで知らないのだ。時に変装して現場に赴くほど大胆な人物でありながら、誰一人として近付けない。依頼主の下には金額に応じた装備と情報が届けられ、使い捨ての携帯端末からはリアルタイムで作戦の指示や脱出ルートへの誘導等が行われるという。その作戦の成功率はFBIの記録に残る限り、百パーセントだ。


『自慢じゃないが、私の覚えている限りでも百パーセントだ。つまり昨日の一件が、私にとって初めての黒星という訳だね』

「光栄だな」


 本当にかけてきやがった。事件翌日、自分のアパルトメントで報告書をまとめていたニコラスは頭を抱えていた。正体不明の世界的犯罪者と電話が繋がっていると知れば、長官はどんな顔をするだろう。


 本来ならば打てる手は多かった。FBIを総動員して待ち合わせのカフェに罠を張っても良かったし、今ここに専門の分析官を連れていれば相応に情報が得られただろう。だがニコラスはしなかった。嫌な予感がしたからだ。そしてそれは正しかったのだと机の上のテディベアが言っている。


『ところでプレゼントは気に入って貰えただろうか』

「悪いがぬいぐるみは趣味じゃない。もしよければ親戚の子にあげたいんだが」

『それは失礼した。しかし、もし貰うならテディベアでも、と君の同僚が口にしていたのだが、調べ方が足りなかったか。一か月遅れの誕生日プレゼントになるから相応の物をと思ったんだが。ああ、あげるのは勿論構わないよ。ニーナ君も喜んでくれるだろう』


 職場での雑談から姪の名前まで知っているのに調べ方が足りないとは腹立たしい。今朝八時。自宅で休んでいたニコラスの元にこの熊野郎が届けられた時は、全身から嫌な汗が出たものだ。細工された痕もなく、金属探知機にも反応なし。だが意味する所は明白だった。まるでマフィアの手口だ。


「それにしても仕事が早いな。昨日は名乗りもしなかった筈だが、名前や住所から交友関係まで調べあげるとは」

『お互い様さ。君の方こそ随分と私に関して詳しく調べているようだね』


 机の上に置いた通話中の携帯端末には、当然すぐ横でニコラスがタイピングしてる音も聞こえているだろう。意地の悪い教師に答案用紙をのぞき込まれている気分だ。


「いい性格だな。俺が何をどこまで調べているのか、もう分かっているんだろう」

『まあ君のパソコンを覗き見するくらい訳ないよ。だが実を言うと、まだやっていないんだ。こういう事は本人の口から直接聞きたくてね』


 赤点だらけの答案用紙を、教師の前で読み上げろというのか。


「いいだろう」


 溜息と共に、ニコラスはラップトップを閉じた。


「俺がこの任に就いたのは二年前の三月三十一日。上もこれ以上は放置できないと踏んだんだろう。それ以降、俺は全ての事件から手を引き、ただお前だけを追う苦行に耐えている」

『ただ私だけを、か。熱烈な口説き文句だ』

「チームは八人。同年八月二十六日、初めてお前と接触してからようやく調査は進み始めた。当時お前が変装していたと思われる男の写真も残っている。この際だから訊くが、なんなんだお前は。部屋に籠って指示だけ出していれば良いものを、どうしてわざわざ現場に顔を出す」

『必要だからだ。カメラ越しに見ているだけでは限界がある。それに私はジェーン・マープルよりシャーロック・ホームズの方が好きなのさ』


 どう考えても怪盗ルパンだろう、と言い掛けてニコラスは言葉を呑み込んだ。


「実際に目の前にしてもお前の変装は見破れないが、映像を元に人物像は絞り込めている。年齢は二十代前半。身長百六十八センチから百七十四センチ。体重約五十八キロ。左利きで英語圏の出身。特定の国や組織に縛られず協力者のいない単独犯。幼少期は父子家庭だったと思われ、現在では強い自己実現欲求がある。また結婚歴、結婚願望はなし」

『余計なお世話だな』

「後でちゃんと誕生日も調べてやるからな。ともあれ捜査が実ったのは去年のシカゴだ。犯人側の通信を逆探知してお前の居場所も絞り込み、そして踏み込んだ」

『ああ、あれは君達か。拠点撤収は外注の専門家に任せているんだが、彼も驚いていたよ。あと一分遅かったら証拠を残していたかも知れないと言っていた』


 一分。当時は余裕で逃げ切られたのだと思っていたが、僅か一分差だったとは。チーム全員でやけ酒を呷った苦い思い出が蘇る。


『なるほど、ね。ここまで迫られているとは意外だったな』

「だろうな。それにお前が義理を通すのは依頼中限定。事件後に俺達が依頼主を絞り上げてきたのも知らなかっただろう」

『たまに苦情が来るんだ。実はシカゴの件にしても、密輸品を全部失ったと依頼主に散々責められたんだが、それは私の関知する所ではない。億超えのダイヤも希少元素の化合物も興味ない。今にして思えば国ごと買えそうな金額だったし、今後の資金にと思わなくもなかったが』

「FBIのプロファイラーも指摘していた所だな。お前はあくまでプロ。善悪の概念がない所が厄介だと」

『プロファイラー? ああ、シュナイダー君か。彼は元気かい?』

「……やめろ、もう聞きたくない」


 FBIが何故ここまで手玉に取られるのか、その原因の一端が分かった気がした。端末の向こうから揶揄ったような笑い声が聞こえる。


『そう邪見にしないでくれ。こうして犯人直々に連絡しているんだ。頭脳戦を挑まれていると思って大いに捜査に活かしてくれ。そのタブレットに打ち込んでいる内容も、明日にでもチームで共有するといい』


 言われてニコラスの左手が止まる。わざとらしくパソコンを閉じたのが裏目に出たようだ。あるいは昨晩のように、遠くから見られているのかも知れない。


「そうさせてもらう」


 売られた喧嘩は買う。翌日、ニコラスはその安い挑発に乗って対策会議に臨んだ。倉庫街における武器密売事件、その裏にいたアドバイザーにどこまで迫ったかチーム八人で話し合うのだ。会議の途中で、ニコラスはお許しが出た通りに昨日の内容を皆に話そうとタブレットを開いた。だが徹夜で仕上げた報告書がチープな官能小説に書き換えられているのを見て無言で閉じた。


「ニック、どうした?」


 そう言って隣の席からクレアが覗き込んでくる。危なかった。


「……なんでもない。それよりロブの報告が気になるな。今アドバイザーが受けている仕事は、後四件だったか?」

「五件だ。また増えた。僕が言っていたのは東京の爆破テロに関してだ。予告では三日後とあるが」

「年々やる事が過激になってるわね。それだけ尻尾も出やすいけど、素直には喜べない」

「俺達もそろそろ成果を出さないと首が飛ぶ。東京の件、死ぬ気でかかるぞ」


 八人は積極的に意見を交わした。優秀なチームだとニコラスは思う。だが何かが引っ掛かった。爆破テロの支援。今までになかった訳でもないが、どうも彼らしくない。プロとして仕事をしているなどと言ってはいたが、逆にプロだからこそ受ける案件も選ぶのではないだろうか。


 すぐに考え直した。今のはニコラスの個人的な願望だ。僅かばかり言葉を交わしたといってもお互いの立場が変わる訳ではない。捜査官は犯人の思考を読みはするが、思い入れるなど言語道断だ。疲れているのだろう。


 だが休む暇など無い。アドバイザーは表に現れてから十年間活動し続け、その事件ほぼ全てが迷宮入りしている。その犯人を捕まえればどれだけの闇が暴けるか分からないのだ。もし彼のパイプを逆に辿る事が出来たなら、夥しい数の犯罪者を一斉検挙できるだろう。逃す訳にはいかない。


 皮肉な物だ。そのアドバイザーなら、今もニコラスの胸ポケットに入っている。これをクレアにでも渡せば捜査は大きく進展するだろう。だが間違いなく気付かれる。そしてアドバイザーは更なる闇へと身を隠す。姪の元にテディベアではなく爆発物が配達されるのも時間の問題だ。誰にも言う訳にはいかない。腹の探り合いなど柄でもないと言うのに。


『なんだ面白くない。会議で読み上げなかったのか?』


 帰宅早々に緊張感の欠片もない話を振られて、ニコラスの調子が狂う。


「出来るか。いつか殺してやるからな」

『フランスで人気の官能作家、それも公開前の新作だぞ。私も詳しい訳ではないが、その界隈では絶大な人気を誇る……、おい捜査官。まさか消そうとしているんじゃないだろうな』


 このファイルを削除しますか?

 はい。


「そんな事より、アドバイザーは基本的に十件以上の事件を同時に動かしているというが、お前は随分と暇そうだな。やっぱり仲間がいるんだろう」

『失礼な。今抱えているのは七件だ。それと私に仲間はいない、何度言わせるつもりだ』


 ロブの報告より二件多い。それが事実だという確証もないが、さらりと漏らした所が逆に信憑性があった。行けるかと思って、ニコラスは更に踏み込む。


「単独犯、か。だがやはり信じられない」

『ほう。君の想像するアドバイザー君には、沢山の仲間がいるのかい?』

「違う、物理的な問題だ。過去、お前は地球上の三か所に同時に現れた事があった」

『三か所? 今年の二月か。タネを明かせば単純なんだが、君はどう考えているんだ?』

「本物はイタリアにいた車椅子の男だ」

『怖いな、正解だよ。だがどうして気付いた』


 ニコラスは少し口を噤んだ。これを話せば、今後ニコラスが不利になるかも知れない。だが喋らされている自覚はあっても、向こうも食いついているようにも感じる。


「癖だ。想定外の事態が起こると、右耳の後ろを掻くだろう」

『……なんだって?』

「他にも細かい所はある。口では説明も出来ないが、だからこそ分かる。屈強な大男だろうが腰の曲がった老人だろうが、お前だと」


 アドバイザーは答えなかった。本人すら無自覚だったようだ。警戒させてしまったと分かっていたが、相手に話させるには、まず此方から話さなければと思ったのだ。だが失言だっただろうか。


『変態だ』


 思わぬ侮辱の言葉にニコラスは顔をしかめる。


『考えてみれば二年間も人の事を追い続けるなんてどうかしている。私だってそんなに誰かに執着した事はない。私が映った映像自体殆どない筈なのに、それを繰り返し見て、壁に写真を張り、癖を探し、世界中で足取りを追う。ストーカーだよ。警察に話せば間違いなく捕まるだろう。通報しよう。名案だ、そうしよう』

「……やっている事が同じなのは否定しないが、他人の事を言えた義理か」

『断固否定する。君には妙に女性関係の噂がなかったが、その粘着質な性格を考えれば納得だ。捕まえた後、いったい私をどうするつもりなんだ』

「捕まえるまでが俺の仕事だ。その後お前がどうしようと俺の関知する所じゃない。そこはお前と同じだな。仕事だ」

『そうか、ふうん、仕事だからか』


 考えてみれば、彼を捕まえた後どうするか、そこは驚くほど頭になかった。この二年間追いかけ続けた相手。顔くらい拝んでみたいとは思うが。


『仕事熱心も結構だが、君も少しは自分の性格を自覚した方がいい。結婚できないぞ』

「やかましい。何と言われようと捜査はやめない。地の果てまで追い詰めて必ず捕まえてやるからな」

『地の果てまで来てくれるのかい? ふふ、まあ悪くない。ここまで私に迫った君になら、捕まるのも本望というものだ』

「なら少しは協力しろ。タネを明かせば単純なんだろう。三人同時に動いていた内、残りの二人は何者だ」

『偽物だ。私とは全く関係がない』


 またしてもアドバイザーはさらりと答えた。模倣犯。その可能性を考えていなかったと言えば嘘になるが。


『ここ数年で急増してね。ネームバリューという奴だ。アドバイザーなんて陳腐な呼び名に執着もないが、私の努力を食い物にしている連中がいると思うと不愉快だよ。見つけた端から叩き潰しているが、中には手強い輩もいてね』


 流石は私、と感心したように笑う。ニコラスは黙って聞いていた。ある仮説が浮かんだからだ。同時に自分を嗜める。捜査官は犯人の思考を読みはするが、思い入れるなど言語道断だ。分かっている。分かってはいるのだ。


「爆破テロの予告があった。三日後、場所は東京」


 それでも訊かずにはいられなかった。この感情は、いったい何なのだろう。


「俺達は裏にお前がいると睨んで捜査している。だが、本当にお前なのか?」


 やはり、腹の探り合いなど、ニコラスの柄ではなかった。



***



「で、本題は?」


 クレアはそう言ってニコラスを見つめた。


 仕事帰りに飲みに行こうと声を掛けて、適当に見つけた安酒場に二人で入った。同僚ならではの他愛のない話から始まり、職場の愚痴からスポーツの話題まで話して、急にだ。急に彼女はそう言った。相変わらず鋭い。ニコラスは苦笑するしかない。


「敵わないな、クレアには」

「長い付き合いだもの、当然よ。それに最近ウワサになってるわよ。ニックにもとうとう春が来たって」


 邪推だ。クレアに聞いて欲しかったのは恋愛相談ではない。懺悔だ。とは言えとても全様を話す事など出来ないのだが。


「捜査官特有の病気かも知れないんだが」


 慎重に言葉を選んで話し始める。


「長期間、同じ事件を追い掛けていると犯人に感情移入する、というのは良くある事なんだろうか」

「それはあなたの話?」

「敢えて言わない。だが切迫した問題だ」


 クレアはそれ以上追及しなかった。「そうねぇ」と言いつつ足を組み直して考える。


「人質にされた人間が犯人側に寝返るのはそう珍しい事じゃない。精神的に追い込めば人間関係なんてすぐ変わるわ。吊り橋効果みたいなものね」

「胸が高鳴るのは、落ちるのが怖いからか恋なのかは分からない、って奴か」

「大事なのは自分の判断を比較検討できる第三者だと思うわ。そうすれば正常な、少なくとも普段通りの判断はできる」


 そう言ってビールを一口飲む。だが無理な相談だ。今のニコラスとアドバイザーの関係に第三者など入れられない。入れれば白状しなければならない。最近チェスで連敗していて臍を噛んでいる事、はともかくとして。ニコラスが東京での爆破テロを摸倣犯の仕業だと決めつけた事も。こちらの機密情報を洗い浚いアドバイザーに漏らした事も。それを基に彼が模倣犯を潰し爆破テロが防がれた事も。重大な裏切り行為だ。なぜこんな行動を取ってしまったのか。


 思えば最初からだ。あの雨の降る倉庫街で、なぜ自分は電話に出たのだろう。追う者と追われる者の二年間を経て、下手な知人よりも分かり合っているような気はしているが。


「難しいな……」

「あなたの言う通り一種の病気ね。気にかかるならまた相談しなさい。一時の気の迷いなら、いくらでも矯正してやるから。もっとも」


 クレアは意地悪な笑みを浮かべる。


「それが一時の気の迷いなら、ね」


 おかしな事を言う。だが彼女の言う通り、誰に相談しても同じ事だ。他人を定規に自分を測り直しても、結局測るのが自分である以上はどうしようもない。


 二人分の勘定を払ってクレアと別れ、ニコラスはそのまま帰路に着く。夜は冷える。体は酒で温まっているが、口から出た白い息はそのまま曇り空に吸い込まれた。雪でも降りそうな天気だ。アドバイザーがどこに住んでいるかは知らないが、そこではどんな空が見えているのだろうか。部屋に戻ればまた電話が鳴るだろう。たまには適当な事を話すのもいいかも知れない。


 コートのポケットから鍵を出し、アパルトメントの錠を開ける。そしてノブを捻った。途端、小さな機械音が聞こえて背筋が凍る。


「っ……!」


 地面を蹴って後ろに跳ぶ。次の瞬間、扉が爆発した。無様に地面を転がり上体を起こすが、背後からまたしても機械音が聞こえる。郵便ポストだ。間一髪でそれも躱すが、ニコラスが逃げた先を追うように次々と爆弾が炸裂する。命からがら塀の裏に隠れたところで、待っていたように胸ポケットから着信があった。通話ボタンを押す。


「死人がどうやって電話に出るんだ」

『おや、まだ生きていたとは意外だね』


 実に腹立たしい。


「俺を狙う理由を今更問い正すつもりはない。だが場所くらい選んだらどうだ」

『狙われる理由が分かっているとは恐れ入った。ではニック、今日が何月何日か言ってみたまえ』

「は? 十二月三日だ。誰がニックだ」

『そう、十二月三日だよニック。なのに君は何をしていた?』


 なに、と言われても仕事をしていたとしか言いようがない。捜査は難航し、僅かにでも進展し、上からはチーム解散をチラつかせつつ嫌味を言われ、そして帰りに同僚と酒を飲んだ。


『これでも物覚えは良い方だ。牽制であった事は否定しないが、紛いなりにも私は君に誕生日プレゼントを贈った。そのあと君は私の誕生日も調べてやると言った。それなのに今日という日に別の女とディナーを楽しみ、帰ってきたのが二十三時五十一分。それで狙われる理由が何だって?』

「待て待て待て。お前の個人情報を俺がそう簡単に掴める筈もないだろう。免許証でも見ろってのか?」

『あと七分で今日も終わりだ。それまでに楽にしてやる』

「よせ馬鹿。それに仮に今日がお前の誕生日だとして、俺はどこにプレゼントなんか……」


 そこまで言ってニコラスはふっと気付く。


「お前、今日が本当の誕生日なのか?」

『……』


 一瞬の沈黙の後に再び爆破は始まった。この反応を見る限り本当らしい。塀を背にして破片を防ぎつつ、ニコラスは忘れない内にメモを取った。来年にはテディベアでも贈ってやろう。


 大きい奴がいいだろうか。



***



 アパルトメント正面は半壊状態だった。家でゆっくり本を読むのが唯一の息抜きだったニコラスは、その日は碌に眠れもせずに翌日出勤。目の下にしっかり隈をつけたまま仕事にとりかかった。ふっとデスクに影が落ちる。クレアだ。


「酷い顔ね」


 返事をする元気もなく、ニコラスは呻き声だけでそれに答えた。


「どうしたの。あの後、何かあった?」

「家の前で郵便ポストが爆発した」

「何それ」


 クレアはそう笑いながらデスクの仕切りの上で頬杖をついていた。ニコラスは無視して仕事を続ける。捜査は変わらず難航していた。僅かな進展を蓄積し、そして相手の一手でそれを台無しにされる。一見イタチごっこにも見えるが、アドバイザー包囲網は少しずつでも狭まっている。


「しかし私は途中加入だけど、ニックは二年間もよく粘り続けているわね」

「どうしたんだ今更。仕方ないだろう、それが仕事だ」

「御立派。まあそれで、ようやくここまで漕ぎ付けたんだしね」


 無視して粛々と業務をこなす。クレアは薄く微笑みながらそれを眺めていた。どこか、熱の籠った瞳で。だが違和感があってニコラスは顔を上げる。「ここまで?」何か含みがある言い方だった。


「そっか。実は私もさっきロブに聞いた所で、正式な通達なら、ああ、来たみたい」


 作業中のニコラスのパソコンに通知がくる。メールだ。すぐに目を通す。


「ロンドンの廃ビル? 二十日後? なんだこれは」

「この間のあなたの調査結果から次の取引が絞れたのよ。倉庫街での一件以来だから、腕が鳴るわ」

「そこに奴が直接来るのか。確かなのか?」

「ほぼ間違いないって上は見ているみたい。対策会議は今日の十時から。あと三十分って所ね」


 そう言ってクレアは右腕に嵌めていた時計を確認した。


 メールを読み返しながら状況を確認する。あの倉庫街は手痛い失敗だった。その再戦が出来るとなれば願ってもない。そして何故か、まずいと思った。


 十時。場所は大会議室だった。チーム八人だけのこじんまりとした部屋ではない。ここには五十人以上の捜査官が集められ、中には滅多に見ない上役の顔もあった。


 作戦立案は他の部署から搔き集められた別のチームが担当したらしい。大量の資料が配られ、スクリーンに廃ビルの見取り図が写される。そこで二十日後に予定されているのは新聞にも掲載される程の大物が関与する取引だ。だからこそこんな大事になったのだろう。


 そしてそこにアドバイザー本人が現れる可能性は極めて高い。たとえ現場で取り逃がしても、数に物を言わせた包囲網によって強引に取りにいく作戦だった。ニコラスからしても申し分のない内容だ。だがやはり、何故かまずいと思った。一次会議が終わって皆が席を立ち始めた。休憩の後にはチーム毎に分けられた二次会議が始まる。


「クレア、休憩は何分だ?」

「十分。私達は六階よ」


 そう言ってクレアは左腕に嵌めていた時計を確認した。


 ニコラスは会議室を出て、足早に人気のない場所へ移動した。すぐさま胸ポケットから携帯端末を出す。登録されている電話番号は一件のみ。迷わず掛けた。そう言えばこちら掛けるのは初めてか、とぼんやり思っていたが、何度コールしても相手は出ない。向こうも仕事中だろうか。しかしニコラスが仕事中の時は向こうから散々電話が来るというのに、出れないとはどういう事だ。


「くそ」


 一度切って掛け直す。まずい。焦燥感がじわじわと募ってきた。会議室で見た完璧な包囲網が脳裏を過る。あんな物に捕まれば物理的に逃げようがない。解決法はただ一つ。現場に来ない事だ。奴のプロ意識など知った事か。何がホームズだ。


「どうしたの? こんな所で」


 慌てて切った。廊下の向こうからクレアが歩いてきていた。


「何でもない。もう時間か?」

「いいえ。なんか会議中ずっと浮かない顔だったから、心配でね」


 相変わらず鋭い。クレアはそのままニコラスの隣に収まった。平静を装ってタバコを吸おうとしたが、箱の中は空だった。顔をしかめるニコラスに、クレアは笑って自分の分を差し出す。


「一つ貸しね」


 二人で火をつけた。大きく吸い込み、吐く。禁煙してから大分経つが、頭が纏まらない時はいつもこうして一服していた。


「不満? 長年の獲物が他の奴に掠め取られるみたいで」

「そうじゃない。ただあのアドバイザーが、そう簡単に捕まるものかと」

「大丈夫よ、作戦には私達だって参加するんだから。どの道こんな大きな山になったからには、作戦が成功しようがしまいがチームは解散。せいぜい後悔のないようにしないとね」

「俺の仕事の集大成。それが、こんな形になるとはな」

「ふふ。ライヘンバッハの滝みたいな舞台を想像してた? このご時世、犯人確保なんて地味なものよ。相手だって弁えてる」

「本当か? あの派手好きなアドバイザーがか?」


 急に食い気味に詰め寄られて、クレアは「へっ?」と顔を赤らめる。そのまま右耳の後ろをポリポリと掻きながら、たどたどしく言葉を続けた。


「え、ええ。向こうもあなたの事なら良く知ってるはず。そのあなたに捕まるなら本望でしょう。だからこそ、本気で臨むべきだと思うけど」


 似たような事をアドバイザー本人に言われた事もある。だが他の人間から言われると、それが本当なのだという気もしてきた。


「そうか……」


 腹を括る。だが焦燥感は募るばかりだ。何としても、誰よりも先に自分が彼を確保しなければならない。会議の間、ビルの見取り図は頭に叩き込んだ。クレアの言う通りアドバイザーの思考なら誰よりも分かる。彼がいるとすれば、恐らくあそこだ。



***



 十二月二十四日。二十一時十九分。


 闇取引は瞬く間に押さえられ、廃ビル周辺は特殊部隊によって完全に制圧された。そこから半径五キロの地点を捜査官を含めた一つ目の包囲網がぐるりと囲み、更に都市一つ分を二つ目の包囲網が囲んでいる。廃ビルにアドバイザーの姿はない。だが依頼主が持っていた携帯端末の電波範囲から、必ず近くにいる筈だ。ニコラスを含めた捜査官がビルを虱潰しにして、今日こそアドバイザーを捕まえる。


 地下二階、地下一階、一階、二階。鼠一匹逃さない捜索が続く。だがニコラスがいたのは二十六階。独断専行だった。


「……」


 ライトと銃を同時に構えながら、慎重に足を進める。壁という壁が崩れてワンフロア丸ごと風通しが良くなっていた。天井から垂れ下がったコードや瓦礫の山など障害物もやたらと多く、ライト一つではとても照らし切れない。だが気配はある。実際に会った事など一度もないが、ここにいると、勘で分かる。


『動くな』


 背中に銃口が突きつけられた。足が止まる。後ろにいる。アドバイザー、生身だ。


『わざわざ自分で来るとはな、捜査官』

「お互い様だろう。腕くらい下ろしていいか?」


 どうぞご自由に。そう答える声は携帯端末から聞こえる、あの声そのものだった。変声器つきのガスマスクのような物を着用しているのだろう。それにしても、突きつけられた位置がやや低い。身長は百七十センチもないだろう。まさか彼はまだ子供なのだろうか。もう撃ち殺されてもいいから振り返って姿を確認したかった。強引にマスクを剥ぎ取ってみせれば、彼はどんな顔をするだろう。


『だが、困ったな。他の捜査官なら人質に取って脱出できたんだが』

「そうすれば良いだろう。スタンガンの類は持ってないのか?」

『こう馬鹿にされてはその気も失せる。私を捕まえるつもり、ないだろう。何をしに来た』


 微かに苛立っているようだった。流石にこうも手を抜いていてはバレバレか。時間もない。ニコラスは結論から言った。


「お前をここから逃がす」


 背中に押し付けられた銃に力が入った。


「俺はチームの主軸だ。包囲網も穴も捜査官の動きも頭に入っている」

『……自分が何を言っているのか分かっているのか』

「まずはここから逃げろ。話はそれからだ」

『見損なったよ、ニコラス・ブラナー捜査官』


 酷く冷たい声だった。彼とこんなに距離を感じたのは初めてだ。ようやくここまで近付いておいて皮肉なものだ。だがニコラスは引き下がらない。


「大真面目だ。俺はその為にここまで来た」

『黙れ。君は言ったな。地の果てまで私を追い詰めると。必ず自分の手で捕らえると。あれは嘘だったのか? 私に同情でもしたか。それで職務も放棄するのか。実に不愉快だ』

「お前こそ今日の動きはなんだ。俺達の動きなど知っていただろう。なぜ電話に出なかった。なぜ来たんだ。余裕か? それともプライドか?」

『君との最後の勝負だからだ』


 思わぬ答えが返ってきた。だが言っている意味が分からない。


『今日の作戦で失敗すれば、君は私の担当から外される。だが私は君以外の捜査官に捕まるつもりなど毛頭ないんだよ』

「今日、俺に捕まるつもりだったとでも言うのか」

『まさか。だが後一歩まで追い詰められてやれば、君は引き続きこの件に残留する。もちろん私が捕まるか君を殺すか、本気で勝負するのもやぶさかではなかったよ。私は君の手で終わると決まっていた筈だ。君が終わらせるのだと、決まっていた筈だろう』


 押し付けられる力が強くなる。ここまで感情を露にしたアドバイザーは初めてだ。


「落ち着け。俺達はなにもお前を殺すつもりはない」

『死ぬさ。決まっているだろう。私は余りに多くを知り過ぎている。今までの依頼主が私を生きたまま局の手に残しておく筈がない』

「それを許すとでも? 俺達は必ずお前を護る」

『俺、達、だと? 違う。アメリカがだ。君の仕事は捕まえるまで、自分で言った事だ。君が職務を全うする時とは私が死ぬ時。私は君に世界の果てまで追い詰められて、そして君の手で終わりを迎える。そう安心していたんだ。それが、私を、逃がすだと?』

「まだあったな。アドバイザー、もうこの仕事から手を引け」


 撃たれた。弾き飛ばされたニコラスの銃が地面に転がる。消音装置つきだったらしく反響はなかった。僅かに熱の籠った銃口が、再び突きつけられる。


『分かってない。全然分かってない。鈍い鈍いとは思っていたが、ここまでか』

「分かってないのはお前の方だ。今日のような仕事を続ければ、いずれ殺されるのは目に見えている」

『私は仕事を選ばない。報酬さえ貰えばどこの誰が相手でも仕事を請け負う。君の言う通り、これは私のプライドでね。曲げるつもりはない。曲げる時は死ぬ時だよ、捜査官』


 ニコラスは沈黙した。もうどんな言葉も届かないだろう。最初から分かっていた気がする。アドバイザーは嘘と虚構の塊だが、そのくせ本人の言動は筋が取っていて、その仕事ぶりは気持ちいいほど実直だった。だからここまで来たのだった。そういう所に、ニコラスは惹かれたのだから。


 ニコラスはポケットから自分の携帯端末を取り出した。


「どうあっても逃げるつもりはないんだな」

『くどい。本当に殺されたいか』

「この俺の、たっての頼みでも?」

『ハッ! 自惚れも大概にしろ。君が私にとって、いったい何者だと?』

「依頼人だ」


 そう言って、ニコラスは振り返らないまま端末の画面を後ろに見せる。


『……』


 それを見て、アドバイザーは絶句した。映っていたのは倉庫のように無機質な部屋と、山積みにされたトランクやガラスケース。


『……おい、なんだこれは』

「依頼料だ」

『そうじゃない。ガラスケースの中に入っているのはヘルマンブルー、地球上で二番目に高価なダイヤモンドだ。隣のケースの中身は希少元素の化合物、特許の塊だ。他の品も全て、私の依頼人だった男がシカゴで何者かに掠め取られた密輸品で……』


 そこまで言って気付いたようだ。呆れるように、言葉を漏らす。


『君か』

「知らなかったんだよ。密輸商が足取りを綺麗に洗ってくれたせいでな。こいつの価値を知ったのは、それこそお前の話を聞いた時だ」

『は、ははは……。それで局にも黙っていたとは、とんだ悪党だな』

「お前に繋がる証拠物だと思って独断で接収した。物が物だから持て余していたんだが、お前なら自由に金に換えられるだろう。これでお前を雇う」

『……なんだって?』

「それでお前は俺の味方、そうだな。まずはここから何一つ証拠を残さず撤収しろ。その後も別件の捜査に協力してもらう。仲間がとある麻薬カルテル撲滅に手を焼いていてな。完全に片付くまで付き合ってもらうぞ」

『私を、雇う? FBI捜査官の君が?』

「さっき言質を取った。お前は、仕事を選ばないんだろう?」


 アドバイザーはあからさまに困っている様子だった。ニコラス自身も屁理屈を並べている自覚はある。だがこれがニコラスの本心だ。偽るつもりはない。


 不意に右手に何かが後ろから握らされた。その時、一瞬、アドバイザーの指がニコラスの手に触れる。握らされたのは、今まで持っていた借り物ではない。依頼主に渡されるニコラス専用の携帯端末だった。


『追ってそれから連絡する。先に言っておくが、報酬は前払いだ』


 ぶっきらぼうに言われたその言葉は、ニコラスの耳に届いていなかった。

 今、触れた。

 冷たい指先、それに思いのほか小さな手だった。


 咄嗟に手元を見れれば良かったのだが、もう遅い。背中に銃口は付きつけられたままだ。アドバイザーは呆れたように、だがどこか嬉しそうに言った。


『こんな上から目線の依頼主は、初めてだよ』



***



 廃ビルの一件以来、ニコラスのチームは一時解散となった。目標であるアドバイザーの動きが沈静化している現状では、彼一人にいつまでも構っている暇はない。幸いニコラスの捜査能力が異常に伸びたせいで、大抵の事件は赤子の手を捻るように解決できた。思ったより罪悪感が半端ない。そう思っているとまたクレアに揶揄われた。


「酷い顔ね、相変わらず」

「うるさい。ああ、いや、忘れていたな」


 ニコラスはポイとタバコを放った。新品を箱ごと。彼女が好きな銘柄だ。


「貸し借りなしだ。あの時は助かったよ」

「どういたしまして。でも貸しって何の事?」


 そう笑ってクレアは先に会議室に入った。残りのチームも既に揃っている。これから件の麻薬カルテル撲滅の捜査の方針を練るのだが、何か変だ。彼女には確かに一本貰った筈だったのだが。そう首をかしげていると胸ポケットの端末が震えた。


「あいつ……」


 チームの皆が待っているのだが仕方ない。相も変わらずこちらの事情など考えない奴だ。だが今度こそ、こちらからも掛けてやろうか。その時は、さて、何の話をしようか。ニコラスは通話ボタンを押した。


『やあニック。今、ちょっといいかい?』

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Calling あなぐま @anaguma2748895

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