午前三時の小さな冒険
大地 鷲
午前三時の小さな冒険
「ただいまぁ……うー、おなか……痛い」
おなかを押さえながら靴を脱いでいると、おかあさんがエプロンで手を拭きながら玄関にやってきた。
「だから、無理しないで休めばよかったのに。大人にだって『生理休暇』ってのがあるくらいなんだから。しかも初めての生理でしょ?」
心配そうな顔つきのおかあさん。
そう、わたしは昨日の夜に「女の子」から「女性」になっていた。つまり、この痛みはいわゆる生理痛って奴なんだ。
やけに重く感じたカバンはおかあさんが持ってくれた。わたしは部屋に寄って学生服を着替えてから食卓についた。
テーブルの真ん中に大好きなおまんじゅうがあったけど、食べる気にもならない。
「あら、おまんじゅうに手を出さないなんて重症ね。……学校じゃ大丈夫だったの?」
対面キッチンの向こうでお味噌汁を作りながら、おかあさんが訊いてくる。
「うん……まぁ、辛かったことは辛かった……」
「ほら、言わんこっちゃない」
「でもね、それ以上に嬉しかったことがあったんだぁ!」
キョトン、とした顔で、おかあさんが首を傾げる。
「おなか痛いの我慢して出た音楽の授業で、わたし褒められたの! ……今日の授業は独唱でさぁ、辛かったけどおなか痛いのを吹き飛ばすつもりで歌ったら、みんながみんな拍手喝采だったの! あの
音楽の
ところが、それ以上のビックリが遅れてわたしを襲ってきた。
「そしてさぁ、教室に戻ったあとで、隣の席の渡瀬クンがね、わたしに向かって『お前のことが好きだっ!』なーんていったもんだから、大騒ぎになっちゃって」
あのときはわたしもすごく驚いた。……確かに渡瀬クンには好意がない訳じゃないけど、いきなりあんな風に告ってくるなんて思わないじゃない?
そこに他の男子や女子が集まってきて、ケンケンゴウゴウの大騒ぎになっていた。まぁ、すぐに次の授業が始まったし、放課後はおなかの痛みも最高潮だったから恋バナなんてする余裕がなくって、すぐに帰ってきたんだけどさ。
「……そっか」
おかあさんの反応が薄かった。恋バナ好きのおかあさんは、こんな話をしたらいつも身を乗り出して喰い付いてくるのに、今日は違った。
ちょっと拍子抜けのわたしに、キッチンを抜けてきたおかあさんが頭を撫でてくれた。
「そうね……あなたも『女』になったんだものね」
「……うん」
おかあさんはいつもよりもしみじみとしていた。
不意に目をやったおとうさんの席に、水でふやけて乾いたような封筒があった。
「それ、おとうさんから?」
おとうさんは船員をしているから、長いこと家を空けることがある。今は丁度航海中なのだ。
手を伸ばしてその手紙をつかもうとしたら、おかあさんに阻まれた。手の中に握り込まれ、くしゃっとなった手紙。
「あーあ、そんな風に鷲掴みにしちゃってぇ。いけないんだぁっ!」
「違うのよ。これはお父さんからの手紙じゃないの。……大体、お父さんなら、スマホで話できるじゃない?」
「あ、それもそうか」
その後も食欲がわかないまま、わたしはお味噌汁だけ口にした。
◇
夜中に目が醒めた。
枕元の時計を見てみると三時だった。
「まだ、こんな時間かぁ。……トイレ行って寝よう」
用を済ませて、部屋に戻る途中のことだった。
「——?」
かすかに聞こえる歌声。何処かで聞いたことがあるようなメロディ。何処とはなしに、耳の奥から心の底にまで届くようなきれいな声。
時間は午前三時。ゴクリと唾を飲み込んだ。
「……オバケじゃないよね?」
何処から聞こえてくるのかは分からない。けど、家の中からじゃないのは確かだ。
パジャマの上からカーディガンを羽織って、わたしは静かに静かに玄関のドアを開けた。
歌声はさっきよりもわずかながらに大きく聞こえた。……マンションの上の方からだ。屋上なのかな?
そろりそろりと、音を立てないように階段を上がっていく。
だんだん歌もはっきりと聞こえるようになってきていた。間違いなく屋上で誰かが歌っている。……でも、誰が? それに加えて、歌っている言葉がまったく分からない。日本語じゃない。英語でもない……と思う。そして、何だろう……ずっと聞いていたい、もっと近くで聞きたい——そう思わせる。
わたしは歌に魅了されていたのかも。階段をゆっくりと上がっていたはずなのに、今じゃ普通に上がっている。音を立てないようにしていたのに、気がつけばそんなの気にしなくなっている。
屋上への扉が目の前にあった。歌は未だに続いている。もっと聞きたい。ドア越しじゃなく、生の歌を!
少し重い金属のドア。身体も使って押し開けた。
正面には大きな満月。
屋上の手すりを掴んで、満月に歌う後ろ姿。
その途端、満月の夜が丸ごと海の中に沈んだような錯覚を覚えた。
薄く仄暗い水の膜の向こうに後ろ姿が揺らいでいる。
「お……かあさん……!?」
素敵な歌に混ざった不協和音——わたしの声だった。もう、水の膜もなくなっている。
「……どうして、ここに」
おかあさんがびっくりした顔をしている。
「目が醒めちゃって。きれいな歌が聞こえるなって思ったから……気がついたら、ここまで来ちゃってたの」
「今のずっと見てた?」
「途中からだけど……ね、今のは何? 水の中に沈んだって勘違いしちゃった! それにしても、ステキな歌! わたし、大好き! ハートをがしっとつかまれたって感じ! ……ねぇ、おかあさん? なんの歌? 何語の歌なの?」
「そっか……ごめんね」といいながら、おかあさんはわたしに振り返る。
「私が一番最初に覚えた歌よ。昔の私がずーっと
「……?」
腕を組んで首を傾げたわたしに、おかあさんは苦笑した。
「そうね……あの夜もこうやって月を見上げて歌っていたわ」
わたしから満月に視線を移し、おかあさんは更に言葉を紡いでいく。
「……私の歌にはね、船を……いや、船乗りたちを魅了する力があるの。そして、近くにある岩礁に衝突させてしまうのよ」
「……え? それって、もしかして……セイ……レーン?」
わたしの何とは無しの疑問符に、おかあさんはゆっくりと首を縦に振った。
セイレーンは海の怪物で、岩礁から美しい歌声で船で旅する人たちを惑わし、遭難や難破に遭わせる——でもそれって、ギリシア神話の中のお話じゃないの!?
「あの
月を見つめたまま、お母さんは続けた。
「——だけど、このときだけは違っていた。近付いてくる船からそのメロディは聞こえてきたの。ちょっと物悲しい音色の優しい旋律が、私の歌を引き立たせてくれる。私は音の源を探したの。そしたら——」
あっ……何処かで聞いたことあるなぁって思ったけど、これって、おとうさんが昔ハーモニカで聞かせてくれた曲だ!
「——甲板の手すりにもたれかかって、ハーモニカを演奏していたのがお父さんだったの。私はひと目でお父さんに恋をしてしまった。そして、周りの反対も押し切って、逃げるようにお父さんの許に飛び込んだの」
ちょっとはにかんだ風のおかあさん。
そんなおかあさんの目が細まり、懐かしそうな色に染まる。手にはさっきテーブルにあったしわくちゃの封筒が握られていた。
「これね……私の故郷からの手紙だったの。『もう帰ってこないのか?』って内容のね。懐かしかった。嬉しかった。私のことを忘れないでいてくれたのよ、みんな」
おかあさんとは対象的に、わたしの心には不安が芽を吹き出していた。
「……おかあさん……」
不安が声に出ていたのかもしれない。
おかあさんはわたしをぎゅっと抱き締めた。わたしはしばらくの間、おかあさんに包まれていた。
すーっとおかあさんが離れる。そして、おかあさんはもう一度満月に振り返る。おかあさんの背中越しにさっきの歌声が聞こえてきた。
なんて歌っているのかは分からない。だけど、さっき聞いたときよりも力強く、どこか決意らしき思いに満ちていた。満月の明るい光も届かない暗い海の底にまでも届け——といわんばかりの声だった。
それとともに、何だかおかあさんの姿がだんだんと薄らいでいくように見えた。
——えっ! 嘘でしょ?
込み上げる焦燥が口を吐いていた。
「おかあさん! 行かないで!」
思いっきり、おかあさんに手を伸ばす!
「……行かないよ」
おかあさんが私の手を握って微笑んでいた。
「行く訳ないでしょ? 私にはあなたがいるし、お父さんもいる。二人のことが大好きなんだもの。置いてなんか行けない。……今の歌はね、『私は元気にやってます。愛する家族もいるから、そっちには帰れない』って返事を歌ったの。だから……大丈夫」
「おかあさん!」
思わず抱きついていた。
おかあさんは私の頭を「よしよし」と撫でてくれたけど、不意にわたしの肩を掴んで、ゆっくりと引き離す。そして——
「えいっ!」
得意のデコピンだった。
「ふにゃ! 何するのよぉ……」
「こんな夜中に家を抜け出した罰。これくらいで許してあげる。……で、どう? 今のお話。今作ったでまかせにしてはいい出来だと思わない?」
「……ふぇ!?」
今の……冗談……だった、の? セイレーンのお話もおとうさんとのなれ初めも、その他丸ごと引っくるめて……全部うそぉ!?
ぽかんとするわたしを尻目に、おかあさんがクスッと笑って続ける。
「そんなおとぎ話みたいなことがある訳ないでしょ? 冗談よ、冗談。……さ、午前三時の小さな冒険はおしまい。あなたも、こんな遅くまで起きてたんじゃ、明日の朝が大変よぉ。さ、寝ましょ、寝ましょ」
わたしの肩をぽん、と叩いて、おかあさん私の脇を抜けて戸口に向かう。
「——!?」
何となく、潮の香りがしたような気がした。それと同時に、何かが分かったような気がする。
——やっぱり、おかあさんはセイレーンだったんだね。
おかあさんの歌に魅了されたのは本当のことだもの。そんな歌聞いたことなかったもの。それに、わたしの歌を聞いた渡瀬クンがいきなり告白してきたのは、そんなおかあさんの血をわたしがちょっとだけでも受け継いでいるからかもしれない。
屋上のドアを開けようとしているおかあさんの背中を見ながら、わたしはそんなことを考えていた。
「……帰らないでくれて、ありがと……おかあさん」
ちょっと余韻に浸っていたわたしに、ドアから顔を覗かせたおかあさんから声が掛かる。
「早く来ないと、カギ掛けちゃうぞ!」
「……あ、待ってよぉ!」
わたしもドアに向かって駆け出した。
午前三時の小さな冒険 大地 鷲 @eaglearth
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