汗が瞬時に冷やされる。露出した肌を、刺し貫いていくかのような、寒気がじっとりと満ちていた。喧噪の中、雑多な品の数々が、見渡す限りに並んでいる。腹が小さく異音を発し、きゅるきゅると僅かに回転を始めた。

 建物の外壁の代わりに、幾本もの柱が簡素な様子で立ち並び、その間を透明な建材が補填している。向こうから陽光が差し込んで、際の物品を明るく照らし出していた。天井には、豪華なシャンデリアじみた装飾灯が設置され、どこか偉ぶった表情で、こちらをじっと見下ろしている。

 ――硝子瓶の中にぎっしりと詰め込まれた誰かの皮脂や、銀色の鈍い光を反射する、金属製の貞操帯。ホルマリン漬けの胎児らしき塊に、うず高く積まれた整腸剤の箱。小さく丸められたティッシュ・ペーパー、中身の少なくなったヨード・チンキ、濁った水槽、絡まった紐、ぐにゃぐにゃに曲がった定規、接着された宝石の群れ、裸の犬、着飾った犬、着飾りたい犬……。

 その中で、最も不人気なものは何かと言われれば、まず間違いなくロボットだった。以前は売り場の中央に、堂々とあったその区画は、今や、よく目を凝らさねば分からないほどの端っこに、小さく、薄暗く、閑散とした様子で位置している。

「顧客満足度随一のアフターケア! 信頼の純国産ロボット専門店」

 小さな、接客用の机があって、その上には宣伝用の資料が置かれていた。誰かが触れた形跡はなく、差し込む陽光に照らされて、僅かに焼けているらしい。机は簡素で機能的な格好をし、果てしなく白に近い灰色の台を、丁度僕の腰の辺りに、固定し静かにたたずんでいる。床には人間大のダンボール箱が、目立たないよう幾つか置かれ、恐らくその内容と同一であろうロボットが、金属製の支柱に支えられながら、たったの一体だけ、全身を露出し飾られていた。

 その細部がはっきり見える所まで近づいてみると、背後の雑踏が、遙かな距離を隔てた場所であるかのように思えてくる。周囲に人影はなく、振り返ると、買い物をする客の姿は驚くほど遠くにあった。そうして彼ら彼女らは、全く別世界の住人なのだ、という風な感覚が、どこからか湧き上がってくるのである。

 ロボットは、僕よりもいくらか背の高い、女性型のようだった。背中にまで届く長い髪に、小ぶりな胸や長い足。へそはなく、腹筋の僅かな凹凸がすっと肉体を二分している。肌は白く、艶があり、ただこうして眺めているだけでも、十分にその弾力を感じさせた。

 良く目を凝らして見たならば、僕を含め、大抵の人間の表皮には、無数の皺や穴ぼこが、醜く存在していることが分かるだろう。ロボットにはそれがない。なめらかで、まるで水面から滑り出たかのような曲線が、肉体全てを構成していた。

 胸部、大腿部、二の腕や首筋……あらゆる部位において、それは同様だ。だが僕が何よりも注目するのは、何を隠そう、耳である。ほどよい大きさに、一体ごと微妙な違いの見られる渦。一層柔らかそうな耳たぶの膨らみには、どこか触れてはならないという、危うく繊細な雰囲気がある。真っ黒な髪から、そっと覗く先端には、可愛らしく、悪戯っぽい表情が、確かに認められるのだった。

 ただ一つ、そこに短所を認めるとすれば、長髪に隠れ、首筋を見ることが叶わぬ点だ。しかしそんなものは、結局の所些細な問題に過ぎないだろう。何度見ても飽きさせない、美しい肢体をさらけ出し、彼女は孤独に立っていた。

 ――何よりも素晴らしいのは、彼女の局部に、醜い生殖器や排泄器官が、一切存在していないことだ。

「……返品のご相談ですか?」

 僕と近い年齢だろう、一人の青年に話し掛けられたのは、かれこれ十分も経ってからのことである。

 彼は真っ黒のスーツを着て、胸に肩書きと名前の入った、金色のプレートを留めていた。顔はやや白く、神経質なまでに整った頭髪とはどこか対照的に、疲労感の染みついた目が、こちらをじっと見つめている。

「ああ……、いや。特に用はないんですけれどね」

 僕はその時、突如、腹部に奇怪な感覚が生まれるのを自覚する。汗はいつの間にかすっかりどこかへ消えてしまって、同時に体温をごっそりと奪っていた。急激な冷却のせいだろう、くるくると軽快に回り始めた内臓は、絡まり合い、引っ張り合い、互いを押しのけようと暴れ始める。ちぎれんばかりの痛みを、今まさに訴えようと予告していた。

 冷や汗がどっと溢れ出て、瞬きの一回が、やたらと重く感じられる。パチパチと弾ける闇とロボット。その中に、僕は彼女の姿を想起した。


 真っ暗な部屋の中に、ベッドが一つ、置かれている。僕はそこに寝転んで、日中干したばかりの布団にくるまり、そして確かな温もりを、腕の中に感じていた。

 指先は、するりとした感触を得て徐々に下へと降りていく。闇の中にぼんやりと彼女の四肢が浮かび上がり、シャンプーの匂いや湿り気が、心をほっと静かにした。全身のあらゆる神経が、密接した彼女の身体を包み込み、かつて経験したことのない一体感をもたらしている。その身体は細く、軽く、そして何よりも完璧だ。

 彼女の手が、そっと僕の頬にあてがわれる。目、鼻、耳……そして唇。

 計り知れない安心感を、その動作はもたらした。闇と、眠気と、髪の匂いが、部屋の中を踊っている。

「ロボット工学三原則って知ってる?」

 突然、彼女が問いかけた。声は軽やかに弾みつつ、余韻を残して霧散する。

「一、人間に危害を加えてはならない。二、一条に反しない限り、人間に服従しなければならない。三……」

 彼女が後を継いだ。

「一条並び、二条に反しない限り、自己を守らなければならない。――流石ね、よく知ってる」

 満足げな口調から、表情が脳裏に浮かび上がる。触れて確かめるまでもなく、潤った目は、きゅっと細められているだろう。

 暫くの間、沈黙が続いた。微かな衣擦れの音が、足音を忍ばせ周囲をこっそり歩いている。

 彼女の完璧さ。美しさ。そして何より愛らしさ。

 ――これは、動物的な交尾ではない。

 と、僕は心の内で呟いた。それはまさしく真実である。何より生殖機能を持たない彼女が、下劣極まりない本能を、持っているはずがないではないか。

 これは、言うなれば理性的な交尾だ。ただ精神によってのみ行われる、理性的な愛の体現。

 だがその愛ですら、動物的な概念なのかも知れなかった。

「私を含めてロボットは、三原則を基礎とした、倫理回路によって束縛されている。人間のために奉仕するよう、その運命を決定されている――」

 僕の足と、それから彼女の足とが絡み合った。もうどれが自分で、どれが彼女か、それすらも分からない。内股に柔らかい感触があって、胸部にしっとりとした感触があって、それらはどこまでも白く、どこまでも純粋だった。

「それじゃそもそも、『人間』って、何かしら?」

 彼女を、一層強く抱きしめる。

「君だよ」

 と、夢中になって僕は言った。

 ――人間は、君なんだよ!

 窓の外には、青白い月がぼんやりと浮かび、冷たく、そのくせ柔らかい光が、カーテン越しに感じられた。


 ところで、とふと思い立ち、青年に向かって話し掛ける。

「あなたは、その仕事を辞めようとは思わないのですか?」

 彼は少しばかり驚いた風な顔をして、応えた。

「正直なところ、辞めたいとは思っても、新しい仕事のアテがないですからね。……もっとも、その内会社の方から、辞めろと言うに違いないですが」

「ロボットは好き?」

「好きでした」

「今はどうかな」

「……分かりませんね」

 それで満足だった。

 僕は青年に背を向けて、生理的衝動を抑えつつ、ゆっくり足を踏み出した。キリキリと、針を腹部にねじ込むような、鋭い痛みに眉をしかめる。

 この頃の精神的疲労のせいだろうか。以前ならばこの程度の寒さ、何でもなかったはずなのだけれど……。

 絶え間ないお喋り。絶え間ない足音。バッグにつけられたアクセサリーがぶつかったり、天井のどこかに設置された音響装置から、古い西洋音楽が流れていたり。壁際に、時折姿を現す空調設備は、僅かな駆動音を発していた。とにかくここには、あらゆる音が充満している。およそ思いつく限り全ての種類の音色が、溶解し、混ざり合い、混沌としてそこにあった。

 ……この宝石……ブゥゥゥ……明日の……ンンンンンン……バッグ……良いね……バタバタバタバタ……限定……サカサカサカ……ンンンンン……特産……感激……パタパタ……全盛期……トントン……気球……心理……カチャカチャカチャ……ブブブブ……。

 陳列された品々の光沢。ひょいと頭を揺らす度、光の欠片がちらついた。あたかも硝子の破片のように、ゆっくり宙を舞っている。そうしてそれが目に入ると、鋭い痛みを伴うのである。少なくとも、僕にはそう感じられた。

 目的の場所を求めて歩き続ける。ありきたりな表現をすれば、要するに「便意」が、背中を強く押していたのだ。

 ――ここだ!

 先のロボットの売り場より、遙かに目立たぬその場所に、小さな看板が掛けてある。ともすれば、どこか住宅街の片隅の、カフェーか何かと勘違いしてしまいそうな、随分お洒落な入り口だった。

 木目の印刷されたタイル。壁に象られた幾何学模様。小さな四角形の窪みから、さり気ない様子で覗く明かり。自らの醜悪な本質を隠そうとするかのように、美しい装飾が、ただ静かにたたずんでいる。

 僕は、一層強まる痛みにうめきながら、我慢できずに背中を曲げた。それからよたよたと、情けない格好を自覚しつつ、他人がこの光景を一切目の当たりにせぬよう祈りながら、その場所に一人、踏み入れたのである。

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