ラストゲーム 〜ある夏の日の記憶〜

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『ラストゲーム』

 お盆に入ってからも、連日のように暑い日が続いていた。


 今日も午後からは三十五度を超えるという予報のなか、道子は墓地への道を歩いていた。


 最寄りのバス停で降りてから歩くこと三十分。


 道子は目的のお墓の前に到着した。


 ——榎本家先祖代々の墓。


 鼠色の墓石には白い文字で、そう書かれていた。


 道子は軽く周囲の掃除をすると、墓石の前に屈む。そうして花を供え、線香をあげると、目を閉じて合掌した。


(……先生)


 道子のまぶたに映るのは、春の陽気のように朗らかな表情で笑う女性の姿。中学生時代、いつも道子に向かって笑顔を浮かべていた先生の姿だ。


 しばらくそのまま黙祷する道子。やがてゆっくり目を開けると立ち上がって空を仰ぎ見た。


 入道雲が空高く広がった空は真っ青で、夏らしさに満ちている。シャーシャーシャーと鳴くクマゼミの声がうるさいぐらいに耳を叩いていた。


(……暑いな)


 道子は夏の光を遮るように手をかざす。


 先生に逢いに来ると、いつも思い出すのは、あの夏の日の記憶。


 道子が中学三年になる年の記憶だった。



◯——◯



「——精が出るわね、道子さん」

「あっ、先生!」


 まだうっすらとした寒さが残る三月上旬のこと。


 放課後、テニス部である道子はひとり壁あてをしていた。塀に向かってひたすらボールを打ち続ける道子に、校舎の陰から現れた榎本先生が声をかけてきた。道子はその声に気がつくと、先生に駆け寄っていく。


「先生、きょうは会議じゃなかったの?」

「そうだったんだけど……道子さんの練習する姿が見たくなっちゃって。早く切り上げてもらったのよ」


 首を傾げる道子に向かって、先生はそう言ってにっこりと笑う。目尻が優しくさがる先生のその笑い方が、道子は大好きだった。


「ほんとに!? じゃあ見てて! 私、きょうはなんだか絶好調みたいなんだっ!」


 道子は嬉しそうにそう言うとさっきまでボールを打っていた場所まで戻り、先生の見つめるなか壁あてを再開する。


 ——たんっ、ぼんっ。——たんっ、ぼんっ。——たんっ、ぼんっ、と。


 道子の打ち出すボールがラケットと壁を往復し軽快なリズムを響かせるのを聞きながら、先生は道子のことを目を細めるようにして見守っていた。


 その光景は、道子が中学に入学して以来ずっと続いているものだった。


「——あっ」


 と、道子が打ちもらしたボールが先生の元へと転がっていく。先生はそのボールを屈んで拾うと、道子に向かってまた微笑みかけた。


「上手くなったわね道子さん」

「えへへ、でしょ? 私これなら試合でも勝てると思うんだー」


 道子が見据えるのは夏に行われる中学最後となる試合。それに一勝することが道子の目標だった。


「ふふ、道子さんなら勝てるわ、きっと」

「試合、絶対見に来てよね!」


 先生からボールを受け取ると、道子はまた壁あてを再開する。


 目指すは初勝利。そのために道子は頑張っていた。


 けれど。


 道子のその目標は無残にも潰えることになった。


 大会が中止になるという最悪の形で。



◯——◯



「おーい! みちこー!」


 暑さも本格的に到来した七月の半ば。制服に身を包み家の前の木陰で佇んでいた道子の耳にそんな声が聞こえてくる。


 手を振りながら道子に駆け寄ってくるのは見慣れた顔。道子と同じ制服を着たその少女は、道子にとってたった一人の同級生だ。


「おはよう朱莉あかりちゃん」

「おはよー道子。いや〜今日も暑いねー」


 ふたりは一緒に通学路を歩いていく。たわいもない会話を続けていたが、校門をくぐったところで道子がふと足を止めた。


「道子?」


 不思議そうに振り返る朱莉は、道子が立ち止まった理由に気がつくと「あ……」と小さく声を漏らした。


 道子が見ていたのはいつも壁あてをしていた塀だった。ボールの跡が残ったその場所を道子はただじっと見ていた。


「道子……」


 朱莉が何か言おうと口を開いたちょうどその時、校舎からチャイムが響いてくる。


「——あっごめん朱莉ちゃん。早く行かないと、チャイム鳴っちゃったね」


 我にかえって校舎へ駆け出す道子のことを、朱莉は神妙な面持ちで見つめていた。



◯——◯



「朱莉ちゃん帰ろー」


 その日の放課後。そう声をかけた道子に朱莉は両手を顔の前で合わせて、「ごめんっ道子。アタシ今日ちょっと先生に用があってさ。遅くなるかもだし、先帰ってて」と謝ってきた。


「いいけど、珍しいね? 朱莉ちゃんが先生に用事だなんて。どうしたの?」


 道子の疑問に、朱莉は頭をかきながら答えた。


「いや〜ちょいと家で受験勉強してたらわかんないところがあってさ、それを聞きに行こうと思って」

「ええっ! 朱莉ちゃん受験勉強ちゃんとしてたんだっ! 意外!」

「……おーい道子ー? その反応はさすがのアタシも傷つくぞー」

「あっごめん。つい」


 ばつが悪そうに謝る道子に、朱莉はため息を吐きながら続ける。


「まいいけど……アタシだって自分でもそう思うからさ。けどまあそういうわけだから、道子きょうは先に帰っててよ」


 そう言うと朱莉は教室を出ていった。

 ひとり残された道子は、「……受験勉強、か……。私もしないとなぁ」とぽつり呟くのだった。



◯——◯



 次の日曜日、道子は朱莉に呼び出されて学校のグラウンドにいた。


「え……これって」


 そこで道子が見たのはグラウンドの一角が白線で区切られ、中央にネットが貼られている姿。それは、紛れもなくテニスコートだった。


「——私と朱莉さんでけさ作ったのよ」

「先生!」


 背後から聞こえてきた声に道子は驚く。


「どうして……?」

「朱莉さんに頼まれたの。あなたのために何かしてあげたいってね」

「朱莉が……?」


 ほら、と言って先生は道子の後ろを指さす。


 その先にいつの間にか朱莉がラケットを持った姿でコートに立って叫んでいた。


「——へいへい、道子! 早くきなよ! 朱莉スペシャルで打ち返してやる!」


 先生はそれをみてにっこりと笑うと、


「——さ始めましょう!  道子さんの中学最後の試合をね!」

「うん……!」


 そうして道子がボールを打ち出して始まった試合。


 それはもちろん道子が望んでいたようなものではなかった。


 だってサーブはアンダーだし、ラリーだってすぐに終わってしまう。全力なんてだせっこない。


 でも、道子は楽しかった。


 とても楽しかった。


 だってこれは先生と朱莉が、道子をおもって開いてくれた試合。


 それだけで道子は充分だったのだ。


「ダメだぁ、アタシもう一歩も動けない」

「情けないなぁ朱莉ちゃんは」


 数時間後。地面に大の字になる朱莉を見て、道子は苦笑すると、


「仕方ないなぁ、私何か飲み物持ってくるよ」

「あ、待って道子さん。職員室にお茶があるの私も行くわ」


 走って行こうとする道子に、先生が声をかけてついて行った。


 その道中。


「ねえ、道子さん」

「どうしたの先生……?」

「私は、ずっと道子さんのことを見てきたわ。だから、あなたが試合に勝つためにこの三年間どれだけ頑張ってきたかを知ってる」

「……うん」

「大会が中止になって、道子さんはとても辛い思いをしていると思う。私たち大人がその気持ちを勝手に想像して、あれこれと励ましの言葉をかけても、あなたは余計辛くなるだけかもしれない」

「……うん」

「でもね、道子さん。それでもやっぱり言わせて」


 先生はそこで道子に向き直る。先生の目は真っ直ぐに道子を見ていた。


「——たとえ大会が中止になったのだとしても、それまでの道子さんの頑張りは絶対に無駄になんかならない。あなたがこの三年間一生懸命やってきたことは、そんなに簡単に否定されるものじゃないの」


「そんなこと簡単に言わないでってあなたは言うかもしれない。だけど私はやっぱり伝えたかった。だって私は道子さんの努力をずっとみてきたから」


 先生は道子の大好きな笑顔を浮かべて道子を見てそう言った。


「……うん、ありがと、せんせい」


 俯きながら道子はぽつりとそう言った。


 今はまだ、現実を受け止めるには道子には辛いことだった。だけどいつかきっと受け入れられる時が来る。だからその時まで先生の言葉を覚えておこう。道子はそのときただそう思った。



◯——◯



「さあ二人とも手を出して」


 朱莉の元へ戻ってしばらくすると、先生が言った。二人が手を前に出すと、その二つの掌に先生はそれぞれあるものをのせた。


「……これ、ブレスレット?」

「わぁすごい! ブレスレットだぁ!」

「ふふ、先生からのプレゼントよ。大事にしてね?」


 道子が赤で、朱莉は黄色。


 朱莉はさっそくそれを手首につけると道子に向かって笑顔を向けてきた。


「どうどう道子? 似合ってる?」

「うん、朱莉ちゃん、すっごく似合ってる!」

「えへへ、ありがと! 道子も早くつけてみなよ!」

「う、うん」


 朱莉に促されて、道子の手首には赤く輝くブレスレットがすっぽりとはまる。


「どう、かな?」

「うんうん! とっても似合ってるよ、道子!」


 恥ずかしそうに、だけど誇らしげに顔の前に手首をあげる道子に朱莉は満面の笑みを浮かべた。


「先生は?」


 そう言って見せびらかすように腕をあげる朱莉と、恥ずかしそうに先生に見せる道子。


「ふふっ、二人ともとてもよく似合ってるわ」


 そんなふたりの姿を見て、先生はやさしい笑顔を浮かべたのだった。 

 


◯——◯



 遠い記憶の中で微笑む先生の姿を思い出して、道子は温かい気持ちになっていた。


 あれから、中止となった大会の代替の試合は開催された。


 もちろん道子も出た。応援に来てくれた先生と朱莉に勝利を届けることもできた。それは嬉しかったし、楽しかった。


 でも。


 でもやっぱり、あの年の道子にとって一番の思い出は、あの暑い日に先生と朱莉と一緒にしたテニスの試合なのだ。


 先生の言葉を思い出して道子は知らず微笑んでいた。もし朱莉が見ていれば先生の笑い方にそっくりと言ったかもしれない表情を浮かべて。


 道子は先生のお墓に向き直ると、もう一度手を合わせた。


「……じゃあね、先生。また来年。今度は朱莉も連れてくるからさ」


 帰り道に向かって歩き出す前に、道子は最後にまた空をみた。


 昼になり、夏の日差しはいっそう強く道子の頭上に降り注いでいる。


 耳を叩く蝉の声は、いつの間にかアブラゼミの鳴き声に変わっていた。


「暑いなー」


 そう言って太陽に手をかざす道子の手首には、やさしい赤い光が煌めいていた。

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