アイリーン

秋野大地

第1話 ゲイラン18

 シンガポールという華やかな近代都市の片隅に、ゲイランというエリアがある。高層ビルのない、欲望に飢えた男と金を求める女の集まる場所だ。

 ゲイラン十八ストリートにはそれ用の置屋がずらりと並び、それ以外に、置屋で働くことはできないが身体を売りたいと一目で分かる女たちが道端に並んでいる。

 置屋で働く女性とストリートガールには、リーガルとイリーガルの違いがある。もちろんストリートがイリーガルだ。

 世間には女を買いたい男と男に買われたい女がそれ相応にいて、それなりのビシネスが成立する。リーガルな場所がなければイリーガルなストリートがそのビシネスの中心となる。シンガポール政府はそれを嫌い、衛生管理をした上で置屋をリーガルとして認めているのだ。

 それで小さな国に少しでも危ない病気が蔓延するリスクを回避しようとしている。

 しかし働く女性一人一人までは目が行き届かない。監視の網目をかいくぐり、違法に働かされている女性も中にいる。

 いわゆる人身売買の犠牲者だ。人が人を騙して人を売る。あるいは金欲しさに子供を売る。

 貧困世界では、日本人には想像もできない凄惨せいさんな出来事が実際に横行している。

 彼女もそんな犠牲者の一人だった。


***


 アイリーンは自分の心を空にして、自室でアブリルラヴィーンの歌声に耳を傾けていた。

 心の中は空にしたというより、気付いたら何も残っていなかったというのが正しい言い方かもしれない。彼女の中から色々なものが一方的に垂れ流れ、その代わりに満たされるものは何もない。

 彼女は自由、希望、夢、欲求、感動、人が生きるための原動力を全て失った。生きる場所も限定されている。唐突に彼女へ与えられたものは、たった三畳の小部屋だった。

 彼女にとって、その狭い部屋が全てになった。そこで食事や仕事をし、そして睡眠を取る。単調な生活が繰り返され、今日が何月何日であるかも分からない、あるいは関係のない日々が繰り返され通り過ぎていく。

 狭い小部屋はシングルベッドが占有し、余分なスペースは辛うじて人間二人が立つ程度しかない。そこにカプセルのような、猫の額といって差し支えない小さなシャワールームが組み込まれている。

 くすんでシミの浮いた壁に普段着が数枚掛かり、その横で壁に打ち付けられた小棚の上に、化粧品や小物類がこぼれ落ちそうなくらい溢れている。プラスチックの安っぽいコーナーラックが申し訳なさそうに床隅に置かれ、その一番上に避妊具の入る、蓋のついたオレンジ色の小箱が置かれている。

 その部屋を初めて訪れた客は、そこを客を取るための部屋だと勘違いする。しかし妙な生活感が漂うことから、彼女がそこで生活していることに気付いて驚く。大方初めての客は本当に驚いて、次に判で押したように困惑するのだ。


 ドアがぶっきらぼうに二度ノックされた。

「お客さんだよ、早く用意しな」

 男の声がドア越しに届いた。アイリーンは立ち上がり、ベッドの横壁に張り付いた大鏡に向かい自分の顔を確認する。

 受付けの横に、馴染みの日本人がいた。男は四十前後で、如何にも神経質そうな顔立ちだ。彼は銀縁めがねの奥から表情の読めない細い目をアイリーンに向け、茫然と立っていた。

 クリーム色の綿パンにオレンジの半袖カジュアルシャツを着込み、靴は磨かれた茶色の皮製だ。

 彼はいつでも、その場に不釣り合いなくらい身なりを整えている。そして見た目の几帳面さを裏付けるように、予告した来店日時をいつでもきっちり守る。こんな場所では、信用というものが大切だとでも思っているのだろうか。

 しかし信用されることは悪くなかった。実際にアイリーンは、来店客の指名を受けないよう、自室で彼を待っていたのだ。

 建物は入口からすぐのところに粗末な受付けがあり、そのすぐ右手にガラス張りの十畳程度の部屋があった。その部屋に収まる二段のひな壇に、薄手のネグリジェのようなものを纏った若い女性が、二十人ほど並んで座っている。通称、金魚鉢と呼ばれる部屋だ。

 ひな壇には真っ白なボア布が敷かれ、白色蛍光灯の灯りが白壁とその布に反射している。そのせいで金魚鉢は薄暗い建物の中で、眩しく真っ白に浮き上がっている。

 金魚鉢はいつも神々こうごうしく輝いているのだ。まるでそれは世間から隔離された、この世で唯一の楽園のようだった。

 普段女性たちは、金魚鉢の中で自分の爪を磨いたり何もせずに宙を見つめたり、それぞれ退屈を紛らわしながら勝手なことをしている。

 しかし客が現れると一斉に反応し、その男が既に指名の決まっている常連客であれば、途端にまた自分の世界へ戻る。

 もし客が一見いちげんであれば、指名を勝ち取るための笑顔とポーズを作り自分を売り込む。客がその日の女性を決めるまで、彼女たちは媚を売る。


 馴染み客と向き合ったアイリーンは、本来振りまくべき愛想を横に置き、彼の前で眉毛を上下させてきびすを返した。その間、彼女は無言だ。そしてついて来いと言わんばかりに自分の部屋へと歩き出す。

 眉毛を上下させるのは、彼女が生まれ育ったフィリピンの風習的挨拶だった。尊厳や喜怒哀楽を抜き取られた彼女にも、身体に刷り込まれた風習は消えずに残っている。

 勝手を良く知る客は彼女の不愛想を気にすることもなく、左右に揺れるお尻とその下にすらりと伸びた足を見ながらアイリーンの背中を追いかける。

 受付の男がアイリーンの背中越しに「ウライ、六十分」と声をかけても、彼女はそれを無視し、薄暗い廊下を奥へと進んだ。

 ウライとは、アイリーンがその場所で使っている源治名だ。フィリピン人に慣れないシンガポーリアンの店主は、彼女にタイ人の名を与えた。胸元のネームプレートが示すように、アイリーンはその店に来た日から、ウライに生まれ変わったのだ。

 アイリーンは自室の扉を開け、客を中へと招き入れる。客はしずしずとベッドの端に腰を下ろす。

 アイリーンは扉ノブのすぐ上にあるスライドロックを施錠し、僅かなスペースで自分の衣服を脱ぎ始めた。生まれたての姿になった彼女はベッドに腰掛ける客の前にひざまずき、客の身に付けるものを一つ一つ剥ぎ取っていく。

 全ての動作が無言の中で行われた。この客には会話が一切必要ないことを、アイリーンはよく心得ている。仮にアイリーンが話しかけても、英語をよく理解しない相手が困惑するだけだ。客も無言で、アイリーンの動作を下眼づかいに眺める。

 どこかの客が差し入れてくれたMDコンポから、軽快なアブリルラヴィーンの歌声が流れている。淡いピンクの室内照明と軽快な音楽の組み合わせが、狭い空間に奇妙なみすぼらしさと怪しさをもたらしている。

 彼女は客の最後の下着に手を掛けた。そして空いている右手を上下に振り、立って頂戴と合図を出す。客が立ち上がると、アイリーンは迷うことなく下着をずり下ろす。これで彼も一糸纏わぬ姿になった。

 彼女は臆することなく立ち上がり、客の手を引いてシャワールームに入る。

 全ての動作が、感情の伴わない決まりきったものだ。その場でリードする女性がそうであれば、普通の客なら黙ってそれに従う。性ビジネスにおける密室とは、多分にそのような空気が漂うものだ。

 

 アイリーンの働く店は、シンガポールのゲイラン十八通りにある売春宿だ。通称置屋と呼ばれている。

 国が一部の売春を認めているため、その手の店は堂々と営業できる。

 そのエリアには、同様の置屋が四~五十軒、のきを連ねていた。

 国の営業認可を受けた置屋は政府より個別のナンバーを与えられ、それが店の前の小さな立て看板に示されている。

 そこに並ぶ置屋は、全てが日本でいう小さな商店のような店構えであった。どれもが同一仕様の建売住宅の様に似た建物で、不慣れな人はそのナンバーがないと、どれがどの店か分からなくなる。気に入る女性のいる店が分からなくなれば、一軒一軒店に入って確認する羽目となるから、その番号は有り難い道標みちしるべだった。

 それぞれの店の前では、雇われ男が客引きをしている。店が空いているとき男は、店前に表示される価格より安い金額を持ちかけ、客を巧みに店内へ連れ込む。取り揃えた女性を見るだけ見て欲しいと言い、金魚鉢の前に案内する。

 客が現れると部屋に居並ぶ女性たちは、一斉に愛想笑いを浮かべ自分をアピールする。慣れた人なら、数軒の店にまたがり自分の気に入る女性が見つかるまで品定めを繰り返す。しかし不慣れな人の大半は、店の中に連れ込まれた時点で勝負が決まっている。余程のことがない限り、居並ぶ女性の一人を指名し、受付でお金を払い、指名した女性と一緒に店の奥へと歩を進めることになるのだ。

 それらの店に働く女性には、月に一度の性病検査が義務付けられ、健康であることをドクターに証明してもらわなければならない。その地区の買春宿は、性病を移す危険のない女性が働いていることを前提としている。

 つまりこれは政府による管理売春であり、小さな国に性病の蔓延を防ぐのが目的となっているのだ。もし狭いシンガポールに深刻な性病が蔓延すれば、それは国の根幹に係わる一大事となる。よって国策として、そこで働く女性を厳重に健康管理し、そこでのみ売春を認めるということだった。

 ゲイラン地区では、公式置屋で働けない女性も路上に大勢立っている。それ目当てでエリアに訪れる男を、安い料金でキャッチしようと目論んでのことだ。

 しかし客も馬鹿ではない。そんな女性は、宿で働けない理由を抱えている。加えて話に乗れば違法行為となる。安い分、性病にかかる心配や摘発されるリスクがあるため、その手の女性の話に乗る人は多くない。

 そのエリアで働く女性は、常時三百人から四百人はいる。そのほとんどがタイ人で、アイリーンのようなフィリピン人を見掛けることは珍しい。

 その希少価値のせいか、アイリーンは他の女性に比べて常連客が多かった。噂を聞きつけ、タイ女性に飽きた客が彼女を目当てに訪れ、彼女の魅力にリピーターとなるからだ。

 大きく輪郭の明瞭な瞳を中心とする美貌と、縮れた栗色のショートヘアーが、タイ人と一線を画していたのかもしれない。彼女はいつの間にか本人の望まないところで、知る人ぞ知るゲイランエリアの有名人になっていた。

 彼女は本来の自分と決別するため、その店に来て間もなく、大切にしていたお気に入りの長い黒髪をばっさり切り落とし、ヘアーカラーとパーマを施した。実際そうしてみると、もともと小さな顔がいっそう小ぢんまりと映り、アーモンド形の二重の目が顔の中で存在感を増した。

 鏡に映る生まれ変わった自分を見て、アイリーンはその髪型を気に入った。シンガポールで過ごす間、自分は別人のウライだということを自分自身に言い含める意味で、外観上の変化は彼女の心を少しばかり救った。


 ゲイラン地区で働く女性の多くは、タイから流れてくる。いずれも貧しい家の家計を助けるために、仕方なく体を売る仕事を選択した女性たちだ。

 しかし、家族のためであろうと、自身が納得してその世界に飛び込んだ女性はまだ幸せと言えた。アイリーンは同僚の一人から聞かされた身の上話に衝撃を受け、大いに胸を痛めたことがある。同僚の話は、自分が人身売買の被害者であることの告白だった。しかも、まだ幼い頃に売られたという内容だ。

 タイでは政府の取締りの網をかいくぐり、人身売買が横行していた。バンコクで営業する風俗店の働き手を得るため、人買いが貧しい農村を駆け巡っている。買い付けるのは成人女性だけでなく、四歳、五歳という幼い子供専門のバイヤーもいる。

 子供専門のバイヤーは、何日もかけ車でタイ国内の農村を回り、手ごろな子供を買ってはまた次の村へと移動する。その間お金と交換された子供たちは逃げ出さないよう監視され、ときには検問をすり抜けるためにトランクへ押し込められることもある。

 そうやって親に売られた子供たちは、最低限の食事と飲み水を与えられ、国内を引きずり回された後にバンコクへ辿り着く。子供たちに不意に訪れた旅は過酷で辛いが、その子たちに本当の地獄が訪れるのはそれからだ。

 売られた子供たちは、幼い子供に興奮する、特殊性癖を持つ客の要望に応えなければならない。

 何も知らない子供たちに対して、性サービス従事者としてのトレーニングが実施される。泣きながら抵抗する子供たちは、食事抜きの空腹と体罰に耐えかねて、次第に言うことを聞くようになる。

 当局の摘発を避けるため、子供たちは普段暗い地下室に閉じ込められ、リクエストがあったときだけ客室に通される。そしてもし客に対し粗相があった場合、既に嫌というほど味わっている体罰が彼らを待ち受けている。そのような仕打ちを繰り返し続けられることで、従順な性の奴隷が作り上げられる。

 そんな子供たちが客の部屋に通されると、彼らが普段食べることのできないご馳走を客から振舞われる。いつもお腹を空かし粗末な物しか口にできない子供たちは、そのご馳走で客の要求を何でも受け入れるようになるからだ。それは店側の耳打ちで、そうした方が効果的だということを客が知るからである。

 客の中には夫婦で訪れる者もいて、そのような客は売春宿に到着すると、夫婦別れて違う部屋に入る。そして各々がお気に入りの子供を数人指名し、お腹を満たしてあげた後に性的奉仕をさせる。

 男性客が女の子ばかりを指名するとは限らない。大半の客は性別を入り混ぜた三人ほどの子供を部屋に呼び、快楽を得るための行為を子供に強要する。よってバイヤーが金と交換する子供は、男女を問わない。

 貧しさが我が子を売る行為に繋がり、ビジネスとして目を付ける人間の出現に繋がる。

 それが人間の本性なのだろうか。あるいは貧困が全てを歪ませてしまうのだろうか。

 アイリーンはタイ人女性の話を聞いたとき、苦痛を伴う生理的嫌悪感を抱いた。彼女には、その話に衝撃を受ける理由があったからだ。

 そのようにして、幼い頃から性ビジネスの道具として育てられた子が、年齢を重ね商品価値がないと判断されると、次の風俗店へ売られる。そういったことが繰り返され、同僚はシンガポールの置屋に流れ着いた。

 大人になる過程をそのように過ごした人間は、どこか普通と違っていた。まるで魂が抜け落ちているようなのだ。客のどのような要望にも無感情と無表情で応えることのできる、まるで血の通わない玩具と化している。

 アイリーンはそのような女性と自分を比較し、複雑な心境に陥った。アイリーンは、もしかしたら自分もそんな人間に変わりつつあるのではないか、今まさに、自分が変化の途上にいるのではないかと恐怖を感じた。しかし一方、人間の感情を失った彼女らを可愛そうと思いながら、何も感じない方が幸せかもしれないと思うこともある。

 アイリーンは自分のことを不幸のどん底にいると卑下していたけれど、子供の頃から売買され流れ着いたタイ人を見れば、複雑な心境を自分の中でどう処理すべきか分からなくなった。そんな人に比べ、自分は少しましな部類かもしれない気がするのだ。

 一方で、自分が受けた心の傷も小さくはない。そしてどんなに自分が少しはましだと考えても、汚れた仕事をしなければならない現実は何一つ変わらない。

 結局は、余計な考えが自分の精神を消耗させる。彼女はそのことに嫌気がさし、次第に考えることを放棄するようになった。そして同時に、感情を抜かれた人間になることへ恐怖を感じる。その手の葛藤を抱えながら、彼女は一人部屋の中で、いつもいたたまれない気持ちを抑えきれなくなる。

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