狼男と吸血鬼

Ang

第1話

 ──鼻が乾く。

 月の満ちる晩はいつもそうだった。

 どうしようもない食欲と、何も考えずに野山をひたすらに走り抜けたい衝動に駆られる。

 自らの行き場のない飢えを具現化するように、月の夜は鼻が乾く。

 わからない。もう大分前から、男はそうだった。

 月の満ち欠けに応じて、己の内から喩え難い凶暴性を感じるのだ。

 それはもはや心の有り様と言う枠すら飛び越え、男の身体までも浸食する。

 体毛は量も質も変化してごわごわと固くなり、体中の孔と言う孔から芽を吹くように銀色の剛毛が湧く。

 鼻筋は不快にきしむ音を立てて前へと伸び、全身の骨が、肉が熱くなる。

 血が噴出すのではないかと思うほどの熱さを感じた頃、男の姿は男のものでは無くなっている。

 二本の足で立つ、筋骨隆々とした人狼である。

 病なのではないかと、過去に男は思い悩んだ事がある。そんな奇怪な疾病しっぺいが現実にあるものかとも思ったが、少なくとも男にとっては紛れもなきことであった。

 一年ほど前、男は遂に村の人間を殺め喰らった。

 顔を合わせれば挨拶を交わす程度の、人間関係の希薄な若者だった。それまで誰にも会う事なく山中でやり過ごして来た男の凶暴性は、見られてしまったと言う意識と共に毒牙へと昇華してしまった。獣にやられたのだと村民の誰もがそう結論付けた。

 喰らった肉の味は、甘かった。

 それを自覚した瞬間、男はもう人間ではいられないのだと悟った。俺はいずれこの人間の姿すらも忘れ、語るも恐ろしい人喰い狼と化していくのだと、そう思った。

 元々独り身だった男は、蒸発と見せかけて故郷の村を抜けた。人が立ち入る事のない森を選び、ひと月かけて森の奥へ小屋を建てた。

 男は孤独であった。

 されど新月の晩以外は人ならざる者と化す己の姿を、誰にも見られる事なく、誰にも迷惑をかける事なく、自然の中で淘汰されて行くのならそれが良いと考えていた。

 飢える夜は鳥や獣を捕らえた。森の中で、男に敵う獣はいなかった。

 大木すら薙ぎ払う桁外れの腕力の前に身の危険など微塵も無かった。

 今宵は望月。男の身に最も強大な力が宿る日であった。

 有り余る激動と鼻の乾きを、野山を駆け夜空に吠えることで潤すのだ。

 夜は男を惑わせ置き去る。

 男は、孤独であった。



* * *



 理性と狂気の琴線が軋むその夜、獣と化した男の金色の瞳は夜の闇に一筋の銀色を捉えた。

 あの忌々しい月光の色にも似た、されど何処となく光とは程遠いような感覚も抱かせる不思議な色であった。

 生い茂るくさむらと背丈の高い木々を爪で抉りながら掻き分け、男は本能に導かれるがまま銀色を追った。

 銀色は動いてはいなかった。直ぐに距離を詰めた男は、いっそう目を訝しげに細める。夜の黒の中に浮かぶ銀色の塊は、人の髪の毛のようであった。

 身に纏っている物が黒であるためなのか、一瞬首だけが転がっているように見え、男は息を呑んだ。

 どうやらその者は、体の具合が芳しくないようであった。背中が僅かに小刻みに上下し、耳を澄ませば荒い呼吸音が聞こえる。

 死にかけの人間が一人。

 男の心臓ははち切れそうな程に高鳴った。

 どっ、どっ、と体中の血液が沸騰したような感覚に陥る。

 夜は森の獣を喰らって何とか飢えを凌いで来た男にとって、それはまた人と人ならざる者の一線を超える誘惑であった。

 一度覚えた肉の味が、男の舌に煌々こうこうと蘇る。いつの間にか男の目は血走り、口の中は唾液で満たされていた。

 この人気のない森で、自分がこの場を通らなければ死んでいた人間である。

 ──なれば、今俺がここで殺めたとて何の罪があろうか。

 動作としては、森の獣を殺すよりも他愛ない筈である。

 蕩けそうになる己の脳髄の疼きを、男の最後の理性が恐れた。その場に縫い付けられたように男の足は動かなかった。

 低く唸り声を上げながら、男はじっと耐える。この人間を喰らいたいと思う獣の本能の半身で、この場から早く消え去ってしまいたかった。

 その時であった。地に伏していた人間が、辛うじてと言った呈で起き上ったのだ。

 男は息を呑んだ。

 この顔を見られて何とする。この姿を見られて、何とする。

 起き上がるな、地へ伏せろ、と男は凶器の爪をひた隠し必死に願う。

 だが切望虚しく頭をもたげたその人間の顔を初めて見て、男は目を大きく見開いた。

 青白い顔色、血のように赤い瞳、そして牙。此方を驚愕の表情で見る人間の薄く開いた口からは、獣のそれよりも鋭い二本の牙が垣間見えていた。

 この人間に該当するものを、男はたった一人知っていた。

 それは人間ではない。男が人間の枠の中から抜け落ちた存在であるように、目の前の人間だと思っていたそれは、人間では無かった。

 己は人の肉を喰らう狼男。

 そして目の前にいるのは恐らく、十中八九、人の生血を喰らうとされる魔物──吸血鬼であった。



* * *



「──殺すがいい」

 長い月夜の沈黙の底で、眼前にある手負いの魔物は呟いた。どこか穏やかにも聞こえる音色の声は想像よりも低くは無く、物憂げな青年のそれだった。

 村人や年寄の昔話で聞いたような、爛々とした目つきや恐ろしい顔付きとも違う。ただひたすらに淡麗で、線の薄い人形然とした青年であった。

 良く見れば口の端からは一筋の液体が流れている。血液である事は男にも直ぐに分かった。ただそれが吸血鬼自身の血液なのか、返り血なのか、“食事”の名残なのかは判断には至らなかった。

 茫然と立って己を見ているだけの男の視線に居た堪れなさを感じたのか、吸血鬼は視線を逸らして項垂れた。

「…狼男おまえに殺されるのなら、私も苦しまずに逝ける」

 半ば請うかのように吸血鬼が男の方へ向き直り、そこで初めて男は彼の身なりを認識する。

 肩の形が辛うじて判る黒いローブかマントのような衣の上には、十字架を模した無数の銀の針が突き立っていた。針と言うよりは太くどちらかと言えば楔のような物で、これが彼に深手を負わせている事は一瞬で分かった。

 不意に遠くで草を裂く音を男の耳が捉えた。

 同様にその音を聞いたらしい吸血鬼は、焦ったように息を呑んだ。

「追手が来る……! 早く、どうか私を殺してくれ! このような魔物の肉など腹の足しにはならぬだろうが、飢えているのなら喰らっても構わない。奴等が来る前に、頼む、私を殺してくれ──」

 悲痛な声でその吸血鬼は自身を殺めることを男へ切望した。

 追手と彼が呼称したその音は、段々この場へ距離を詰めて来ていた。

 男はやむを得ず、決断せざるを得なかった。男自身もこの姿を他人に見せる訳にはいかなかったのだ。事態は急を要していた。

 金色の瞳孔を一度閉じ、キッと鋭い眼差しが夜を裂く。

 男の体は一瞬で動いていた。

「……!?」

 いとも軽々と己の身体が持ち上げられた事に、吸血鬼は少なからず驚愕していたようだった。

 男はその場から吸血鬼を抱き上げ、人外のスピードで樹木伝いに元来た道を戻り始めていた。

「何故……! 何を……!」

 焦りきった声が抱きかかえた魔物から上がる。

 男は視線を前方から離さずに、ぶっきらぼうに裂けた口を開いた。

「俺は人を殺めたくてこんな姿になっているのではない」

 言葉を忘れたかのように、腕の中の吸血鬼は何度か瞬きをした後、大人しくなった。

 男は風を切る。

 生まれて初めて殺してくれと頼まれた者へ湧いた感情は、不思議な事に凶暴性とは真逆のものだった。

 例え人を殺め喰らった罪があったとしても、この者だけは殺してはならぬ気がした。

 この者を殺した時真に己が魔道へ堕ちるような、恐怖にも似た感情だった。

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