file2 チョコレート・アイスバー

 

 うだるような暑さの夏の休日。

 空気を削り取るように鳴る、蝉の声。

 中華飯店の厨房のような蒸し暑さに耐えかね、俺は涼しさを求めてベランダに飛び出る。俺の手にはリビングから持ってきたチョコレートアイスバーが握られている。


「あ、音成くん」


 すると隣のベランダにも人影。

 言うまでもなくそれは俺の隣人であり幼馴染の月野夜子だ。

 宇宙の漆黒を想起させる黒髪と、見つめ合っていると吸い込まれそうになる瞳は昔から変わらない。よく外に出ているのにも関わらず真っ白な素肌が夏の日差しに眩しかった。けれどいっつも黒い服を着ているし、名前も月の夜なんて洒落たネーミングだから俺は夜子に対して黒の印象が強い。

 ちょうどそう。

 俺が今持っているチョコレートアイスバーと同じ色をしている。

 光を放つ黒色だ。


「あっちぃな」


「これは恐らく私の脳機能を低下させることが目的のフレアバーストね。暑くてクラクラするわ」


「相変わらずだなお前も」


 相変わらずマクロな方法でミクロな効果を期待する組織であるが、しかしまあ頭が回らないと言うのはその通りで、住宅街の道路向こうに見える山々を揺らめかせる蜃気楼が、果たして本当に蜃気楼なのかうだる暑さで視神経がやられてしまったのか区別がつかない。

 あ〜、あついんじゃ。


「は〜、俺の部屋のエアコンがぶっ壊れてなきゃな」


「リビングに降りていけばいいんじゃない」


「今は妹が勉強中。受験期だし邪魔したくねえんだよ」


「ハル高校結局どうするって?」


「うまくいけば来年俺らの後輩だとよ」


「そう…まああの子なら大丈夫でしょう」


 マウンドに立つ高校球児の額のように、チョコレートアイスバーが溶け始めていた。ぽとり、と黒い雫が手元に滴る。俺はなるべく早くに食べきってしまおうとアイスバーを齧る。


「てか、お前もエアコンどうしたんだよ」


 エアコンがちゃんと機能している家ならば、ベランダに出るより部屋に閉じこもっていた方がよっぽど快適だろうに、なぜこいつはわざわざベランダで黄昏ているのだろうか。


「私、気がついてしまったのよ」


「……」


「エアコンは、人類を破滅に追い込むわ」


「……あー、それは恐ろしいな」


「ちゃんと聞きなさい。これはあなたも決して他人事ではないわ」


「そりゃ人類規模なら他人事じゃないわな」


 まあ、なんだかこうなる予感はしていたんだが、仕方ない、いつものことだ。


 とりあえずこうして夜子の陰謀論が始まった以上、話し終えて満足するまで逃げられないだろう。アイスバーの肴にでもするかと俺はエアコンによる人類終焉シナリオを聞き入れることにした。


「あなた、エアコンの本来の名前を知っている? 略称じゃないやつ」


「エアーコンディショナーだろ」


「そうよ。なら、あなたはエアーコンディショナーとエアーコンプレッサーの違いはわかるかしら」


「それタイヤに空気入れるやつだろ。全然違うじゃねえか」


「じゃあトリートメントとコンディショナーの違いはわかる?」


「え? そりゃあ、あれだろ…? なんかこうトリートメントは髪の毛をこう整えて、コンディショナーはこう…髪の毛を整えて…」


「どっちも整えてるじゃない」


 男っていうのは正直全部シャンプーだと思っている。リンスくらいは使うけれどまあぶっちゃけ世の男の大半は髪につけるものは全部シャンプーだと思っている。髪につけて流してしまえば全部シャンプーだ。もうシャンプーがシャンプーすぎてこれはシャンプーですか? いいえシャンプーです。


「まあ簡単に言ってしまえばトリートメントは髪の養分を送ってダメージを補修する効果があって、コンディショナーには髪の毛の表面を保護してキューティクルを整える効果があるわ」


「要するにトリートメントがホイミで、コンディショナーがスカラってわけだな」


「なんだか女子の髪の毛を冒涜するような発言ね。でもトリートメントはホイミというよりリホイミって感じね」


「さいですか」


「つまりコンディショナーというのは、非常に保守的な意味を持つのよ。選手のコンディションを整えるってスポーツでいうように、基本的にコンディションというものは恒常的に保たれることが理想なわけ」


「……はぁ。まあわからんようなんだか」


「しかしここで目を向けたいのはこの『エアー・コンディション』という言葉を日本語訳した時の呼び名よ」


「日本語?」


 エアコンを日本語で?

 あれ…なんていうんだ?

 扇風機…なわけないし。

 冷房? ああでもそれだと暖房と混合してしまう。

 エアー、だから空気だろ?

 それでコンディションだから…体調?


「空気調和」


「……」


「空調と略されることが多いわね。スチュアート・W・クラマーが特許出願の際に初めてエア・コンディショニング(空気調和)という言葉を使ったの…調和、つまりは同調…これはただ局地的に部屋を涼しくさせるだとかそういう次元の話じゃないと思わない? 何か作為的な意味を感じ取れるわ」


「はぁ…」


「空気を調和(ハーモニー)させる。有名なSF小説にそんなタイトルがあったけれど、あの世界はまさに調和によって生まれた一種のディストピアよ。エアコンというマシンの秘めた力は、世界規模にまで広がっていく可能性がある。今この文明社会では誰もがエアコンの恩恵を受けている。私も昨日まではその一人だった。しかし私はこれが組織の人類を破滅に追い込むプログラムの一つだということに気がついた」


 さあ、今のところまったく世界が滅びそうな感じはしないが、ここからどう展開させていくつもりなのだろうか。俺の中の幼馴染への期待がどんどん膨らんでいく。


「最近、悲しいけれどお年寄りの熱中症が増えているわね」


「ん、あぁ…」


「それだけじゃないわ。若者の熱中症患者も増えている。全体的な死者数の推移について語るなら戦前から戦後にかけての過酷な期間の熱中症による死者数は年間200人〜300人。だけど2010年の死者数は1700人以上だった」


「……あれ」


「気づいたようね。不思議じゃない? 夏の暑さを緩和するためのエアコンが普及したのにも関わらず、熱中症による死者数は数段に跳ね上がっている」


 確かにおかしい話だ。エアコンがない時期よりもエアコンがある時期の方が熱中症による死者数が多い。普通は逆になりそうなものを…。


「私が考える理由は二つ。一つは地球温暖化による気温上昇。事実2010年はここ数年でも最大の気温上昇を記録している。地球の温度が上がって熱中症が増えたっていうシンプルな構造ね」


「二つ目は?」


「エアコンが造られて人類が貧弱になった」


「ほう」


「私たちはエアコンによって調和が齎された空間で生活している。それによって本来生物として備わっているはずの体温調節機能が低下しているのよ。事実私たちは夏場をエアコンなしでは過ごせなくなっている。まるで熱帯魚みたいに温度調節がミスれば死んでしまうようになった」


 体温調節……そういえば俺はこの話を聞くまで「空調」という言葉の正式な呼び名を「空気調節」だと思っていた。


「空気調和によって一定に保たれた気温は私たちに、調節の機能を奪わせた」


「なるほどなぁ、それでエアコンが人類を破滅させてしまうんだな。確かに空調が効いてる部屋は破滅的なほど快適だよなぁ」


「そうね。そして私がそれが組織の陰謀だと気づいたのには最大の理由がある」


「最大の理由?」


「一つ目の理由の地球温暖化は『エアコン』のせいなのよ」


「!」


 確かに、温暖化が取り沙汰にされて「節約ブーム」が到来した時には真っ先にエアコンの使用が控えられた。それは逆に言えば地球温暖化とエアコンの関係は密接に結びついているということであり、恐らく温暖化の原因の一つがエアコンによる大規模な電力消費が……。


「ちなみにエアコンと温暖化の関係は電力消費だけじゃないわ。エアコンの機能を司るフロン類がオゾン層に有害なのよ」


「まじかよエアコンくそだな」


 オレ、チキュウノ、ミカタ。エアコン、キライ。


「さてここで不思議なサイクルが生まれているわ」


「サイクル?」


「地球温暖化が進む→→暑くなる→→エアコンが使われる→→エアコンで体内の温度調節機能が低下する→→熱中症患者が増える→→エアコンを使ったことで地球温暖化が進む→→暑くなる(以下ループ)」


「え、人類終わりじゃん」


「そう。人類はエアコンに手を出した時点で滅びの流れへと舵を切ってしまっていた。まるで何かに誘き寄せられるように……! これこそ組織の陰謀なのよ!」


「温暖化に対抗するほど温暖化が進むってことか。世界は随分と矛盾を抱えてるもんだな」


「私はこれから組織へのネガキャンに勤しむわ。エアコン制限生活よ」


「まあ熱中症にならない程度に頑張れよ。お前がいなくなったら組織に対抗できる人間がいなくなっちまう」


「……そうね」


 こんなデタラメな暑さの中で、頭がやられてしまったらしい。なんだか本当にこの世界が滅亡に向かっているような気さえしてきた。あの山々をボヤかす蜃気楼のように、まるでこの世界の未来も揺らいでいるようだ。

 夏が世界の終わりを予感させるなんて、エヴァンゲリヲンの見過ぎだろうか。


「ところで音成くん。組織との戦いのためにエアコンを制限する覚悟をした幼馴染は今何が欲しいと思う?」


「……」


 随分と長話をしてしまったせいで、チョコレートアイスバーはドロドロになり始めていた。


 俺はベランダの右端まで歩いてくと、夜子も俺との距離を詰めるためにベランダの左端まで歩いていく。俺と夜子の距離が家と家の隙間1mほどにまで接近する。


「新しいの」


「これが最後の一本なんだよ」


「…仕方ないわね」


 俺が差し出したアイスバーに、夜子は身を乗り出して頬張りつく。

 垂れたアイスがつかないように、艶やかな黒髪を耳にかける。普段は見えない耳元の肌が露出して、そこに滴る小さな汗粒が夏の日できらめく。身を乗り出したことで夜子の黒いワンピースに肌との隙間が生まれる。下着の一部がちらりと目に飛び込む。白だった。

 唇から小さく舌を出して、棒についたアイスを丁寧に舐めとっていく。

 俺がほとんど食べてしまったから、夜子のは最後の一口だった。夜子はベランダの柵前に引き下がりながら、口に含まれた中身のバニラアイスを飲み込んだ。口端から垂れた白いアイスも舐めとる。


「なんかお前、食い方エロいな」


 あんまりに……だったので俺は思わず言葉にしてしまった。

 すると棒を頬張る少女、という絵面から俺が想像した状況を夜子は理解したのか、ギロリと深い黒色の瞳で俺を射抜く。


「……っ」


 とぼそりと呟く。


「…なんか言ったか?」


「音成くんの変態って言ったの…昔はそんなんじゃなかったのに」


「あ? いつの話だよ。てか今の意味がわかったってことはお前だって」


「…!」


 すると夜子の白い頬が真っ赤に染まっていき、エアーコンプレッサーで空気を入れたタイヤのように膨らんでいく。


「最っ低! これも組織のマインドコントロールね!」


「組織も暇だなぁ」


 陰謀論を語っていたあの得意げな顔はどこへやら、ぷいっとそっぽを向いて、そのまま蒸し暑いだろう部屋に戻って行ってしまった。このまま俺が部屋に戻らなければ彼女は組織との戦いのためにサウナ状態の部屋にこもっているだろう。ならば早急に俺がベランダを明け渡さねばならない。

 

「ったく…冗談で受け流せよな」


 黒い髪に黒い瞳に黒い服。

 俺にとって夜子のイメージは黒色だ。

 そう…。

 ちょうどさっきまで食べてたチョコレートアイスバーのように…。


 外見はチョコレートのように黒くて、中身は白くて甘い、バニラアイスのような奴である。



 


  





 


 







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幼馴染の美少女が陰謀論者すぎてやばい 丸助 @sakabayashi

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