第七章 情 歌
後一時間もすれば、空を
遠景の輪郭は闇に融け込む直前、一瞬鋭くなるはずだ。その瞬間には、本当にこの窓から世界中が見えるかもしれない。粗くなりはじめた港町の夜景を、僕はそんな期待を懐きながら眺めていた。
「アンは
…
手配師の言葉が、僕の頭を過ぎった。
「子供のとき」
リンは首を傾げて僕を見た。
「遠い街に憧れなかった? 知らない土地には楽しいことが待っていると思わなかった? 私、今でもそう思っている」
「ここは、そんな夢の街じゃない」
「夢はあるわ。窓の外をご覧なさい」
人の夢が小さく光って、あんなに沢山見えるじゃないの…。
「夢を求めて人が集まるんじゃないわ。集まる人たちが夢を持って来るのよ」
楽しい夢や、哀しい夢をね…。
「アンはね、ひと稼ぎしようなんて思ってこの国に来たんじゃないわ。私にはわかるの」
リンは強く言った。
「アンは、あなたのことをどう思っていたのかしら」
「入管に捕まる前の日、彼女は僕をラブホテルに連れていった」
「彼女、抱いて欲しいと言ったんでしょ?」
「うん」
「アンを抱きたかった?」
「うん」
「抱いてあげたの?」
「いや」
「私に
アンを抱くことは出来なかった。ぎごちない
「あなたはアンのことをどう思っていた?」
「好きだったよ」
「二十歳も
「
「降参だわ。私ね、あなたが『被写体』なんて言葉を使ったら、横っ面をひっぱたいて帰ろうかと思っていたのよ」
リンは、しばらく口を閉ざした。彼女の沈黙は、迷いを含んでいる。
「ビエンナーレの賞金はどうしたの?」
大手カメラメーカーの後援を得たビエンナーレの賞金は、約五百万と高額だった。
僕は賞金を、川口一に渡した。金は何回かに分けられ、モデル代という明細書付きで、アンと彼女の母親に送られた。
リンは再び口を固く結び、黙っている僕に視線をぶつけてきた。そして何秒かその表情を
「モデル代は全額受け取ったそうよ」
「アンに会ったのか?」
リンは小さく
「先週会ったわ。川口さんにアンの住所を教えて貰って、日本に来る前に寄ってきたの」
川口親子は新聞社のリン宛に、ヤらせインタビューの詫び状を送っていた。
「顔を繋いでくれたあなたには悪かったけど、あなたに黙って川口さん達と連絡をとっていたの。受賞した写真を見たとき、私、川口さん達にいろいろ
アンが母親と暮らす家を、先週、リンは訪ねた。
「小さいけど新しくて綺麗な家だったわ」
リンは立ち上がり、クロゼットから自分のバッグをもってきた。
「私が訪ねた時、アンは留守だったの。それで、先ず彼女のママと話したわ。日本語で」
「日本語?」
リンは、バッグから一枚の写真をとり出した。
「アンのママから借りてきたものよ」
写真を眺めたまま数十秒、僕の身体は
やがて目を閉じて溜め息をつき、
「運命を信じる?」
リンの問いに、僕は小さく頷いた。
「それ、祈りの写真ね?」
キャビネ大の印画紙に焼きつけられた祈る女性の姿は、十九年
「その写真を撮ったのは、アンの父親よ。写っている女性は……」
「アンの母親だ」
「そう。『天使をください』の天使と『天使の希み』の天使は、同じ
「アンの部屋にあった写真を見て、なぜ気がつかなかったんだろう」
「あなたが写真学校の先生だからよ。いつも写真を読もうとしている。ただ感じるだけで充分なのに」
……人は印画紙の表面から複雑な思想や高次な哲学を読むのではない。撮影の瞬間に凝縮された写真家の生きかたを感じとるだけだ。昔、そう教えてくれたじゃない……。
「あなたが祈りの写真を観たとき、画廊に写真家がいなかったでしょ。あの日は、アンが生まれた日だったのよ。個展なんか放り出して、産院にすっ飛んで行ったんでしょうね」
大きく引き伸ばされた祈りの写真は、写真家が自分の子の無事な誕生を祈るために飾ったものだ。『天使をください』は作品のタイトルではなく、祈りの言葉だった。
祈りの写真には何の
「アンのママは十八歳の時、日本に来たの。そして、一年後、川口さんの所で若い写真家と知りあったわ」
写真家は、裏世界を取材しようと川口一に
「後は、川口さんの若夫婦と同じ様なケースね。ただ、アンの両親は結婚していないわ。それに……」
アンの父親は、アンが生まれて半月後に他界した。
「交通事故ってことになっているけど、事故に見せ掛けた殺人かもしれないって、川口さん言ってたわ。川口さんの子分と間違えられたのよ」
暗黒組織間のトラブルに巻き込まれたのだ。
……先生、俺はあんたを見ていると、その舎弟のことを思い出しちまうんだ……
無念だっただろう。自分の子供を数度抱いただけで死んでいった男も、そして川口一も。
「どうして、アンの両親は結婚しなかったんだろう?」
「彼に奥さんがいたのよ。別居していたけどね」
「アンはそのことを知っていたのか?」
リンは頷いた。
「アンの部屋にあった写真を見て不思議に思わなかった? 家族の写真に父親がどうして写っていないのか」
……父親がカメラマンだったからよ。
「あなた、自分が写っている写真持っていて?」
「いや」
「写真家の
アンの家には父親が写っている写真が一枚も無かった。リンは、そう言った。
「アンが何故この国に来たのか、わかったでしょ?」
アンは、父親の顔を知らない。
「さっきは
リンは、もう一度バッグを開け、ボイスレコーダーをとりだした。
「アンは夕方、私を訪ねてホテルに来たの。アンからあなたへのメッセージよ。聴き終わったら、一緒にシャワーを浴びようね。そして、ベッドで抱きあうの。半年も会っていないんだもの、半年分抱き合うのよ」
リンはボイスレコーダーを僕に渡した。
「私、部屋の隅に行っていましょうか?」
「そこに居てくれてかまわない」
しかし、リンは椅子をもち、書見台の前まで移動した。
……先生おめでとう。コンテストでウィンして有名になりましたね。私は先生のシャシンのモデルになることできてうれしいです。日本にいたら、お祝いしましたね。でも、私、強制送還でしょう。ごめんなさい。夜の写真、ストリートウォーカーの私… …
ボイスレコーダを停めると、リンは振り向いた。
「続きを聴いて」
……マリ、私に頼みましたね。ストリートウォーカーのカッコウしなさい。セレナで記者さんダマすのよ。でも、私、お店、間違えました。私、イーストセレナで待っていたのです。でも、先生は私と会いましたね。私が「パパ」と言ったとき、先生、私をスナップしたのです。私のパパ、フォトグラファーだったのです。先生が私のシャシン撮ること、私のパパ、お手伝したのです……
……僕を写真の世界に引っ張り込んだのも君のパパだ。……
……お金タクサン、ありがとう。川口のお父さん、送ってくれました。私とママ、家を買いました。私とママ、何年も暮らすこと、できます。シャシン集、どうもありがとう。ママ、知り合いの人たちみんなに見せます……
写真学校のスタジオで撮影した写真を製本し、アンに贈ったのだ。
……私、先生とラブしたかったよ。先生、どうして私とラブしてくれなかったのですか? 私、かなしいです。あのホテルで、私のママも働いていました。先生と一緒に入った部屋、私のパパがママをクドいた部屋でした……
アンが好きだと言っていた部屋で、アンの両親は睦み合った。そして、アンは日本を故郷として生まれた。
……だから、私、あの部屋で先生とラブしたかったの。私……だったの……
単語がひとつ聴きとれなかった。
「アンの国の言葉でヴァージンと言っているわ」
巻き戻して聴きかえそうとしたとき、リンが顔を上げて言った。
「僕が写したのは処女の娼婦か」
「何だか嬉しそうね」
リンは書見台に視線を落としたまま小さく笑った。
……私のママ、あのホテルでベッドメイキングしていたのです。ホテルの小母さん、私のママを知っているのです。私のママがパパをつれてホテルに行ったとき、小母さん、ママに『幸せになるのよ』といいました。マリも、あのホテルでベッドメイキングしていたのです。マリが健さんをつれてホテルへ行ったとき、小母さん、マリにも『幸せになるのよ』と言いました。私が先生をつれてホテルに行ったとき、小母さん、私にも『幸せになるのよ』と言ったのです。ママとマリと私、私だけアンラッキーでしたね……
「あなたはやっぱり
リンがペンを動かしながら言った。彼女は書見台の前に座った直後から、何かを書き続けている。
……先生、レストランで私に財布をわたしたでしょう。私、嬉しかったです。マリ、お金払うとき、いつも健さんの大きな財布からお金出すのです。私、先生の財布からお金出して払いました。お店の人、きっと私のこと、先生の奥さんだとおもっていたでしょう……
ファミリーレストランの店員達は、何の違和感もなく、三人を家族と
……川口のお父さん、ママのところに帰りなさいと言いました。先生には奥さんみたいな人います。だから、先生好きになったらだめと言いました……
「ごめんね。私、川口さんにあなたとの関係を
……先生とラブホテルに行った次の日、私、イミグレーションビューロー行きました。ひとりで行きました……
アンは、自ら入国管理局へ
「これ以上聴かないで。アンはこの後、泣き出すわ。私、再た嫉妬してしまう」
リンが間近に居た。彼女は僕からボイスレコーダーを取り上げ、停止ボタンを押した。
「
リンが差し出したホテルの便箋には、数行の英文が早書きされていた。
『
先月、ヨーロッパの或るビエンナーレで日本人の写真家が受賞した。受賞者は、昔、私に写真を教えてくれた男性である。
娼婦たちの日常を取材中、幾度となく体験した不思議がある。
街灯の光を浴びながら「パパ」と
東洋の夜の街で女たちが歌い続けてきた或る
……あなたが
……死ぬことさえできない。
前述の写真家は今、私と同室している。
私はこの文章に
「先にシャワーを浴びているわ。
リンはバスルームのドアを開け、その陰で上着を脱ぎ始めた。
細微な水滴が
(了)
相思歌(シャンスゥコ) Mondyon Nohant 紋屋ノアン @mtake
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