個室の扉を急いで閉めて、白くのっぺりとしたプラスティック製の便器に、ゆっくりと腰を下ろす。臀部は汗で湿っていて、擦れ合う度に、キュッと気味悪く鳴き声を上げた。

 周囲を囲う高い壁は、両手を広げてやっと届くか届かないか。施された木目は随分と遠い。

 僕は一瞬の躊躇の後に、手に持っていた鞄を足下へ置いた。閉めた扉の内側に、小さなフックが備えられてはいたものの、どうもそこまで持ち上げるのが、信じられぬくらいの重労働に、思えて仕方がなかったのだ。何より、今は腹痛で力が抜けている。

 周囲には、甘ったるい匂いが充満していた。おそらくは、何か花の香りだろう。自然に存在するソレよりも、ずっと濃く加工された人工の空気は、返って僕の吐き気を呼んだ。どんよりと、強化された匂いが、手に、足に、首に、次々と絡みついてくる。

 膝に、顎がつくかつかないか……。そんな姿勢で、腹筋に強く力を込めた。

 目の前に迫った木目のタイル。隙間に詰まった灰色の埃。片隅には小さな染みが出来ていて、妙に人間臭い表情を、こちらにじっと向けている。

 ――う!

 醜悪な音に、僕は耳を塞いだ。液体の放出に伴って、粘性の物体が、狭い穴からひり出される。溢れ出る臭気が漂い始め、花の香りと混ざり合った。ごくごく僅かに酸味があって、腐った太陽を煮付けたようにすら感じられる、強烈な存在感。どろりとうねって、ぼんやりと曇って、どこか苦みを含んだ粘液が、これまた過剰な程に絡みつく、「清浄な」匂いに溶け込んだ。

 混沌とした空気に、僕は窒息の予感を覚えながら、そんなことは有り得ないと、即座に否定し自嘲する。穴から溢れ出る開放感に、微細な摩擦に伴う快感。すっぽりと抜け落ちる虚無感と、快感の余韻とが、みぞおちに残った微かな疲労に、小さく絡んでぶら下がった。

 陰茎の先端が、ぴと、と便器の内側に触れる。

 自分の尻の下にある便の気配と、そのひんやりとした感覚に、僕はもう、何もかもが嫌になった。

 ――僕は、人間は、所詮動物に過ぎないのだ。

 それは、至極当然な事実だった。

 ――人間は、自然の支配から脱却し、自然への服従を否定することによって進歩を始めた。今や我々は、生殖、排泄、そういった動物的な行為に蓋をして、ヴェールの向こうへ閉じ込めている。食事の美しい盛り付けだって、取り込まれた後の光景から、目をそらそうとしているに相違いない。無駄を省き、効率を求め、より人工的な、より美しい、理性的な世界を築こうとしている。

 それはいわば、本能から理性への移行だ。動物性の棄却と、人間性の追求の道だ。我々が目指す、進歩の先の究極の「人間」――ヒトではない、本当の意味での「人間」――は、きっと、一切の自然性、動物性を捨てた存在に違いない。

 だが、僕は思うのである。

 ――果たしてヒトは人間に、ふさわしいと言えるのだろうか?

 ――ヒトは決して、完全な人間には、なり得ないのではあるまいか?

 何よりの証拠が、この便である。

 尻を拭って、立ちあがった。浅黒い陰茎が力ない様子でぶら下がり、ひたひたと大腿に触れている。振り返ると、排泄物は半分水に浸かっていて、薄茶色の細い線が、水中をゆっくりたなびいていた。

 ――僕は、動物だ。どうしようもないほどに、動物だ!

 鞄を持って、扉を開ける。水流が腐った太陽を洗い流し、綺麗なプラスティックの白色を、便器は既に取り戻していた。

 ――では、いつか殺されたという件の男も、果たして動物だったのだろうか……?

 僕は歩みを進めつつ、勝手な妄想を展開する。


 室内は薄暗く、床一面に大量のゴミが散乱している。食品の類いだけが、辛うじて袋に詰め込まれてはいるものの、その他の、腐敗する心配のない廃棄物――割れたグラス、空になったバッテリーパック、変色した衣類や、黒焦げになった機械の腕、等々――は、所構わず気まぐれな様子で転がっていた。一歩足を踏み出すごとに、何かに触れずにはいられない……部屋は、そんな様相を呈している。

 唯一の電灯は頼りなく、今にも消え入りそうな様子でチカチカと明滅していた。ゴミの山と、その向こうにずらりと並んだロボットが、一瞬ごとに照らし出される。人影は網膜に焼き付けられ、電灯が消える瞬間にも、白っぽい亡霊のような姿で視界にいまだ残っていた。そうして再び点灯すると、亡霊の上に重なって、影の詳細が描き込まれるのだ。

 それが、一分間に数十、数百と繰り返された。そんな不安定な明かりの下で、彼は一体のロボットを抱くのである。

 豊穣な胸、強調された長いまつげ、特別高性能な声帯や、過剰なほどに設置されたモーターの数々。それらはある一つの明確な目的を表した。何より雄弁に語るのは、内股に大きく設けられた、醜悪な生殖器の模型である。

 脂ぎって、脂肪の感触を伴う汗臭い指。服はカッターで切り裂かれ、強引な手つきであちらこちらをつねって回る。肥満気味な肉体は強い汗の臭いを発散し、それを彼女にこすりつけた。

 おそらくは欲求に身を任せ、殴りつけでもしたのだろう。暴力、支配、そういったある種特殊な感覚を、求めたのだと僕は思う。

 打撃が、女の頭部を大きく揺らす。腹部が僅かに陥没して、自己保存を求める腕が、命令によって弾かれた。

 ――自らを守ることよりも、人間を守ることを優先された哀れな機械。

 ――自らを守ることよりも、人間に奉仕することを優先された哀れな機械。

 サディスティックな、嗜虐的なその趣味を、否定するわけでは決してない。ただ彼がはけ口に、彼女らを選んだことこそが、決定的な間違いなのだ。

 人間の悪性、人間の動物性が、そこには無限に集約されている。男の姿は、ヒトがひたすら隠そうとしてきた、動物の姿そのものだったに違いない。

 彼はきっと、殺される瞬間でさえ、自らの身に何が起きたのかを悟ることはなかっただろう。それは本来有り得ない事件、有り得ない殺人であり、決して容認することは許されない、禁忌の侵犯に他ならない。

 ――死因は胸部の圧迫による窒息死と考えられ、警察は原因の究明を急いでいる。

 即ち、ロボットによる殺人である。


 カフェーの入り口から外に出ると、先の濃厚な空気と比べ、売り場の無臭は信じられぬほど心地が良かった。腹部の違和感は殆ど消えて、冷や汗が即座に乾いていくのが、むしろ精神に平穏をもたらす。

 爽やかな微風が脇を抜けて、揺れるシャツにこそばゆい感覚を覚えた。売り場に満ちる喧噪の中、僕は快活に歩き出す。来た道を辿り、デパートの入り口を目指したのだ。

「ロボットは人間を殺す!」

 先の青年がいた場所に、大量のビラがばらまかれていた。周囲には人だかりが出来て、その向こうから、何かが割れたり、叩かれたりする音が、痛々しく響いている。

 ずらりと並ぶ頭の間に、視線を這わせて溜息をついた。数名の男が、金属製の支柱からロボットを剥がし、床に叩きつけようとしているのだった。青年は無気力な表情で、床にどっと伏している。頬は真っ赤に腫れていて、髪には白っぽい埃が乗っていた。

 野次馬はそれをボウッと眺め、時折クスクスという笑い声が、どこからか聞こえてくるのである。

 ロボットの美しい肌が、一人の取り出したポケットナイフによって、すらりと簡単に切り裂かれた。ぱっくりと開く切り口の向こう、銀色に輝くなめらかな、骨格を更に切りつける。

 今度は、ナイフが弾かれた。僅かに欠けた刃先を眺め、チョッと一つ舌打って、今度はそれを、女の頭部に突き立てる。

 僕は目をそらした。彼女の眼球――と言っても中身はカメラだ――が、真っ二つに裂けて床を転がる。彼らは満足げな様子で、今度は乳房を切り取りにかかった。

 ――止めるべきだろうか。……いや、よそう。

 僕は結局、何もしないで外に出た。排便による開放感、身体が軽くなったような感覚は、どこかになくしてしまっていた。

 扉から、身体をぬっと突き出すと同時に、あの蒸し暑い空気に押しつぶされる。周囲を漂っていた、デパート内部の冷気の残滓は、すぐさま走って逃げてしまった。光は僕を貫いて、影を生むことすら許さない。妙に嗅覚が鋭敏になって、自動車のタイヤの焼ける臭いを、つんと鼻先に感じていた。ずらりと並ぶ人影は、赤、青、黄色と多種多様な色合いで自らを薄く覆いつつ、軽やかに道を横切っていく。そうしてそれは、先のカフェーの入り口を、強く想起させるのだった。

 ――あの美しい装飾の向こうには、自然的な、動物的な、ヒト的な醜さが詰まっているのだ!

 こんなモノは人間ではない、と僕は内心呟いた。また自分自身も同様に、人間などではないだろう。

 ――件の殺人事件が、もしもロボットによる自己防衛の結果であり、また同時に、加害者の故障の結果ではないのだとしたら……。

 その考えは、以前から胸に温めていた。

 ――たった一度であるにせよ、ロボットは男を……ヒトを、「人間」だと認めなかったことになる。

 それは、まさしく僕の思想に合致する真相だった。ヒトは、例えどれほど動物性を捨て、理性による支配を希求しようと、根本的にヒトなのだ。

 ――だとすれば……一体真の「人間」にふさわしいのは……?

 答えは明白だった。僕は少しの躊躇の後に、雑踏の中を縫うように進み、車道のそばへとやって来る。鼻先を、鋼鉄製の車がよぎり、その度乱暴な風を起こして、太陽の熱をほんの僅かに遠ざけた。

 僕は、鞄の中から本を取り出す。彼女が好んだ、アナログなそれは、陽光の中、うっすらと笑っているように思われた。

 ――いつ見ても騒々しい街だ。

 僕は周囲を見渡しながら、そんなことを考えた。

 食品、楽器、家庭用電気製品に、衣類や玩具。その他ありとあらゆる品を象った看板が、自らの領域を目一杯使って、通行人の注意を惹こうと瞬いている。毒々しい色彩や、めまぐるしく明滅する光の装飾。それらは視界を浸食し、どこか不健康な光景を、形作っているのである。

「アレは捨てました」

「だって、気味が悪いでしょう。例の事件もあったことだし」

「あなたも、ほら、最近依存症だなんて騒がれていることですから……」

「一度、診て貰ったらいかがです?」

 老婆の顔が、意地悪く見下ろす太陽に、重なり瞬時に溶け込んだ。それが、僕の愛の終焉である。あまりにあっけなく、あまりに理不尽な、一種の暴力とさえ思われた。

 暫くその場で待っていると、無人の自動車が、一塊になって近づいてくる。申し訳程度に設置されたハンドルが、あたかも透明な人間によって、操られてでもいるかのように、カリカリ忙しく回っている。客を求めて徘徊を続ける彼らの前へ、そっと、本を放り投げる。綺麗な放物線を描きながら、空中でバラバラと頁を開き、やがて無様に地面へ落ちた。

 幸い、彼らが気づく様子はない。焼けたゴムの臭いと共に、車体は本を踏みつけて、雑多な印象の街並みを、せかせか進んで消えていった。

 ――素晴らしい!

 と僕は思わず独りごちる。

 次々と、タイヤが本を圧迫し、頁がめくれ、折れ目がついて、幾何学的な模様が幾重にも重なり刻まれる。

 蹂躙されていくそれは、僕と彼女の思い出だろうか。それともヒトが歩んできた、歴史の遺物なのだろうか……。

 僕は旧式のカメラを取り出して、その場に小さくしゃがみ込む。自分はこれから、ヒトに奉仕するために作られた、機械に奉仕する存在として、一生を生きていくことにしようじゃないか。僕はそうして、この非道な行いを、孤独に糾弾し続ける。人間でもヒトでもない、全く別個の存在として……。

 僕は、街を跋扈する醜悪な生物ではいけなかった。かといって、あの美しいロボット……「人間」でもまた、有り得ない。

 ――そうだ。彼女たちは、自動的な機械に過ぎないのだ。それはまさに究極の理性、ひいては人間性に違いない。

 パチリ、とカメラが音を発する。

 背中に刺さる視線を無視する。

 息をすることを止めてしまう。

 汗を流すことも止めてしまう。

 ファインダーをのぞき込み、この光景だけに集中しよう。

 意識すら捨て、ただシャッターを切る機械となって、この世界を、永遠糾弾し続ける。

 ――人間は、君なんだよ!

 そうしていつか、僕はとろりと溶けてしまった。

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倫理回路 亜済公 @hiro1205

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