アイムオーケー!!(翻訳なし)

月生

アイムオーケー!!(翻訳なし)

「ちぬー、テレビんーちゃん!?」

 ドアを勢いよく開けてカナは叫んだ。教室の生徒たちが一斉に振り向いた。窓から差し込む七月の強い日差しが、日に焼けた彼女の肌とくっきりとしたブラウンの瞳を輝かせている。

 ショートヘアを揺らしながら「んーちゃん? んーちゃん?」と皆に聞いた。この島の中学と高校に生徒は全部で五人しかいない。高一が三人、中三が二人だ。他の学年には誰もいなくて、全員が同じクラスだ。

「フリーダイビング、わったーんやろいー!」

 フリーダイビングの世界選手権が沖縄本島の恩納村で開催された時の模様が、昨日放送された。その映像にカナは釘付けになったようだ。

 フリーダイビングは酸素ボンベを使わず、息を止めてどこまで深く潜れるかを競うスポーツだ。

「タケル、東京ぬっちゅーダイビングないん?」

 カナがタケルにそう聞いてきた。タケルは春に東京から引っ越してきたばかりだ。興奮気味のカナはタケルの答を待たずに皆に呼びかけた。

「リョウしんしーや経験者らしいくとぅ、うちぬ学校んかいフリーダイビング部ちゅくろいー!」


 土曜日、五人はリョウ先生と一緒に漁船に乗って港を出た。カナやタケルと同じ高校一年のケンショウのお父さんの船だ。

「ケンショウ、ぃやーや太り過ぎ。あんくとぅ浮からんままくみらーやー」

 ニヤニヤとした笑みを浮かべるカナに向かって、ケンショウは口を尖らせた。

「わんねー潜らん。潜りーんしが潜らん。ぃやーが溺れそうんかいなったら引っ張り上げてやいんよ」

 するとマナミとケンセイが立て続けにケンショウに言った。この二人は双子の姉弟で、カナたちの一つ下の中学三年生だ。

「マーナーや潜いんのうまさんくとぅ助けーいらんよ」

「わん、溺れちゃいんくみらーしれらんくとぅかんなじ助けてよ」

 ケンセイは自信なさ気にそう言ったが、島で育った彼らに比べたら、東京出身のタケルは素人同然だ。タケルは急に湧いてきた恐怖から目を背けるように、視線を船の外に向けた。

 タケルの心を見透かしたように、カナが言った。

「ひーとぅやさ。カーナーとぅまじゅんひーとぅんかいなろいー」

 そしてカナは海を指差した。そこには何頭ものイルカ――ひーとぅの姿があった。イルカたちは皆を誘うように波間で跳ねた。キラキラと波しぶきが光り、小さな虹が幾重にも現れた。カナは「ドルフィンやさ」と言いながら、両手を揃えてイルカの真以をしてみせた。

「ひーとぅたちぇーニライカナイがまーんかいあんか、知とーんのくみらーしれらんやー」

 そう言って、カナはニコリと笑った。


 それからカナたちは、週に二、三度のペースで海に潜り続けた。体力作りのトレーニングも続けた。

 休み時間には皆で息を止める競争をした。たいてい誰かが変な顔をして笑わせようとするから、それはそれでなかなか過酷だった。

 カナたちは拾ってきた板にペンキで色を塗って文字を書いた。それを教室の入り口に揚げた。白く塗られた板にくっきりとした青い文字で「フリーダイビング部」と書いてある。

 その下にカナが大きな白い模造紙を貼りつけた。カナはそこにマジックで「目指せ! 世界一! We are Dolphins!」と書いた。皆一斉に「ドルフィンズ!」と歓声を上げた。


 七月が終わる頃、リョウ先生が全員の分のフィンを学校に持ってきた。このフィンは、フリーダイビングの中でもカナたちが取り組んでいるコンスタントウェイト・ウィズフィンという種目に欠かせない。

 この種目は、大きな一枚のフィンに両足を入れ、イルカのように泳ぎながら、海中深く下ろされたガイドロープに沿って真っすぐ下に向かって潜っていく。

「とー、くりっし大会んかい出場すんよ!」

 カナが飛び上がって喜んだ。リョウ先生が皆の肩を叩いた。

「大会は一ヶ月後だ」


 2018年、夏の大会当日がやって来た。沖縄本島にある恩納村に日本中から選手が集まってきていた。

 カナたちは選手たちの中に、髪をポニーテールにまとめた同年代の少女を見つけた。少女は背中に「OISO DIVING CLUB」という文字が描かれた青いTシャツを着ていた。凛とした表情の彼女にカナが声をかけた。

「はいたい。うんじゅ高校生?」

 少女は少し驚いた顔をした。

「何? ――高一だけど?」

「わんにん同じやさ。わん、カナ。うんじょーぬーて名前?」

「――名前? ミカ」

「オイソってまー?」

 ミカと名乗った少女は、カナの言葉に怪訝な表情をした。そしてカナの問い掛けを無視してプイッと踵を返して去っていった。その様子を見たマナミが苦々しそうな口調で言った。

「なにあり? 感じやなー」

 ケンセイもそれに続いた。

「なんか田舎者ってうむわれたん気がすん」

 タケルはカナに説明した。

「オイソじゃなくて、大磯。湘南海岸だよ」

「まーよ、うり。知らんやー」


 カナたちが参加する種目「コンスタントウェイト」は、あらかじめ自分が挑戦する水深を申告し、その深さに設置されたタグを掴んで浮上する。そして海面に出たら、手でOKサインを作って「アイムオーケー!」と言う。それで初めて記録が認定される。

 無呼吸による深度潜水は強い水圧によって肺や脳の機能を低下させる。だから、自分が大丈夫であることを告げなくてはいけない。何よりも大切なのは安全で、危険を感じたら引き返す勇気が求められる。


 初めての大会は誰もが散々な出来だった。カナは25メートルの記録を出したが、大磯から来たミカは35メートル潜っても、まだ十分な余裕を持っているようだった。

「あぬっくゎ、つまらなそうやんやー。むっとぅ笑らん」

 ケンショウが表彰台の上のミカを見ながら呟いた。


 カナたちの島を短い秋が過ぎ去る頃、カナは悠々と35メートルをクリアできるようになっていた。


 2019年の夏も、カナたちは大会にやって来た。

 カナは大磯のミカを見つけた。ミカはチームのメンバーとは離れた所に腰掛け、所在なさげにしていた。

「はいたい。みーどぅーさん。くとぅしぇー負けらんよ」

 ミカはカナをチラッと見たが、答えることなく立ち去ろうとした。カナはそんな彼女の腕を掴んだ。

「ぃやー、ちゃーちゅいやんやー。チームメイトとぅ仲良こーねーんぬ?」

「何言ってるかわかんない」

 ミカは苛ついた目をした。

「どぅしんかいなろいー。ト・モ・ダ・チ。ミーカーとぅカーナー」

「友達? 何でよ。私は一人がいいの!」

「ぬーんち?」

「だから、何言ってるかわかんないってば!」

 ミカはカナの手を振り解いた。

「あんた、フリーダイビングって何だかわかってる? 海に潜ったら、そこはたった一人の世界なの。誰の助けもいらない。私には誰もいらない。ほっといてよ!」

 駆け出したミカの後ろ姿に、カナは呟いた。

「あんしぇー、ぬーんち泣いちゅんぬ?」


 深い海を映したような青空をカナは見上げた。静かに息を吐いた後、胸一杯に夏の大気を取り込んだ。キラキラと輝く水しぶきを上げて、カナは海中へと潜っていった。

 カナの体はイルカのようにしなやかに波打ち、海面から差し込むオーロラのような光の帯をすり抜けて、深い海の底へ向かっていった。

 全てが息を潜めている。カナの心は波紋のない鏡のような水面になる。

 海底に向かって真っすぐに伸びているガイドロープに、カナが目指すタグが見えた。その先に広がるグラン・ブルーの世界に今はまだ届かない。

 カナはタグを取ると、ふわりと体を反転させた。慌てず一定のリズムで昇っていく。登山と同じで、帰路こそ油断してはならない。

 水しぶきとともにカナが海面に浮上し、手でOKのサインを出した。

「ア、アイムオーケー!」

「やった! 38メートル、クリアだ!」

 ボートで待機していたタケルが救命浮輪をカナに向かって投げた。


 ミカの申告は40メートルだ。クリアすればカナを上回って表彰台に上れる。海があまりに静まり返っているせいで、ミカの深呼吸の息遣いまでも聞こえてくるようにカナには思えた。ボートに揺られながら、海中へと潜っていったミカの姿を追いかけた。

 深く深くミカは潜っていった。そしてミカはタグを取った。

 体を反転させた時、突然、強い潮流がミカを襲った。慌てたミカの手がガイドロープに触れてしまった。審査のために並行して潜水しているダイバーを一瞥し、自分が失格になったことをミカは悟った。

 一瞬の動揺にミカは焦った。動揺は想像以上に酸素を消費する。ミカは頭上を見た。極限まで潜ったこの場所から、光が差し込む海面は永遠に届かない出口に思えた。それは恐怖となってさらに焦りを生み、ミカのキックはいつもよりも早くなった。苦しい。苦しい。ミカはパニックになっていた。

 一際大きな水しぶきとともにミカは浮上した。しかし手が震えてサインを出せない。口も動かない。虚ろな目が白目をむき始めた。

「ブラックアウトだ!」

 誰かが叫ぶよりも早く、カナはボートから飛び込んでいた。ミカの体に後ろから手を回し、溺れないように支えた。

「ミカ! うきれー!」

 ミカは激しく痙攣し、呻き声を上げて暴れだした。

「ひーじーやさ。ひーじーやさぁ」

 カナはミカの耳元で囁いた。すると、ミカの強張った体から力が抜けてきた。

「ひーじー、ひーじー」

「な、何言ってるか――わかんないってば」

「ユーアーオーケーやさ」

 ミカは振り向いて、カナの頬に顔を寄せた。

「怖かった。怖かったよ――」

 零れ落ちる涙を、静かな海が洗い流していった。


 時は流れ、2020年の夏がやってきた。

「でーじやっさ!」

 カナに呼び出されて砂浜に集まっていた四人の元へ、カナが駆け込んできた。その手には一枚のハガキが握られていた。

「暑中見舞いやあらんか」

 ケンショウの言葉をカナは即座に否定した。

「あらんどー。挑戦状やさ」

 カナは得意気な顔でハガキをケンショウに渡した。皆が覗きこんだそのハガキにはこう書いてあった。

 ――今年の夏は私が勝つよ! ミカより――

「くとぅしん夏も楽しみやんやー!」

 五人は歓声を上げながら、波打ち際を走り出した。



                         了

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アイムオーケー!!(翻訳なし) 月生 @Tsukio

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