ミニチュアハウスの恋人
Mondyon Nohant 紋屋ノアン
本物そっくりに作られた模型自動車のハンドルを握りジオラマの街を走りまわりたいと思ったことはないだろうか。指先に
人々が「
僕の憧れと研究対象というのは、家の地下室にあるジオラマだ。父の最後の作品だった。
父は科学者でナノテクノロジーの権威だったが、縮尺模型の作家としても有名だった。父の作るミニチュアはその形状においてナノレベルの
縮尺模型に原寸大の実機と同じ
父が
二十五年前の我が家を敷地ごと再現した百分の一スケールのジオラマは、半径七十センチの透明なドームに
照明を落として地下室を真っ暗にしても、ドームの内側だけは昼間の様に
ドームに出入りできる者が一人いる。十五歳の時の僕をモデルにして父がつくった身長十六ミリのミニロボットだ。彼が指先でドームに触れ
僕型ミニロボットは、父の研究所の焼け跡から
BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)が僕の専門である。何らかの方法で読み取った人の脳波や脳の動きを離れた場所にいるロボットに伝え、その
「お覚悟はよろしいですか? 若」
「
脳とロボットを
「いえ、ご出家なさる覚悟のことでございますよ」
執事は地下室の方角に目を
「心配しなくていいよ。でも万が一『
僕は笑って言ったが、執事は今にも泣き出しそうな顔になった。彼は僕が生まれた時に父が
僕はブレインキャップをかぶりドームの横に設置した生命維持カプセルに入った。
「それでは、お気をつけて」
執事の声が聞こえた。そのとたん、僕は巨大なドームの前に立っていた。
目の前に我が家の正門がみえる。
僕はドームに触れ、
「ひらけ、ゴマ」
魔法使いなどと呼ばれていたくせに、父にはオリジナルな呪文を考える
僕が指先で触れるとドーム表面に小さな
僕が正門のカメラに笑顔を向けると、屋敷の玄関が開き執事がとび出してきた。身長十七ミリの彼のモチーフは、原寸世界で僕と一緒に暮らしている身長百七十センチのロボット執事だ。ミニチュアハウスや敷地のメンテナンスをする彼の姿がドームの外から度々観察できた。
執事は「お帰りなさいませ。若!」と叫びながら長さ三十センチ(ミニサイズの僕や執事にとっては三十メートル)の玄関道を
「あなた様は本当に若ですか?」
僕の身体が
「身体はロボットだけど、魂は僕だよ」
ロボットの
「若の
執事はそう言って、さらに僕を抱きしめた。何がよかったのかはわからない。
「今までどちらにお出かけだったのですか。ご主人様と奥様は
玄関ホールに入りながら執事は僕にきいた。
「父さんと母さんは…」
と言おうとした僕を、
「サニーの声がしたようだけど」
二階からの声が
ネリさんの声だ。彼女の美しい声を僕は忘れてはいない。
「お帰りなさい、サニー。あなたどうやってこのドールハウスに入ったの。あなた今まで
「ネリさんこそ、突然いなくなったから、てっきり
僕はネリさんの
ネリさんは幽霊だ。約百五十年前から我が家に住み着いているが、十七、八歳にしか見えない。享年が十八歳だったからだろう。幽霊のくせに
父も僕も子供のころからネリさんとは普通の家族のようにつきあってきた。もの心ついたころに彼女が幽霊だと知ったが、驚きもしなかったし不思議とも思わなかった。母も、我が家に嫁いできた
「地下室に降りてみたら、素敵なドールハウスがあるじゃない。思わず中に入ってみたの。自分の部屋でベッドに
中にいるネリさんに気づかず父はミニチュアハウスをドームで
「ところでサニー、あなたのお父様とお母様は大きな家の方に居らっしゃるのかしら?」
ネリさんは僕をサニーと呼ぶ。
「父さんと母さんは亡くなったんだ」
二十五年前、父は自分が所長を務めていた研究所の爆破事件に巻き込まれ、ちょうど研究所を訪れていた母とともに亡くなった。父の研究の軍事利用を
「悲しいわ」と言ってネリさんは涙ぐみ、僕を抱きしめた。
「リビングにお入り下さい。コーヒーでもお
そう言って執事は
椅子もテーブルも大理石の暖炉も、
「サニー、いつもの曲を弾いて」
僕は
ネリさんはピアノの端に腕をかけ、昔と同じようにピアノを弾く僕を見つめている。
「僕はネリさん以外の女性とは結婚しない」
昔、ピアノを弾きながらそう告白する僕に、
「私は誰とも結婚できないわ。だって幽霊なんだもの」
ネリさんは笑って返した。
「じゃあ僕も、誰とも結婚しない」
僕はまだその約束を
リストを弾き終わった後、僕は全ての
執事がコーヒーを
「美味しい」
原寸執事が淹れてくれるいつものコーヒーと少しも変わらない究極の美味しさだ。うちの執事をマスターに
「コーヒー豆を見せてくれない?」
僕は執事に頼んだ。
「エチオピアイルガチェフェの
執事はコーヒー豆を十粒ばかり小さな皿に入れて持ってきた。
確かに大粒だ。七ミリくらいだろうか。
僕はコーヒーを一口飲み、カップをソーサーに置いた。コーヒーの
「お昼を召し上がって
電話という
「お昼はいらない。僕はロボットだから食べなくても死なない」
執事は「私へのお
別に執事に気を遣ったわけではない。ロボットに食事が不要なのは事実だ。
幽霊のネリさんも、食べなくても死?なない。
「ねえ、私の車でドライブしましょ」
先祖が家を建てた時、家具などと一緒にヨーロッパから取り寄せたクラッシックカーがガレージにある。排気量三リットルのガソリン車だ。今の時代、もうガソリンは手に入らないし法的に公道は走れないから、原寸の実機の方は原寸ハウスのガレージの奥で眠っている。ネリさんが「私の車」と言ったわけは、百五十年前、船から降ろしたこの車にネリさんがオマケのように乗っていたからである。
「港を散歩してたら
ネリさんは、世界一うっかり者の幽霊だ。もっとも彼女以外の幽霊を僕は知らないので確かなことは言えない。
「ガソリンは満タンでございます」
執事は車のキーを僕に渡した。
むかし、父に運転を教えてもらった僕はパッセンジャーシートにネリさんを乗せて敷地の中を走り回っていた。ネリさんが原寸ハウスから消えた後はあまり運転しなくなり、ガソリンが手に入らなくなってからは全く運転していない。
イグニッションキーを回すとドッドッドッドッと腹に響くようなエンジン音がした。クラッチを二回踏んでギアをニュートラルからローへ、さらにもう一度ダブルクラッチでローからセカンド、そしてセカンドからトップへと切り替える。ネリさんはこのクラシックカー以外の車に乗ったことがないから感心してくれもしないが、今時こんな旧い車を動かせる人間は世界に百人もいないだろう。
「家の外に出たのは久しぶりよ。楽しいわ」
ネリさんの笑顔が僕は好きだった。どんなに
小型車がやっと通れるほどの細い道が、約三千坪の敷地に
我が家は
僕はふと、首を傾げた。ドームに
「いつまでもこうして一緒にいられたら、幸せでしょうね」
僕に身を寄せてネリさんは言った。
「僕も幽霊になれば、ずっと一緒にいられるかもしれない」
「誰でも幽霊になれるとは限らないわ」
「ネリさんはどうして幽霊になったの」
この世に
「うっかり
うっかり寝過ごして成仏しそこなうことなど誰にでもあることではない。僕は
話題は
「雨よ」
ネリさんが窓の外を見て言った。
「不思議よね。地下室にあるミニチュアハウスに降る雨って、誰が降らしているのかしら」
「ミニチュアハウス?」
うっかりしていた。僕は自分が今ミニチュアハウスに居ることを忘れていた。
僕は屋敷の外に飛び出し、小石を拾って真上に投げ上げた。屋根の高さを超えた小石は雨の中、約一秒半の時間をかけてゆっくりと地面に落ちた。屋根の高さは原寸ハウスで十メートル、ミニチュアハウスでは十センチだ。僕の仮説は正しかった。ドームに入ってから六時間が過ぎようとしている。直ぐに原寸世界に戻らないと危ない。
「大きな家に帰るの?」
ネリさんが外に出てきて、びしょ濡れの僕に言った。
「うん。でも直ぐに戻ってくる。ネリさんを
ネリさんを今すぐ原寸世界に連れ戻すのは
「いつ迎えに来てくれるの?」
「多分、今夜には来るよ」
「じゃあ
確認しておきたいことがあったので、僕は一旦屋敷に戻った。
ネリさんと執事が門まで送ってくれた。
僕は指先でドームに触れ、「開けゴマ」と
「お帰りなさいませ、若」
僕が目を開けると同時に、執事は言った。
体が思ったように動かない。筋力が落ちている。ブレインキャップを外すのも一苦労だ。体重は多分十キロ以上減っているだろう。
「若の仮説は正解でしたね。若がドームにお入りになられてから今日で二十五日でございます。後一日遅かったら若のお命に危険が及ぶところでございました」
小石を投げ上げる実験をするまで、自分の仮説を信じることはできなかった。十センチの高さから(真空中)物体は約七分の一秒で落下する。例え真空中でなくても小石が十センチの高さから一秒半もかかって落ちることはあり得ない。父がつくった百分の一スケールの縮小世界では、時間のスケールも百分の一だった。僕はドームの内側に六時間しかいなかった。でもドームの外ではその百倍の二十五日が過ぎていたのだ。まるで浦島太郎である。
ネリさんを連れ戻す準備をしなければならない。ネリさんが僕を待つ六時間の間に、つまり二十五日の間に、ジムに通ってシェイプアップしよう。カツラも買っておこう。
ドームを見ると、正門からひとりで屋敷に戻ろうとしている執事の姿が見えた。彼は超スローモーション歩いている。幽霊のネリさんは自分の部屋に瞬間移動したのだろう。
「
「ちょっとがっかりだったよ。だって、こっちの世界と全くかわらないんだもの」
ネリさんとの
「まるで生きている花のようだけど…」と、造花のパンジーに小さく失望してみたかった。
直径〇・七ミリのコーヒーカップに注がれて表面張力で水玉になっているコーヒーをすすり、七十センチの超大粒コーヒー豆を
弦の太さまで正確に百分の一に縮尺されたピアノのA
ドッドッドッドッといった
ドームの球面に薄っすらと殺風景な地下室が映っていたり、雨滴が卵ほどの大きさだったり…そんなちょっと
「ご研究の方は
「そっちもさっぱりだった」
謎は深まるばかりで父の魔法は一つも科学に還元されず、それどころか僕の研究課題は無限に
「お父上は完全主義者でしたからね」
「完全主義者? そうだね。父さんの完全主義はミニチュアハウスの地下室に降りてみて確信したよ」
僕は
了
ミニチュアハウスの恋人 Mondyon Nohant 紋屋ノアン @mtake
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