ミニチュアハウスの恋人

Mondyon Nohant 紋屋ノアン

 

 本物そっくりに作られた模型自動車のハンドルを握りジオラマの街を走りまわりたいと思ったことはないだろうか。指先にるほどの小さなロッキングチェアーに身をゆだねドールハウスのインテリアを内側からながめたいと思ったことはないだろうか。ミニチュアの世界で遊ぶミニサイズの自分を想像し心を楽しませる人は多いはずだ。

 人々が「豪邸ごうてい」と呼ぶ家に、僕はロボットの執事と二人で住んでいる。家は三千坪の広大な敷地の真ん中に立つ築百五十年の洋館で、延床のべゆか面積は百五十坪もある。こんな豪邸、四十歳の独り身にはもったいないと相応そうおうな家への転居をすすめてくれる人もいるが、僕は引っ越すつもりはない。この家は亡くなった両親や初恋の人との思い出に満ちているし、他所たしょには容易に移しがたい僕の憧れと研究の対象が置いてある。ちなみに僕には代々受け継いだかなりの額の資産があるから、この程度の「豪邸」の維持いじに困りはしない。

 僕の憧れと研究対象というのは、家の地下室にあるジオラマだ。父の最後の作品だった。

 父は科学者でナノテクノロジーの権威だったが、縮尺模型の作家としても有名だった。父の作るミニチュアはその形状においてナノレベルの精巧せいこうさを極めていた。ただ、原寸げんすんの実物そっくりに縮小再現されていたのは形や構造だけではない。父の作品は実物と全く同様に機能した。例えば、三十数年前に父が製作した百分の一スケールの小型飛行機は、航空博物館の館内で今でも曲技きょくぎを続けている。実機じっきと同様、パイロットが操縦席に座り操縦桿そうじゅうかんを握って飛ばす。AIを搭載とうさいした身長十七ミリのパイロットも、もちろん父の作品だ。

 縮尺模型に原寸大の実機と同じ空力学くうりきがくは適用できない。時速五百キロで飛ぶ実機の百分の一スケールの模型を時速五キロで飛ばすには、模型の形状をかなりデフォルメする必要がある。しかし、父の作品はボルト一本にいたるまで正確な縮尺しゅくしゃく比率ひりつを保っていた。

 父がのこした微細びさい加工技術の謎は、父の研究仲間や僕がそのほとんどを解明している。しかし、父の最後の研究については詳細なデータが二十五年前の研究所火災で焼失してしまい再現性が極端に低い(つまり誰も同じものを造れない)ために、多くの工学者から「魔法」と呼ばれている。その究極の「魔法」が、我が家の地下室にあるジオラマだ。

 二十五年前の我が家を敷地ごと再現した百分の一スケールのジオラマは、半径七十センチの透明なドームに隙間すきまなく覆われている。「科学」に還元かんげんすべき第一の「魔法」がこのドームだ。

 照明を落として地下室を真っ暗にしても、ドームの内側だけは昼間の様に明々あかあかとしている。そうかと思うと、地下室は明るいのにドームのなかは夜の暗さでミニチュアハウスの常夜灯じょうやとうや敷地の其処此処そこここともる外灯が美しい夜景を見せることもある。ドームが外の光を遮断しゃだんして勝手に光陰こういんをつくり出しているのだ。それだけではない。敷地内にある十センチ四方のプールの水面は、昼間には雲を浮かべた青空を、夜には煌々こうこうと輝く月をうつす。このドームの取り外し方はわからない。開口部がないのでないきょうや小型カメラで内部を探ることもできず、スノーグローブを眺める時のように中のミニチュアに触れられないもどかしさはあるが、仕組みを解明するまではドームを壊すわけにもいかない。ただ、ドーム内にアクセスする方法が全くないわけではない。

 ドームに出入りできる者が一人いる。十五歳の時の僕をモデルにして父がつくった身長十六ミリのミニロボットだ。彼が指先でドームに触れ呪文じゅもんとなえるとドーム表面に一秒間だけ直径二十ミリほどの穴が開く。二十五年前にジオラマの設置を手伝った我が家の執事がそれを憶えていたが、肝心かんじんの僕型ミニロボットが壊れていたので、実証じっしょうできたのは一年前、僕形ミニロボットの修理が完了した時だった。

 僕型ミニロボットは、父の研究所の焼け跡から半壊はんかい状態で見つかった。地下室のジオラマの謎を解き僕の憧れをかなえるには彼を修理し改造する必要があり、そのために僕は工学者になった。

 BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)が僕の専門である。何らかの方法で読み取った人の脳波や脳の動きを離れた場所にいるロボットに伝え、その五体ごたいを自分の身体のように自在じざいに動かす技術で四十年前には開発が始まり現在そのほとんどが実用化されている。BMIのなかでも僕がさらに専門としている分野は「ロボットとの主観共有しゅかんきょうゆう」だ。ロボットに人と同レベルの認知機能をもたせ彼が得た認知情報を主体=人間の脳が共有することによって、簡単に言うと、ロボットへの「憑依ひょうい」が可能になる。主観共有をしている間、人の意識はロボットに移り、人はロボットとして世界の姿を見、世界の音を聴き、世界に触れるのだ。去年、僕はロボットに嗅覚も味覚も第六感のような感覚さえ持たせ、さらにロボットと主体とのリンクを外して、ほぼ完全なスタンドアローン型の「化身アバター」を実現させた。実験の際、僕が「化身」に選んだのは、もちろん、身長十六ミリの僕型ロボットだった。僕の研究目的は二つだ。ひとつは、ドームの内側に入って父の研究を検証けんしょうし、父の「魔法」を「科学」に還元すること。もうひとつは、ドームの内側で思いっきり遊び、おぼろげになりつつある両親や初恋の人の面影を回復すること。どちらかと言うと後者の方が主な目的と言っていい。

「お覚悟はよろしいですか? 若」

 剃刀かみそりを手にした執事は言った。彼は僕をワカと呼ぶ。

丸坊主まるぼうずになる覚悟のことかい?」

 脳とロボットをつなぐブレインキャップというデバイスを頭にかぶるのだが、それを頭皮とうひと密着させるために剃髪ていはつする必要がある。

「いえ、ご出家なさる覚悟のことでございますよ」

 執事は地下室の方角に目をりながら言った。一年間、幾度いくどとなくシミュレーションを繰り返したが、不安が全くないとは言えない。

「心配しなくていいよ。でも万が一『還俗げんぞく』できなかったら後はよろしく頼む」

 僕は笑って言ったが、執事は今にも泣き出しそうな顔になった。彼は僕が生まれた時に父がつくった人型ロボットだ。家事でも営繕えいぜんでも何でもこなすスーパー執事で、僕の研究助手としてもなくてはならない存在だ。亡くなった両親に代わって僕を育ててくれたのは彼だった。

 僕はブレインキャップをかぶりドームの横に設置した生命維持カプセルに入った。新陳代謝しんちんたいしゃを最小限におさえながら人を眠らせる、言わば人を冬眠させる装置である。今回は最初の実験だからドーム内には半日はんにちも居ないつもりだ。そんな短時間の滞在に生命維持装置など大げさだと思うかもしれないが、訳がある。僕はある仮説をたてた。その仮説が正しければ、この生命維持装置は必須ひっすなのだ。

「それでは、お気をつけて」

 執事の声が聞こえた。そのとたん、僕は巨大なドームの前に立っていた。

 目の前に我が家の正門がみえる。

 僕はドームに触れ、呪文じゅもんとなえた。

「ひらけ、ゴマ」

 魔法使いなどと呼ばれていたくせに、父にはオリジナルな呪文を考える余裕よゆうはなかったようだ。  

 僕が指先で触れるとドーム表面に小さな波紋はもんが現れた。波紋は広がってやがて直径二十ミリ(ミニサイズの僕にとっては二メートル)ほどの穴が開いた。僕は急いでその穴をくぐり抜け、ドームの内側に入った。雲を浮かべた青い空が百分の一スケールの我が家をおおっていた。太陽の位置から察してドーム内の時刻は十時頃だろう。

 僕が正門のカメラに笑顔を向けると、屋敷の玄関が開き執事がとび出してきた。身長十七ミリの彼のモチーフは、原寸世界で僕と一緒に暮らしている身長百七十センチのロボット執事だ。ミニチュアハウスや敷地のメンテナンスをする彼の姿がドームの外から度々観察できた。

 執事は「お帰りなさいませ。若!」と叫びながら長さ三十センチ(ミニサイズの僕や執事にとっては三十メートル)の玄関道を息急いきせき切って走ってきた。いや、ロボットだから息急き切ってはいないが、そんな風に走って来て僕を抱きしめた。そして、ちょっと首を傾げた。

「あなた様は本当に若ですか?」

 僕の身体が生体せいたいでないことに気づいたのだ。

「身体はロボットだけど、魂は僕だよ」

 ロボットの身体からだを借りてはいるが、意識は本物の僕だと簡単に説明する。

「若のおっしゃっていることは理解致しかねますが、まあよろしいでしょう。よかった、よかった」          

 執事はそう言って、さらに僕を抱きしめた。何がよかったのかはわからない。

 玄関道げんかんみちの両側に満開のパンジーが植わったプランターが並んでいる。僕はしゃがんでパンジーの花弁はなびらに触ってみた。ドームの外から見えたパンジーは二十五年間咲きっぱなしだった。パンジーの花期かきは長くて半年だから、二十五年間も咲き続けている花は当然造花ぞうかだと思っていた。父の「魔法」の数が一つ増えた。パンジーは生花せいかだ。パンジーだけではない。きっとドーム内の植栽しょくさいは全て生きている。

「今までどちらにお出かけだったのですか。ご主人様と奥様は何時いつお戻りでしょうか?」

 玄関ホールに入りながら執事は僕にきいた。

「父さんと母さんは…」

 と言おうとした僕を、

「サニーの声がしたようだけど」

 二階からの声がさえぎった。

 ネリさんの声だ。彼女の美しい声を僕は忘れてはいない。

 赤絨毯あかじゅうたんが敷かれた階段を音もなく降りて来たネリさんは僕とハグした。

「お帰りなさい、サニー。あなたどうやってこのドールハウスに入ったの。あなた今まで何処どこにいたの? あなた普段と雰囲気がちょっと違うみたい…」

「ネリさんこそ、突然いなくなったから、てっきり成仏じょうぶつしちゃったのかと思ったよ」

 僕はネリさんの矢継やつばやの質問をさえぎって言った。

 ネリさんは幽霊だ。約百五十年前から我が家に住み着いているが、十七、八歳にしか見えない。享年が十八歳だったからだろう。幽霊のくせに無邪気むじゃき陽気ようきで優しくて少しもこわくない。僕の知る限りネリさんは世界一キュートな幽霊だ。もっとも彼女以外の幽霊を僕は知らないので確かなことは言えない。

 父も僕も子供のころからネリさんとは普通の家族のようにつきあってきた。もの心ついたころに彼女が幽霊だと知ったが、驚きもしなかったし不思議とも思わなかった。母も、我が家に嫁いできた当初とうしょは気味が悪かったらしい。でもすぐに打ち解けて姉妹のえんを結ぶほど親しくなった。

「地下室に降りてみたら、素敵なドールハウスがあるじゃない。思わず中に入ってみたの。自分の部屋でベッドに寝転ねころがっていたら眠っちゃったみたいで…」

 中にいるネリさんに気づかず父はミニチュアハウスをドームでおおい、気づかないまま他界たかいしたのだ。

「ところでサニー、あなたのお父様とお母様は大きな家の方に居らっしゃるのかしら?」

 ネリさんは僕をサニーと呼ぶ。

「父さんと母さんは亡くなったんだ」

 二十五年前、父は自分が所長を務めていた研究所の爆破事件に巻き込まれ、ちょうど研究所を訪れていた母とともに亡くなった。父の研究の軍事利用を目論もくろむ人たちと筋金入すじがねいりの平和主義者だった父との間にトラブルがあったらしい。テロだろうと報道された。

「悲しいわ」と言ってネリさんは涙ぐみ、僕を抱きしめた。

「リビングにお入り下さい。コーヒーでもおれしましょう」

 そう言って執事は厨房ちゅうぼうに向かった。厨房から彼の静かな泣き声が聞こえた。

 椅子もテーブルも大理石の暖炉も、無垢材むくざいの床を歩く足音の響きさえも、何もかもが原寸ハウスと同じだった。僕が普段暮らしている原寸ハウスは二十五年前の様子をそのまま残している。暖炉の上や書棚しょだなの隅には、くるみ割り人形や煙出けむだし人形、マトリョーシカといった母が集めた仕掛しかけ人形がいくつも置いてあるが、それらでさえ、むかし母が置いた位置から一センチも動いていない。だから二十五年前の家の完全縮小コピーを眺めても、たいして懐かしさは感じなかった。それどころか、自分がミニサイズであることも今いる場所がミニチュアハウスであることも直ぐに忘れてしまうのだ。

「サニー、いつもの曲を弾いて」

 僕はうなずいて、リビングの隅に置かれたピアノでリストの『愛せる限り愛しなさい』を弾いた。

 ネリさんはピアノの端に腕をかけ、昔と同じようにピアノを弾く僕を見つめている。

「僕はネリさん以外の女性とは結婚しない」

 昔、ピアノを弾きながらそう告白する僕に、

「私は誰とも結婚できないわ。だって幽霊なんだもの」

 ネリさんは笑って返した。

「じゃあ僕も、誰とも結婚しない」

 僕はまだその約束をかたくなに守っている。

 リストを弾き終わった後、僕は全ての鍵盤けんばん九十七鍵をゆっくりとグリッサンドしてみた。低音部拡張鍵盤をもつオーストリア製の有名なピアノは完璧に調律されていた。原寸ピアノと同様、ミニ執事が調律したのだろう。

 執事がコーヒーをれてきた。コーヒーは二人分ある。しかし、ひとりは幽霊なのでカップを持ち上げることも出来ないし、コーヒーも飲めない。香り(嗅覚はあるらしい)と雰囲気を楽しむだけだ。だが、僕=僕型ミニロボットには嗅覚も味覚もある。

「美味しい」

 原寸執事が淹れてくれるいつものコーヒーと少しも変わらない究極の美味しさだ。うちの執事をマスターにえて喫茶店を開けば、きっと繁盛はんじょうするだろう。

「コーヒー豆を見せてくれない?」

 僕は執事に頼んだ。

「エチオピアイルガチェフェのG1ジーワンでございますが、多少大粒のものを使っております」

 執事はコーヒー豆を十粒ばかり小さな皿に入れて持ってきた。

 確かに大粒だ。七ミリくらいだろうか。

 僕はコーヒーを一口飲み、カップをソーサーに置いた。コーヒーの上面うわもに映った大きなシャンデリアがゆっくりとらいだ。

「お昼を召し上がっていただきたいのですが、あいにく食材を切らしておりまして、ご用意することができません。食材を調達したいのですが何故なぜ門外もんがいには出られず電話もつながりませんので」

 電話というなつかしい機器が二十五年前には確かにあった。ミニ執事は二十五年前の原寸執事の無修正縮小むしゅうせいしゅくしょうコピーだから、自分がミニチュアであることも今ミニチュアハウスに居ることも知らないし、彼の持つ情報は工場出荷以来一度も更新こうしんされていない。

「お昼はいらない。僕はロボットだから食べなくても死なない」

 執事は「私へのお気遣きづかい、恐れ入ります」と言って頭を下げた。

 別に執事に気を遣ったわけではない。ロボットに食事が不要なのは事実だ。

 幽霊のネリさんも、食べなくても死?なない。

「ねえ、私の車でドライブしましょ」

 先祖が家を建てた時、家具などと一緒にヨーロッパから取り寄せたクラッシックカーがガレージにある。排気量三リットルのガソリン車だ。今の時代、もうガソリンは手に入らないし法的に公道は走れないから、原寸の実機の方は原寸ハウスのガレージの奥で眠っている。ネリさんが「私の車」と言ったわけは、百五十年前、船から降ろしたこの車にネリさんがオマケのように乗っていたからである。

「港を散歩してたら素敵すてきな車があるじゃない。思わず乗ってみたの。シートに寝転ねっころがっていたら眠っちゃったみたいで、気がついたら船がもう港を出ちゃってたわ」

 ネリさんは、世界一うっかり者の幽霊だ。もっとも彼女以外の幽霊を僕は知らないので確かなことは言えない。

「ガソリンは満タンでございます」

 執事は車のキーを僕に渡した。

 むかし、父に運転を教えてもらった僕はパッセンジャーシートにネリさんを乗せて敷地の中を走り回っていた。ネリさんが原寸ハウスから消えた後はあまり運転しなくなり、ガソリンが手に入らなくなってからは全く運転していない。

 イグニッションキーを回すとドッドッドッドッと腹に響くようなエンジン音がした。クラッチを二回踏んでギアをニュートラルからローへ、さらにもう一度ダブルクラッチでローからセカンド、そしてセカンドからトップへと切り替える。ネリさんはこのクラシックカー以外の車に乗ったことがないから感心してくれもしないが、今時こんな旧い車を動かせる人間は世界に百人もいないだろう。

「家の外に出たのは久しぶりよ。楽しいわ」

 ネリさんの笑顔が僕は好きだった。どんなにつらい時も、どんなに悲しい時もネリさんの笑顔を見ると僕は元気になった。僕は二十五年前に姿を消したネリさんの面影を求めてミニチュア世界へ来たが、今、僕の隣にはネリさん本人が座っている。これを幸せと言わずして何と言おう。

 小型車がやっと通れるほどの細い道が、約三千坪の敷地に点在てんざいする東屋あずまやや池や築山つきやまつないでいる。一時間も走り回った後、僕たちは築山の上に立つ東屋で休憩した。

 我が家は小高こだかい丘の上に在るから、高さ二メートル程度の築山からでも遠くの街が一望できる。

 僕はふと、首を傾げた。ドームにおおわれているのに何故なぜ敷地外に広がる風景が見えるのだろう。と、そこまで考えたが、今の情況じょうきょうに気づいて、僕は傾げた首を元に戻した。考えるのはやめよう。せっかくネリさんとデートしているのに時間がもったいない。

「いつまでもこうして一緒にいられたら、幸せでしょうね」

 僕に身を寄せてネリさんは言った。

「僕も幽霊になれば、ずっと一緒にいられるかもしれない」

「誰でも幽霊になれるとは限らないわ」

「ネリさんはどうして幽霊になったの」

 この世に未練みれんがあったのだろう。どんな未練だったのか聞いてみたい。

「うっかり寝過ねすごして電車に乗り遅れるようなことって誰にでもあることでしょ? そんな感じだったかな?」

 うっかり寝過ごして成仏しそこなうことなど誰にでもあることではない。僕はあきれた。

 話題はきなかった。屋敷に戻って、父の書斎、母の部屋、ネリさんの開かずの間、僕の不勉強部屋、屋根裏部屋、すべての部屋を巡りながら、僕らは思い出話にふけった。

「雨よ」

 ネリさんが窓の外を見て言った。小糠雨こぬかあめが静かに降っている。

「不思議よね。地下室にあるミニチュアハウスに降る雨って、誰が降らしているのかしら」

「ミニチュアハウス?」

 うっかりしていた。僕は自分が今ミニチュアハウスに居ることを忘れていた。

 僕は屋敷の外に飛び出し、小石を拾って真上に投げ上げた。屋根の高さを超えた小石は雨の中、約一秒半の時間をかけてゆっくりと地面に落ちた。屋根の高さは原寸ハウスで十メートル、ミニチュアハウスでは十センチだ。僕の仮説は正しかった。ドームに入ってから六時間が過ぎようとしている。直ぐに原寸世界に戻らないと危ない。

「大きな家に帰るの?」

 ネリさんが外に出てきて、びしょ濡れの僕に言った。

「うん。でも直ぐに戻ってくる。ネリさんをむかえにね」

 ネリさんを今すぐ原寸世界に連れ戻すのは得策とくさくではない。今戻ったら、スキンヘッドの四十男の僕を見てネリさんは多分たぶんがっかりするだろう。シェイプアップして男っぷりを上げておく必要がある。カツラも買わねばならない。

「いつ迎えに来てくれるの?」

「多分、今夜には来るよ」

「じゃあ支度したくをして待っているわ」

 確認しておきたいことがあったので、僕は一旦屋敷に戻った。

 ネリさんと執事が門まで送ってくれた。

 僕は指先でドームに触れ、「開けゴマ」と呪文じゅもんとなえた。


「お帰りなさいませ、若」

 僕が目を開けると同時に、執事は言った。

 体が思ったように動かない。筋力が落ちている。ブレインキャップを外すのも一苦労だ。体重は多分十キロ以上減っているだろう。

「若の仮説は正解でしたね。若がドームにお入りになられてから今日で二十五日でございます。後一日遅かったら若のお命に危険が及ぶところでございました」

 小石を投げ上げる実験をするまで、自分の仮説を信じることはできなかった。十センチの高さから(真空中)物体は約七分の一秒で落下する。例え真空中でなくても小石が十センチの高さから一秒半もかかって落ちることはあり得ない。父がつくった百分の一スケールの縮小世界では、時間のスケールも百分の一だった。僕はドームの内側に六時間しかいなかった。でもドームの外ではその百倍の二十五日が過ぎていたのだ。まるで浦島太郎である。

 ネリさんを連れ戻す準備をしなければならない。ネリさんが僕を待つ六時間の間に、つまり二十五日の間に、ジムに通ってシェイプアップしよう。カツラも買っておこう。

 ドームを見ると、正門からひとりで屋敷に戻ろうとしている執事の姿が見えた。彼は超スローモーション歩いている。幽霊のネリさんは自分の部屋に瞬間移動したのだろう。

如何いかがでした? ミニチュアの世界を楽しまれましたか」

「ちょっとがっかりだったよ。だって、こっちの世界と全くかわらないんだもの」

 ネリさんとの邂逅かいこう以外、心躍こころおどるようなことはあまりなかった。自分と同じ比率で完璧にコピーされた環境をジオラマとは呼べない。ミニサイズの自分にとって、それはフルサイズの現実そのものだ。偽札にせさつ造りは自分の作品にそれが偽札だという証拠を残すという。その証拠を見つけた人の驚き顔を想像して楽しむのだ。父にはそんな茶目ちゃめはなかったようである。

「まるで生きている花のようだけど…」と、造花のパンジーに小さく失望してみたかった。

 直径〇・七ミリのコーヒーカップに注がれて表面張力で水玉になっているコーヒーをすすり、七十センチの超大粒コーヒー豆をかかえて「くのが大変でございました」と嘆く執事を皮肉ひにくって、「道理で、コーヒーの味が大味おおあじなわけだ」と大笑いしたかった。

 弦の太さまで正確に百分の一に縮尺されたピアノのA鍵盤けんばんを叩いても440ヘルツの音は絶対に出ない。ピンピンと針の先を叩いたような音で演奏されるリストを聴いて笑いころげるネリさんは、きっと可愛いいだろう。

 ドッドッドッドッといった重低音じゅうていおんではなくトトトトトという軽高音のエンジン音を出し、複雑な操作をしなくてもアクセルを踏むだけで走り出す…僕が運転したかったのは不器用ぶきように走る玩具おもちゃの自動車だった。

 ドームの球面に薄っすらと殺風景な地下室が映っていたり、雨滴が卵ほどの大きさだったり…そんなちょっと間抜まぬけな風景に僕は憧れていたのだ。

「ご研究の方は如何いかがでした?」

「そっちもさっぱりだった」

 謎は深まるばかりで父の魔法は一つも科学に還元されず、それどころか僕の研究課題は無限に増殖ぞうしょくした。

「お父上は完全主義者でしたからね」

「完全主義者? そうだね。父さんの完全主義はミニチュアハウスの地下室に降りてみて確信したよ」

 僕は暖炉だんろの上に飾られたマトリョーシカを見ながら言った。

                                  了

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