偽物ダンディリオン
みどりこ
第1話
「うおー! うおー!」
画面には空が映っている。
ガタガタと揺れていた映像はすぐに止まり、カメラが手持ちから地面に置かれたのがわかった。手前に濃い緑の草むらが現れ、ぱっと細かい虫が宙に飛び立った。
やや締まらない声と共に黄色い何かがフレームイン。
それは紛うこと無くライオンだった。
真っ黄色の毛並み。お腹は白く丸く作られ、尻尾をてろんと後ろに垂らした二足歩行のそれは、堂々とした仁王立ちで立ち止まるとカメラに向かい、ぐっと右手でサムズアップする。手は胴体の生地と一体化したもので、ちゃんと爪と肉球もついていた。
頭もライオンだった。金色の長いたてがみをたっぷり生やしたリアルな頭で、鋭く光る金の両眼がきつい太陽光線にきらめき、牙のある口はガッと開いている。
草むらに置かれたカメラはそれを見上げるように映していた。
すぐにライオンはその場で小さなジャンプを数回こなすと、画面奥に向かって走り出した。奥は下り坂になっていて、広い駐車場へたどり着いたライオンは信じられない身軽さでパンチ、キック、跳躍に宙返りを繰り出した。
技には一つ一つ体重が乗り、回転には軸があり、着ぐるみの生地の安っぽさを感じさせないほど見事だった。
ライオンの背景にはキラキラと川面が光っている。少女漫画の効果のようなきらめきを背負った着ぐるみのライオンが、素晴らしい技を披露している。
誰が見ても見事な光景だった。
しかし、誰も見ていない。強烈に晴れた日差しの下は誰も通りかからず、ライオンの演舞は3分ほどで終わった。『2020.7.6』動画の撮影日が白く残像を残してブラックアウト。
潜水を終えた人のように、ユキトは大きく息をついた。再生を終えたばかりのタブレットをまじまじと見つめて、壁にもたれかかる。上を仰いで出るのはため息。
気分は最悪だった。稽古場の反対側、古い木造壁上部に切り取られた細長い窓にはぼけた灰色の曇り空が覗いている。
「おう、凹んでる」
「
ユキトは慌てて立ち上がりながらタブレットを背中と服の間に挟み込もうとしたが、稽古用のTシャツとハーフパンツ姿だったことを思い知らされた。タブレットを挟んで止めるほど力のあるゴムではなかった。ゾッとするような大きな音を立てて、タブレットがフローリングに落下。あっと声を上げる間も無く、床を滑ったそれを紫央さんが拾ってしまった。
紫央さんの指が画面に触れて、スリープ状態だった動画がすぐに再生される。
『うおー! うおー!』
紫央さんの片眉が芸術的に持ち上がった。こんなに綺麗に片眉だけ動かしてのける人もいないだろう。
それを言うなら彼女のような人は他に居ない。紫央さんは目の覚めるような緑色に染めた髪を惜しげもなくベリーショートにして、眉までちゃんと同じ緑にし、派手なアイメイクというぶっ飛んだ見た目をしている。しかしそれがかっこいい。南国の危険なトカゲみたいだ。
ユキトと同じようなTシャツに下はストレッチ素材の黒いレギンス姿で、伸びた手足は鋼のように引き締まっている。どんな体勢からでもあらゆるアクションに繋げるとんでもないセンスと能力が指先にまで溢れているような人だ。
赤いラインを引いた目から飛んだ視線が、ズドンとユキトを貫いた。
「やるじゃん」
胸元にタブレットが差し出され、ユキトはかしこまってそれを受け取った。
「失敗して凹んでるかと思ったら呑気に動画鑑賞とはね、大物だよ」
言葉ほど嫌味ではない。本当にこの子は大したやつだね、というようなカラッとしたユーモアみたいな言い方がユキトの心を救った。
「違います!」
「へえ?」
違うとは言ったものの、大失敗をした後に着ぐるみのライオンが飛んだり跳ねたりしている動画を食い入るように見ていたのは、どんな理由を並べてもあまりに幼稚な気がしてユキトの言葉はしぼんでしまう。
「ええと、その、ちがうんです」
「その古い着ぐるみ動画が。オーディションに落ちた1分後に見るもんなの」
嫌味なく言いながら、ガルルー、と本物みたいな唸り声を喉奥でしてみせた。
2020年の夏と言えば皆苦いものを思い出す。治療できない虫歯にそっと触れるような顔をする。
外に出られず、明けない梅雨のような気分が一生続くのかと思っていた時期だ。
ユキトもそうだった。この動画のライオンに出会うまでは。
「これのおかげで俺は、役者になろうと思えたんです」
紫央さんはじっと黙ってユキトを見ている。
「そのライオンの動画、それが一作目で毎日投稿されたんですよ。夏じゅうずっと」
「着ぐるみで?」
「はい。雨の日でも、橋の下とか……。ずっと何かアクションしてるだけなんですけど」
毎日だから着ぐるみはどんどん汚くなっていった。最後の方は全身土埃の色で、質感もどっちゃり重そうだった。
「この人どんどん上手くなるんです」
幼かったユキトも最後の方には、ライオンが闘っている姿無き敵が見えるような気がしたほど。
鋭く宙を裂く蹴りに、なす術もなく吹き飛ぶ悪いやつ。後ろに忍び寄っていた奴の喉首を両手で掴んで放り投げ、追いすがって背中に着地、ビュンと振れた尻尾がしたたかに顔を打つのだ。
いつの間にか毎日が楽しくなっていた。次はどんな動きを見せてくれるか、ライオンはいつも期待を上回って行った。
「なるほど」
一生懸命説明するユキトに、紫央さんは小首を傾げて笑った。ため息のように大きく息をついてユキトを見返した口元が大きく笑みの形になっている。
「再生数はほとんど無い動画だし、多分ずっと見てるのは俺くらいです。それでも見たら頑張ろうって思える。失敗の原因を研究しないで動画見てた俺はバカです! でも……お願いです、このライオンのことは笑わないでください!」
紫央さんはその切れ長の目をきょとんとさせて、首を振った。
「ちょっと話そう」
「え」
「私もその時期バカなことやってたの思い出してさ。懐かしくなったんだ。丁度自粛で全部の舞台がダメんなって、マスク着けずに歩いたら白い目で見られるような時期にマスクも無くて、仕事もお金もなくて……もう人間やめよーかと思ってた時よ」
紫央さんはカラカラと笑った。
「まさか」
「ハハ、当時はね。それで今本当に人外になるとは思わなかったけど」
紫央さんは『最も重力から自由な人類』と謳われる。斬新な発想と確かな身体能力に裏打ちされた演技力で、ゲームや映画の登場人物に命を吹き込む第一人者。特に空中技は別の生き物のようだ。
世界中が紫央さんの背中越しに別の世界を覗き込む。
そんな紫央さんとユキトが同じ会社にいて、同じ稽古場で言葉を交わすなど、紫央さんは凄い人すぎてだいぶ経った今でも身構えてしまう。
「しばらく自暴自棄だった。でも見ててくれてる人もいて、人間やめるの惜しくなっちゃった」
ああ、久しぶりに初心思い出したなー!と、背伸びをしながら言うと、
「その動画、夏が終わったらどうなったの」
聞いてきた。
「8月30日が最後でした」
紫央さんは無言で先を促す。
「オレは一日中……。思い出したら更新して何度もチャンネル見てたんですけど、何にもなしです。あれから一度も、何も」
夏の日差しに溶けそうなタブレットの画面を思い出す。
2020.8.30の投稿日から増えない更新履歴。庭に面した少し開けた窓から入る熱風が夕方の湿度を纏っても。翌日になっても。変わらなかった。
「そのライオンにも何か事情があったかもしれないね。……オーディション落ちたとか」
「う、すみません! すぐ練習に戻ります!!」
「いや、ごめん。からかって悪かった。あんたなりの集中法なんだろ、退散するよ」
ニッと笑って背中を向けた彼女がばたんとドアを閉めた後になって、オーディションに落ちた後輩を心配して様子を見に来てくれたのだと気づいた。
「あーーー!! しまった、後でお礼言いに行こう!!」
わしわしっと髪をかいて、ユキトは気持ちを切り替えることにした。
どうしてオレはこうなんだ、と自分に悪態をついて、それすらエネルギーに変わるように祈りながら数時間自主トレに打ち込んだ。
稽古場の細長い窓ごしに月を見ながら帰り支度をし、タブレットをバックパックに入れようと持ち上げたとたん、「ライオン」のアカウントを表示させたままの画面がスリープからオンになった。
すでに癖になっている流れで二ヶ月分の動画投稿履歴をざっと眺めたところで、異変を見つけた。
「……嘘だろ」
思わずタブレットの電源を落とし、再度立ち上げた。
それでも、「ライオン」の動画に新たに追加された動画は消えなかった。
つい数分前だった。
「待て、落ち着け」
言い聞かせても震えの治まらない指が動画を再生させる。
『うおー! うおー!』
川沿いの街灯が一つスポットライトのように闇を白く切り抜いている。
光の中へ小汚いライオンの着ぐるみが飛び出てきた。
ライオンは、光の真ん中でこちらを向くと、ぺこりと頭を下げた。
『今日が最終回です。本当言うと、もっと早くに辞めちゃおうと思ってたけど……ずっと見てくれてる人が居るのに驚きました』
ライオンが初めて語りかけていた。
『自分は偽物のライオン。綺麗でも無ければ本物でも無い。……だから、本物になることにしました。今はまだ道端の雑草でも』
汚れた着ぐるみは優雅な動作で一礼した。それからゆっくり頭を上げ、小首を傾げる。
『いつか見た人の世界を変えるような、本物になります。……ふふ、恥ずかしいからこれ投稿しないかも』
じゃあね、と言ってライオンはゆっくり歩いて光の外へ消え、フレームアウトした。
夜の闇と街灯のスポットライト。動画は終わった。
2020.8.31白く現れて消える日付。
投稿者から一言コメントが記されている。
「見てくれた全ての人へ、ありがとう。特に我が後輩へ」
大慌てで掛けた電話の向こうでライオンが笑った。
偽物ダンディリオン みどりこ @midorindora
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