第8話 真相
和也は、もらった名刺をじっと見つめた。代表取締役社長の後に、沢木浩二と書かれている。
年齢は自分に近いはずだけれど、社長業をやっている彼が随分年上に感じられた。沢木は決して肥満ではないし、白髪や皺が目立つわけでもなかった。しかし言葉や態度に、滲み出る人徳や安定感が感じられる。
彼は社長でも、縦縞のダブルを着こなすタイプではなく、素材の良いジャケットが似合う気さくさを持っていた。和也の向かいに座った彼は、口に運んだコーヒーカップをゆっくりとテーブルに戻した。
二時間前、和也の電話を見知らぬ番号が震わせた。
「はい、池上です」
「突然ですが、沢木と申します。池上さんのことは、セブのリンさんから伺ったと言えば分かるということだったのですが」
その言葉を聞き、和也の時間が一瞬止まった。彼からいずれ電話がくるかもしれないと思っていたけれど、仕事に追われるうち、和也の意識からそのことが遠のいていたからだ。
「ええ、沢木さんのことは聞いています」
「それで、早速会ってお話を伺いたいのですが、ご都合はいかがでしょうか?」
和也は腕時計に目を落とし、自分はいつでも構わないと言った。
「それでは本日これから、というわけにはいかないでしょうか? できるだけ早くお話を伺いたいのですが」
電話越しに、相手の恐縮具合が伝わってくる。
和也には、浩二の用件が分かっていた。一刻も早くという浩二の気持ちを察し、和也は突然のお願いを了承した。
二人は新宿の、あるコーヒーショップで待ち合わせをした。お互い顔を知らないため、着用している服装の特徴を教えあった。和也は念のため、先に到着するだろう自分が、薄茶色の皮鞄をテーブルの上に載せて待っていると告げた。おかげで浩二は、和也をすぐ見つけることができた。
さっそく浩二は、用件を切り出した。
「会ったばかりで申し訳ありません。これが先ほど届いた手紙です。まだ動揺を引きずっています」
そう言いながら、浩二は会社で受け取った手紙を和也に手渡した。
「拝見します」
浩二は手紙を読む和也の姿を、息を殺して見守った。
読み終えた和也は、神妙な面持ちで言った。
「僕の聞いている話は、ここに書かれている通りです」和也は浩二に手紙を返す。「僕は二度ほどアイリーンに会ったことがあります。一度は彼女の母親が倒れて病院に担ぎ込まれた時でした。二度目はシンガポールです。彼女は静かで芯のある子です。レイラという娘さんには、会ったことがありません」
「シンガポールまで、会いに行って下さったのですか?」
浩二は赤の他人がそこまでしていることを、意外に思った。どうしてそこまでと、思わずそんな言葉が彼の口をついて出る。
「シンガポールは仕事で頻繁に行っていたので。休日に足を延ばしてみただけですが、彼女を探し出すのに半日もかかりませんでした」
浩二はなるほどと言った。
「私の住所は、池上さんが調べて下さったのですね?」
「リンに頼まれ、沢木さんの名前をインターネットで検索しました。沢木さんの会社がヒットして、すぐに分かりました。もし沢木さんが社長でなければ、簡単には分からなかったでしょうね。僕は沢木さんの会社名、会社住所と電話番号をリンに伝えました。その後どうするかはサラさんが決めることなので、僕から沢木さんには連絡をしませんでした」
「そうでしたか。池上さんのおかげで助かりました。この手紙がなければ、私は何も知らないままです」
余計なことをしたかもしれないと心配していた和也は、そう言われて肩の荷を下ろした。それでも、二十年もサラと離れていた彼に、手紙の内容は青天の霹靂だったはずだ。
「驚かれたでしょう」
「ええ、それはもう。まさかこんなことになっているなど、夢にも思いません」
「どうなさるかは沢木さん次第です。失礼ですがご家庭は?」
「この歳になってまだ独身です。会社を軌道に乗せることで精一杯でした」
「アイリーンには会われますか?」
「まだ混乱していますが、いずれそうなると思います。いや、是非そうしたい」
「そうおっしゃるかもしれないと思い、彼女の居場所を持ってきました」
和也は一枚のメモを、浩二に手渡した。そこには、“Singapore Geylang St.18 Lor ** No.***”と書かれている。
「この場所で彼女に会うことができます。手紙でも触れていますが、ここは売春宿です。もし行かれるのであれば、心の準備が必要と思います」
浩二は丁寧にお礼を述べ、手に取ったメモを見つめた。
和也には、気になっていたことがあった。それは自分が連絡先を調べた相手、つまり浩二が、どのような人物か分からなかったことだ。頼まれたとは言え、その人物次第で、何人かのフィリピン人が不幸の渦に巻き込まれる可能性がある。和也は、できれば目の前の人物が信頼できる人であって欲しいと願っていた。
「失礼ですが、サラさんと出会うきっかけは何だったのですか?」
浩二は、全ての事情を伝えるべきだろうと判断し、当時出張でフィリピンに行き、その職場でサラと出会った経緯を和也に語った。
「あの当時、初めてフィリピンを見たときにはカルチャーショックを覚えました。あの国の人間に、生命力の塊のようなものを感じました。そしてサラに出会った。彼女は明るくていい子でした。屈託がなく素直な女性でした。初めて彼女に会った時に、彼女は恥ずかしがりやでありながら人見知りをしない、矛盾した言い方ですがそんな子でした。それまで見たことのない人種だと思いました。今でもはっきりと、彼女の笑顔を覚えています。そんな彼女に僕は魅かれました」
正直な言い方だった。
「分かる気がします。フィリピンの人は、いつの間にか相手の心に入り込んでくる」
「そうなんです。そして三年間付き合いました。その三年間で、私は彼女から生の英語を教わりました。いや、教わったのは英語だけではありません。その後私の人生に影響を与える多くの考え方を、彼女から学びました。長期休みの度にフィリピンに行きましたよ。当時の私の月給は安かったから大変でしたが、それでも楽しかった」
当時のことを語る浩二の表情は、気が付くと穏やかになっていた。和也は相槌をうちながら、彼の話しに耳を傾けた。
「二人が付き合いだして三年経過した頃に、彼女に縁談の話が持ち上がりました。相手は彼女を見初めたという、裕福な家庭の息子です。私は良い話だと思いました。私は彼女のことを好きでしたが、彼女の縁談を壊してまで深入りする勇気を持てなかったのです。言い訳になりますが、私もまだ若かった。彼女との結婚を考えてみましたが、そこまで踏み込む自信を持てなかった。国際結婚に抵抗があり、フィリピン人を妻として迎えることにも、心のどこかで重荷に感じていました。結局私は彼女にその縁談を勧め、彼女の前から逃げ出してしまいました。その後は自問自答の繰り返しです。あれで良かったのかどうか、今でも考えてしまうことがあります。本当に情けない話です」
話が途切れると、浩二は項垂れた。和也はその様子で、彼が未だに当時のことを引きずっているのだと思った。
「それから仕事にかまけ、私はいつの間にかサラのことを忘れていました。でも時々、ふと彼女のことを思い出すんです。彼女は今、どうしているのだろうと考えてしまうんですよ」
「彼女と別れたことを、後悔していらっしゃるのですか?」
和也は少し踏み込んで訊いてみた。浩二のような人物ならば、そんな質問を許してくれそうな気がしたのだ。
「自分でもよく分からないんです。きっとあの頃の私は、結婚に踏み切ることはできなかったでしょうから。しかしおそらく、後悔しているのでしょう。ずっとそうだったのだと思います。自分の気持ちとは、中々分かりにくいものですね」
和也には、浩二の作った笑顔が少し無理をしているように思えた。
事実を知った今、自責の念に囚われていますと浩二が言った。
「彼女は沢木さんと別れた後に、妊娠に気付いたようです」
「なぜその時、彼女は私に話してくれなかったのだろうと思います。今ではそれが残念です」
「彼女はきっと、沢木さんに迷惑をかけると思ったんですね。だから何事もなければ、この手紙を出すこともなかったと思います」
「そうでしょうね。しかしあの頃私が彼女の妊娠を知ったとしても、私はどうしていたのか自信がありません。しかし今は違います。人生の折り返し地点を過ぎても一人暮らしをしていると、自分の歩いた道とは一体何なのだろうと思う時がありましてね。だから自分の血を分けた子供の存在を知り、素直に嬉しい気持ちがあるんです。子供とは、自分の生きた証の一つなのかもしれません。今更都合のよい話だとは分かるのですが、そんな感情を抱く自分を不思議だと思っています」
浩二の話に、おそらく嘘はないのだろうと和也は思った。そしてこの人物なら、アイリーンの心を救えるかもしれないという期待感が芽生えている。
「アイリーンの件でリンが連絡を寄こしたのは、もう半年も前のことになります。少し長くなりますが、自分の知る経緯をお話しします」
浩二は頷き、宜しくお願いしますと言った。
「サラさんが沢木さんと別れてから妊娠に気付いたことは、手紙に書かれている通りです。彼女は縁談を断り、子供を産み一人で育てる決心をしました」
和也は手紙の内容と重複する部分も含め、サラと娘レイラとアイリーンの持つ複雑な事情と、それが恋人のリンを通して自分に伝わった経緯について、順を追って浩二に聞かせた。
それはフィリピンの混沌とする状況に、人間が惑わされ葛藤する様を描くストーリーだった。それだけにその話は、迂闊に軽々しく伝えるべきではなく、和也は言葉を選び、時間をかけて浩二に語った。
サラは生まれた女の子をレイラと名付け、その子を育てるための働き口を夜の世界に求めた。女手一つで子供を育てるのは、フィリピンでは仕方のない選択だった。フィリピンは大企業であっても、社員採用の窓口が狭い。モールの半年契約販売員でさえ、潜り込むのが難しいのだ。新卒でもないサラが赤ん坊を抱え普通の仕事にありつくのは、とても困難な社会状況がある。
慣れない水商売でサラは嫌な目に遭い続けてきたのだろうが、彼女はレイラが立派に成人することだけを夢見てがんばり通した。
娘のレイラが十八歳になったときに、彼女は就職のための健康診断を受けた。そこでサラは、レイラの血液型がB型であることを知ったのだ。
サラはレイラの血液型に疑問を抱いた。サラはO型、そして浩二はA型だったからだ。O型とA型の間にB型は生まれないはずだった。しかしサラには身に覚えのないことで、子供は間違いなく浩二の子である。サラは浩二の血液型をもう一度確認したかったけれど、連絡先が分からなかった。それを知っていたとしても、どう確認すべきか難しいことでもあった。
サラは何度も、何も気付かなかったことにしようと思った。しかし、それができなかった。彼女は迷った挙句、レイラを産んだセントルイス病院を密かに訪ねてみたのだ。
病院の対応は、無視に近いものだった。冷静に考えれば、十数年前のことなど、病院がまともに相手をしてくれるはずがない。サラは仕方なく弁護士を雇い、再度病院側に切り込んだ。そこでようやく彼女は、レイラが生まれた日、その病院で三人の子供が生まれた事実を突き止めたのだ。
三人のうち一人は男の子だった。もう一人の女の子を産んだ女性はエレンという名で、彼女はサラと同じタイミングで女の子を出産していた。
サラは胸騒ぎを覚えた。病院の記録に残るエレンの住所は、セブのクエンコとなっている。サラはその住所を訪ね、その後エレンが移転したバリリに行き着いたのだ。
バリリを訪れると、既にエレンは亡くなっていた。しかし夫のレイから、彼の血液型がAB型でエレンはO型であったことを知る。その二人であれば、B型の子供が生まれてもおかしくない。サラはどうしても、アイリーンの血液型を知りたくなった。知らなければならないと思ったのだ。
しかしレイは、アイリーンの血液型を知らなかった。レイは当時、六人の子供全員を手放し、浮浪者のようになっていた。そんな彼は、アイリーンがどこで何をしているかさえも知らなかった。ただ一つ、彼がアイリーンの消息についてヒントをくれた。それは、リンと叔母のダイアンのことだ。レイは二人のうちどちらかが、アイリーンの行方を知っているかもしれないと言った。サラは同じバリリに住むリンを先に尋ね、その時リンが、事の詳細を知ることになったのだ。
リンはエレンの子供たちが親戚に引き取られ、みんながバリリから離れたことを知っていた。しかし暮らし向きまでは知らず、その後アイリーンについても、どこで何をしているか知らなかった。そこに思わぬサラの話が舞い込み、リンはサラの顔をまじまじと見ながら、話の内容に驚愕した。確かに訪ねてきたサラは、アイリーンによく似ているからだ。
サラとリンは二人で、アイリーンの行方を追うことにした。そしてアイリーンの血液型と行方のヒントは、意外なところで知れた。
それは、アイリーンがダイアンとその娘シェラの口車に乗せられ短期間働いた、セブシティのバーだった。ダイアンが、アイリーンはとんだ穀潰しだったと毒舌をふるいながら、自分の娘がアイリーンを押し込んだバーのことで口を割ったのだ。
バーには、アイリーンの健康診断書が残っていた。それによると、アイリーンの血液型はO型だった。
血液型によると、AB型のレイとO型のエレンとの間にO型のアイリーンが生まれることはない。B型のレイラであればその可能性がある。
そしてA型の浩二とO型のサラとの間にB型のレイラが生まれることはない。しかしO型のアイリーンが生まれる可能性はあった。
これで、病院が子供の取り違いをしたことが濃厚になった。取り違いを疑いながら、それが間違いであって欲しいと願っていたサラに、卒倒するほどの衝撃が走り抜ける。
ついでにバーのママが、確かではないと前置きし、アイリーンはシンガポールの売春宿にいるかもしれないことを教えてくれた。
ママはアイリーンが消息を絶つ前、性質の悪い男が彼女に近付いていることに気付いていた。その男は女を海外に売り飛ばす要注意人物として、ママのアンテナに察知されていたのだ。それをアイリーンに注意しようと思っていた矢先、彼女は突然店を辞めると電話で告げてきた。その後不審に思ったママがその筋の客にそれとなく訊いたところ、最近若い女がシンガポールに飛ばされたという話を聞いたというのだ。
和也はそこまで話してから、沢木に一つ確認をした。
「沢木さん、ここまでがフィリピンで分かった内容です。シンガポールの話については少し心が痛むかもしれませんが、沢木さんを信じて正直に話します。よろしいですか?」
「私は真実を知っておきたい。是非教えて下さい」
沢木の了承を受け、和也はシンガポールでの話を続けた。
シンガポールにおけるアイリーンの居場所は、彼女と面識のある和也本人が、ゲイラン地区を丹念に歩きまわり探し当てた。和也はゲイラン地区の売春宿一軒一軒を、フィリピン人がいるかどうか訪ね歩いたのだ。
ある宿でフィリピン人がいると言われ、和也はガラス部屋の中にいるアイリーンを見つけた。彼はその時、アイリーンの哀れな姿に言葉を失った。アイリーンは、すぐに和也のことに気付かなかった。しかし和也が名乗りフィリピンの病院で会ったことを話すと、彼女はようやく和也を思い出した。
男に騙された経緯は、アイリーンの口から直接確認した。アイリーンは涙を流しながら、その全てを教えてくれたのだ。
ダイアンとシェラに安全なバーを紹介すると言われ、アイリーンはそこで働き出した。彼女はできるだけ早くお金をため、再び家族を呼び戻したかったのだ。働いてお金を稼げるならバーでもよいと考えていたから、彼女がダイアンの口車に乗るのは簡単だった。
勤め出したバーには、連れ出しのシステムがなく確かに安全だった。それでも酔った客を相手にする仕事は、何も知らないアイリーンにとって苦痛の連続だった。
客の一人に、自分の愛人になれとしつこく迫る日本人がいたけれど、アイリーンはそれを断り続けた。すると、いくら店に通っても自分になびかないアイリーンに苛立った客は、すでにシェラと話がついていると毒づいた。
アイリーンはダイアンやシェラの本性に薄々気付いていたけれど、このことで、いよいよ彼女たちの意図が彼女にはっきりと見えたのだ。彼女は、このままダイアンやシェラの言いなりになってはいけないと気付いた。ダイアンが押さえている一番末の妹、サリーのことも気になった。そんな二人が、愛情を注いでサリーを面倒みてくれるはずがない。
そんなアイリーンに巧みに近づいたのが、ダンという優男だった。ダンは周到に計画を練り、若いアイリーンに近づいてきた。
ダンはバーを出入りする女の子を見張り、騙す女を捜すことから始める。そしてターゲットが決まれば仲間に女を襲わせ、それを助けるという手口で女性に近づくのだ。
予定通りアイリーンが仕事帰りに襲われ、それをダンが助け出した。アイリーンは、母親のエレンから聞かされた両親の出会いのストーリーが、自分の身の上にも起こったと思った。勿論ダンは、そんな話は知らない
ダンはアイリーンに優しく接した。いつも食事をご馳走し、それまで行ったことのないセブのリゾートに連れて行ってくれた。体を求めることもせず、その振る舞いは常に紳士だった。いつしかアイリーンは、自分の身の上話を、ダイアンやシェラのことも含めてダンに相談するようになっていた。
ダンはいつも親身に話を聞いてくれた。そんなダンに、アイリーンは信頼を置くようになった。アイリーンの信用を得たと確信した彼は、いよいよシンガポールの話を持ち出す。
シンガポールのメイドの仕事は、今の仕事よりサラリーが何倍もよく、嫌な目に合うこともない。早くお金を稼いで、出来るだけ早く妹を取り戻すべきだと進言した。渡航に関する手続きや現地の斡旋は、それを仕切る協会に依頼すれば全てうまくいく。
ダンは細かい字で埋め尽くされた書類を持ってきた。それにサインをしたら、シンガポールでの仕事の件は万事うまく事が運ぶと言われ、アイリーンは内容を確認せずにサインした。
それら全てが嘘だったとアイリーンが気付いたのは、シンガポールに到着してからだった。
シンガポールの空港で出迎えがあった。何も疑わず車に乗ると、どこかのオフィスビルの一室に連れ込まれた。突然ガラの悪い連中が現れ、アイリーンは数人の男に無理やり犯された。監禁された状態で、繰り返し複数の男が彼女の前を通り過ぎた。それが一週間も続けられると、アイリーンから思考や抵抗する気力がすっかり奪われた。更に彼女は心に恐怖を植えつけられ、男たちの言いなりになる人形にされてしまった。そうなってからアイリーンは、ゲイランの売春宿へ売り飛ばされたのだ。
アイリーンは売り飛ばされた時点で、やくざな連中の手から離れた。彼女のパスポートを預かったのは、売春宿のオーナーだった。パスポートを奪われ、そこから逃げ出せばギャングがお前を見つけ出し、再び調教をすると脅された。こうしてアイリーンはゲイランの売春宿に、心身ともに縛り付けられてしまった。
売春宿のオーナーがギャングにいくら払ったのか、アイリーンは知らなかった。また、アイリーンの救出が金で片付くものかどうか、和也には判断できなかった。
話を聞いていた浩二の目が、赤らんでいる。
「私が悪かったのかもしれない。一緒にいてあげられたら何とかなっただろうと思うと、本当に無念です」
そう言い出した浩二はハンカチを取り出し、自分の目を抑え込んだ。テーブルの上で作られた彼の握りこぶしが、小刻みに震える。
浩二の異変に気付いた他の客が、浩二と和也の二人をちらちら見始めた。
「沢木さん、あまり自分を責めないで下さい。アイリーンのことは沢木さんがサラさんと結婚をしていても、すぐには気付かなかったかもしれないことです」
「それでも悔しいんです」
「その悔しさは分かります。僕も彼女に何もしてあげられなかったのだから」
シンガポールでアイリーンを見つけた時に、和也はどうにもならない憤りを感じた。実の父親と言われた彼にとっては、その何倍もの苦しみを感じるのだろう。
「済みません」和也は浩二を真っ直ぐ見据えた。「沢木さん、手紙にも書かれていますが、これからどうするかは沢木さん次第です。レイラさんのことも含め、沢木さんがサラさんと話し合って決めてもいいし、この件から一切手を引いても誰も沢木さんを責めません」
「責任とかそのようなことではなく、私は血の分けた自分の子供がそんな奴らの餌食になっていることが我慢ならない。まだ会ったこともない子供でも、話を聞くだけで彼女を騙した人間が憎い。どうにか彼女を救い出したいと心から思います」
「分かりました。僕に手伝えることがあれば協力します。彼女を助ける方法は、現地の弁護士に相談すると良いかもしれません。法的に救済できるか分かりませんが、シンガポールの売春宿は国の管理下にあります。そこから行政筋の圧力に繋げることができれば、効果があるかもしれません。もう一点は、彼女のサインをした契約書が法的根拠を持つかの確認が必要です。おそらく書類は、周到に用意されたものだと思います」
「おっしゃる通りかもしれません。幸いシンガポールでは、ビジネスで世話になった信頼できる弁護士を知っています。まずは彼に相談してみます。とにかく至急動きます。アイリーンには来週会いに行きます。池上さんのお話を聞いて決心しました。アイリーンを必ず助けます」
浩二の言葉が、力強く和也の胸に響いた。
シンガポールから遠く離れた日本で、アイリーンを救出する計画が動き出そうとしている。もちろん本人は知る由もない。
今も、彼女の上を何人もの男が通り過ぎていく。
浩二は急がなければならない焦りを覚えながら、彼女が自分の手の届かない遠い場所へいることに、地団駄を踏みたい程のやるせなさを感じた。
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