それでも魔女は毒を飲む
近藤銀竹
それでも魔女は毒を飲む
「
自分の名前が鼓膜を揺らし、私は雑誌の上を滑っていた視線を上げた。
そこには老婆がクリーム色のベッドに納まっていた。
白い布団の首元に花柄のバスタオルがあてがわれ、そこから枯れ枝のような腕と幾筋もの皺が刻まれた顔が出ている。
「いいですよ、
私はステンレスのマグカップを持って立ち上がり、病室内の洗面所へと向かう。
ふと、洗面台の鏡に目が行く。
そこに映っている姿は、四十も後半に差し掛かった女性の顔。まだ弛みなどはないが、老境に足を踏み入れつつあるのは否めない。
「悪いわねぇ。顔も知らないほどの親戚なのに、こき使っちゃって」
「いいえ」
顔も知らないなんて、嘘だ。
私は彼女のことをずっと見守ってきた。それこそ、赤子の頃から。
早希の母が病弱だったせいもあってか、特にたくさん世話をした。
彼女はすくすくと育ち、美しい女性に成長し、そして老い、いま死の淵に立っている。
私を追い抜いて。
一方で私には、死神の迎えはとんと来なかった。
あの日からずっと。
あの日、最愛の夫を奪ったあの女に復讐するため、私は悪魔と契約し、魔女となった。
復讐は成り、夫を弄んだ挙げ句殺した女は、自身も無惨な死を遂げた。
しかし、契約は重大な副作用をもたらした。私から『老い』を奪ったのだ。
周りの人間は齢を重ねていく。
最初こそ衰えない身体を楽しんでいたが、次々と私の前から姿を消していく家族や友人たちを見送り続けているうちに、この副作用の恐ろしさを思い知らされた。
これは与えたのに釣り合う呪いなのだ、と。
老いていくのが当たり前である者は皆、不老不死の魔女になった私の呪いを羨んだ。
ただ一人、早希だけが「かわいそう」と涙を流してくれた。思えば変わった感性の子だった。
認知症を患った曾孫は、私が誰なのかもわからずに、介護に対する感謝の言葉を紡ぐ。
あなたも、私を置いていくのね。
「あ、そうそう……」
いよいよ弱々しく、早希は蚊の鳴くような声で話し始めた。
私が顔を寄せると、彼女はゆっくりと声を絞り出す。
「実はね、私の一族は、ひいおばあちゃんの言いつけで、お墓の世話になる歳になったら、とっておきの毒薬をひいおばあちゃんのお墓にお供えするように言われているの……」
「そうね」
知っている。
それを家族に頼んだのは私だから。
この子も私の言いつけを守って、毒を用意したということだ。
早希は大儀そうに、ベッド脇の戸棚を指差した。
「もう足腰が弱って、お墓に行けないから、凜子さんが供えてくれないかしら」
「お安い御用よ」
極力元気そうに返事を返すと、早希はゆっくりと息を吐いた。
「これで、安心」
それが彼女の最期の言葉となった。
早希……あなたも私を置いて逝ってしまったのね。
早希には子どもがいない。
遂に私だけが取り残された。
病気でも怪我でも死なない私を不憫に思ったのか、ある時、息子の一人が、毒を用意してくれた。
結果は失敗。常人の半分も苦しまずに、けろっと消化してしまった。
だがその日、私は新たな発見をした。
ほんの僅か――五歳くらいだろうか――鏡に映った自分が老けているのに気付いたのだ。
家族が用意した毒薬だけが、私を老いさせる。
こうやって愛情の溶け込んだ毒を飲み続ければ、いつか私も彼岸にたどり着けるのではないか。いや、もしかしたら身体だけが老い続け、結局は死ねないのかもしれない。
諦念。
絶望。
それでも私は――
ゆらりと立ち上がると、早希が示した戸棚を開ける。
果たして、そこには一本の遮光瓶が私を待っていた。
「どうせ……」
ラベルを見もせず、蓋を取って中の液体を喉へ流す。
馴染みの味。
失笑するほど見知った、鉄の匂いがする液体。
毒でも何でもない。
ただ、あの子の優しさが染みるだけ。
「でもね、早希ちゃ……っ!」
身体の様子がおかしい。
見る間に皮膚が潤いを失っていき、萎んでいく。
立っているのが億劫になる。
一体これは何……いや、誰の――
慌ててラベルを読む。
視力もみるみる悪化していく中、ようやくラベルに焦点が合った。
『早希の血液』
そして下にはメッセージが。
「ひいおばあちゃんが死ねなくて困っているのはわかっていました。家族が渡す毒は、その人の愛情の分だけあなたを老いさせる――つまり死へと近づける効果があるのではないかと思います。
私の予想が正しければ、気持ちの籠った身体を流れた血が、最も愛情を伝えるはず。私は誰よりもひいおばあちゃんが好き。毒性のない液体ですが、自信はあります。
一緒に逝けるといいですね。
記憶がクリアな隙に 自宅にて 早希」
視力が失われたのか、目が涙で覆われたのか、二度は読めなかった。
でも、構わない。
「早希ちゃん……ありがと……」
ついに。
ようやく。
命を手放すことが――
それでも魔女は毒を飲む 近藤銀竹 @-459fahrenheit
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