第5話 緊急入院
先ほどまで降っていた激しい雨が、嘘のように上がった。フィリピンの天候は変わりやすい。
アイリーンは妹のアニーと一緒に、菜園へキャベツとナスを収穫にきていた。野菜には、まだ
菜園は、家から二百メートル離れた空地にあった。地主が、放置していたら荒れ放題となるから、土地が必要になるまでただで使って良いと、菜園利用を許可してくれたものだった。野菜を植えたのは約三十メートル四方で、全体ではそれなりの広さを持つ。
「アニー、そこに大きなナスがあるでしょう。それを獲って」
そう言ったアイリーンは、大きなキャベツを収穫しようとしている。その間にアニーは、ナスを十個ほど摘み取った。アイリーンは赤々と熟したトマトを見つけ、ついでにそれも摘んだ。
アイリーンは帰り道、リンゴを食べるみたいにトマトを噛じる。程よく熟したトマトを見つけたら、彼女は必ずそうするのだ。
トマトが好物だった。彼女は兄妹にもそれを勧めるけれど、誰もが嫌がった。兄妹たちは姉のそんな癖を、変わった趣向だと思っている。フィリピンには日本のように、トマトをそのまま食べる習慣がないからだ。
野菜を収穫し、あとはメイドの仕事を終えたエレンの帰りを待つばかりだ。アイリーンは台所で、直ぐに食事を始めることができるよう、炊き上がったご飯を容器によそっていた。
立てつけの悪いドアがガタガタと音を立てる。エレンが帰ったと思った子供たちの耳に入ったのは、若い女の声だった。
玄関に、息を切らした蒼白な顔のメリアンが立っていた。彼女は母親がメイドをする家の娘で、アイリーンは時々彼女と一緒に遊ぶ仲になっている。
メリアンが息を切らせて言った。
「アイリーン、エレンが大変なの。突然倒れて家で休んでいるから、すぐ一緒にきて」
「え? ママが?」
突然のことに、アイリーンは呼吸が止まるのと同時に言葉を失う。妹と弟たちも、その言葉で一斉に動作が止まった。
「とにかくみんな来て」
メリアンに促され、ようやくみんなが我に返って動き出す。
子供五人の集団が、メリアンの家に小走りに向かった。雨上がりのぬかるみが、急ぐ子供たちの足を泥だらけにした。
メリアンの家につくと、エレンがベッドの上に寝ていた。普段エレンと一緒にいるカミルとサリーの二人が、不安な面持ちで寝ているエレンの傍に寄り添っていた。
アイリーンは、紫に変色したエレンの唇を見て、事態の深刻さを察した。
「ママ、どうしたの? だいじょうぶ?」
アイリーンが声をかけても、エレンは熟睡しているのか返事がない。
ふと気付くと、部屋の入り口に女性が立っていた。氷のような冷ややかな雰囲気を漂わせる女性は、その家の主、リンだった。
「ママはどうしたんですか? なぜ急に倒れたの?」
「さっきドクターに診てもらったわ。彼女は急性肺炎を起こしているようよ。熱も高くなっている。薬が効いている今のうちに、シティの病院に移した方がいい」
アイリーンの顔が曇る。「うちに病院に入るようなお金は……」困惑を含んだ言葉がかすれた。
「お金のことは心配しなくてもいい。今すぐみんなでシティに行くわよ」
「でもそんなお金、返せるかどうか分からない」
今にも泣きそうな弱々しい声だった。
「今はそんなことを考えている場合じゃないわよ。アイリーン、あなたはエレンの着替えを家から持ってきなさい。それからアニー、あなたはレイにエレンが倒れたことを伝えなさい。メリアンは貸切りの車を一台ここに連れてきなさい。三十分後にここを出るわよ、みんな急いで」
てきぱきと指示を出すリンの言葉に、アイリーンは滲んだ涙を拭い、ようやく母親のそばを離れた。
そのとき、リンの携帯が鳴った。彼女は廊下に出て、電話の相手と英語で話し始めた。相手は地元の人間ではないようだ。
「……そう、エレンは相変わらずよ。病院は?……ええ、分かるわ。ありがとう」
病院の手続きの話に聞こえる。リンは既に、具体的な手配を進めているようだ。アイリーンは、あれこれ考えている場合ではないと悟った。
「アニー、パパはきっとロンの家の前にいるわ。早くこのことを伝えて」アイリーンはアニーの両肩に手を添えて言った。彼女自身も、リンに頭を下げて部屋を飛び出す。
二十分後に、アイリーンとアニーがリンの家に戻った。レイはいつもの場所に居ないため、連絡がつかない。シティへ向かう車は家の前に到着している。
「仕方がないわね。それじゃあこのまま行くしかないわ。メリアン、私は一緒についていくから、後はお願い」
車に乗せようと、リンがエレンを起した。弱々しく目を開けるエレンにリンが言った。
「エレン、これからセブシティの病院に行くわよ。車で行くからもう少し我慢して」
「病院なんて行けない。恥ずかしいけど、そんなお金はないの。ごめんなさい、家に帰ります」熱のせいで声がかすれる。
「今、お金のことは気にしないの。ドクターに大きな病院に行くように言われたわ。あなたの子供たちもみんな心配している。さあ、行くわよ」
「ママ、お願い、病院に行って。私も働くから、お金は心配しないで」
アイリーンは目に涙を浮かべ、エレンの手を握った。その手を握り返したエレンは、目を閉じ少し思案したあと、リンに向き直った。
「ごめんなさい、リンさん。本当に迷惑をかけて」
彼女はベッドの上で、命が尽きかけているかのように、弱々しく頭を下げる。真っ青な顔に、生気の失せた表情が浮かんでいた。
アイリーンとリンでエレン支えながら、待たせているワンボックスカーに慎重に彼女を乗せた。子供たちも乗り込んだところで、リンがドライバーに言った。
「シティまでお願い」
ドライバーは無言で車を発信させる。セブシティまで、山を一つ越えなければならない。車がカーブに差し掛かるたびに体が揺れる。アイリーンが、身体の芯を抜かれたように振らつくエレンの身体を支えた。触れあう肌を通して、エレンの熱が再び暴れそうな雲行きをアイリーンは感じた。
リンは助手席に座り、まっすぐ車の行く手を見つめている。あの若さで大きな家を持ち、そしてママの病気に対する決断力や的確な指示を出すこの女性は何者なのだろうと、アイリーンは改めて思った。一見何事にも動じない冷徹な印象を持つ女性に、これまでいつも助けてもらっている。今回もこの人のおかげで、ママをきちんとした病院で診てもらえるのだ。
「リンさん、本当にありがとうございます。あなたがいなかったら、どうしたらいいか分からなかった」
アイリーンは改めて、リンの後ろ姿に礼を言った。リンは少し後ろを向き、大丈夫よと短く返し、直ぐに前方へ視線を戻す。
セブシティの病院に到着したエレンは、すぐに入院となった。付き添いの子供がたくさんいることで、リンは個室を手配した。
「彼女は心臓が弱っているようです。かなり無理を重ねてきたのではないですか? バイタルが弱い今、この肺炎は危険ですが、抗生物質を投与しながら経過を見るしかありません。おそらく今夜が峠となります。あとは本人の気力と体力次第ですね」
中年のドクターは、エレンの状態を危険だと宣告した。ベッドの上で点滴のチューブに繋がったエレンは、相変わらず高い熱で意識が朦朧としている。子供たちはエレンの傍らから片時も離れず、彼女を見守った。
窓の外には、街灯や家の灯りが見えていた。一つ一つの灯りの下には、普通の幸せな家庭があるのだろう。けれどアイリーンは、エレンが元気になってくれたら、他は何も要らないと思った。
「アイリーン、ちょっといい?」
リンが廊下から、病室のアイリーンに手招きした。
「レイがようやくつかまったようよ。メリアンから電話があったの。レイは今日ここへ来ることができないようだから、とにかくエレンの熱が下がるのをみんなで待ちましょう。それから、あなたたちの食事はその辺で適当なものを買ってくるけど、それでいい?」
「何から何までありがとうございます」
アイリーンは、見た目の印象と違うリンの優しさに、言いようのない安心感を覚えた。そこへ見知らぬ男がやってきた。フィリピン人ではない男だった。どこの国の人かもアイリーンには分からなかった。
リンが男に向いた。
「ごめんなさい。大変なことになって」
「様態はどうなの?」
「思わしくない。今夜が峠だと言われた。今彼女には子供たちがついている。お願いがあるんだけど、その辺で子供たちの食事を買ってきてくれない?」
そして思い出したようにリンは言った。
「ねえ、この子はエレンの娘でアイリーンよ」
リンがアイリーンの背中に手を置いた。
「彼は私の恋人の和也よ。日本人なの」
アイリーンにとって、初めて見る日本人だった。彼女は頭の中で「カズヤ、カズヤ」とその日本人の名前を繰り返した。
「始めまして。お母さんは気の毒だったね。早く良くなることを祈っているよ。とにかくお母さんの治療はできる限りのことをするから心配しないで」
彼は屈んで、目線をアイリーンに合わせて言った。
「あなたが病院の手配をしてくれて助かった。おかげですぐにドクターに診てもらえたの」
フィリピンは治療費の支払いを保証できないと、死にそうな人間でも門前払いとなる。和也は病院で、エレンの治療費は自分が保証するという、病院が用意した誓約書に予めサインをしていた。
「それじゃあ、何か食べ物を買ってくるよ」
彼はそう言い残し立ち去った。
エレンの熱は、夜中になっても下がらなかった。子供たちは母親の傍らで、神に祈りを捧げるしかなかった。エレンの意識は相変わらず混濁し、目を閉じてベッドの上に横たわっている。まだ幼いカミルやサリー、ジミーは、病室の床の上で膝を抱えながら居眠りしていた。エレンの傍らにじっと付き添っていたのは、アイリーン、アニー、マックの三人だ。和也は翌日仕事があるためホテルへ戻ったけれど、リンはその場に残った。
「私も何年か前、同じように死にそうになったの。高熱が続いてドクターに助かる見込みが半々と言われたみたい。でも神様から、まだ生きなさいって言われたの。あなたのママのことも、神様がきっと同じことを言うわ。あなたたちも少しやすんだらどう?」
リンは三人の子供に声を掛けたけれど、彼女らはそれに従う気はさらさらなかった。子供たちを底知れぬ不安が襲いながら、病室の夜が静かに更けていく。
朝方窓の外が白み始めたときに、エレンが薄っすらと目を開けた。その視界に、床に膝をついてベッドにうつぶしているアイリーンや、床の上で眠る子供たちが入る。そして彼女は、パイプ椅子の上で、腕を組んで自分を見つめているリンに気付く。
リンがエレンに近付き、彼女の額に手を当てた。
「よかった。もう大丈夫なようね。高熱が続いて危なかったのよ」
エレンは自分が朝まで混濁していたことに、気付いていなかった。リンが経過を説明すると、まだ意識の朦朧状態を引きずるように、彼女は静かに口を開いた。
「リンさん、ありがとう。私はこの子たちを置いて死ねないわ」弱々しい言葉と裏腹に、その目には生きなければならないという強い意志が宿っている。
「そうね、よくがんばったわ。この子たちもずっと起きてあなたを見守っていたのよ」
明け方の二人の静かな会話の後ろに、子供たちの寝息が響いていた。
「今ドクターを呼んでくるから、ちょっと待って。二~三日はここでゆっくりした方がいいわ。今は体を休めないと、早く元気になれないわよ」
病室を出ようとするリンに、エレンが語り掛けた。
「ねえリンさん、どうしてあなたはそんなに親切にしてくれるの? 家族でもなんでもない私たちに」
リンはエレンをしばらく見つめた。そして少し間を置いてから言った。
「私も数年前は大変だったの。父親が病気になって、同時に私も倒れて入院したの。その時の病院代が大きな借金になった。それで私たちの生活は狂ってしまったわ。私は生活のため、借金を返すために安易な気持ちで水商売に身を落として苦しんでいたの。でも偶然バーで知り合った一人の日本人に救われた。それがなかったら、私はきっと泥沼に引きずり込まれていたに違いない。でもあなたは違った。どんなに苦しくても、陽の当たる場所で一生懸命生きていたわ。それを見ながら私は、あなたを強い人だといつも思っていた。私はあなたから自分の弱さを学んだのよ。こんなにがんばっている人を見捨てたら、きっと神様が私に罰を与えるわ。私が一人の日本人に救われたように、今度は私があなたを救う番だと思っているの。それだけなのよ」
「ありがとう、リンさん」
ベッドに横たわるエレンの頬を、一筋の涙が伝った。
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