第10話 救出

 弁護士のサイモンは浩二から依頼を受けた日の夜、さっそく情報屋のウェンという男に接触した。そして彼から、アイリーンが働いている売春宿の実態や、そこの主人とマフィアとの関わり具合を聞き出した。

 ウェンは裏社会に精通している情報屋で、百シンガポールドルを握らせるだけで情報を提供してくれる。以前にも何度か、サイモンは仕事のために彼と接触したことがあった。

 彼とは電話連絡ができない。彼と会うためには、彼が溜まり場としているバーに行き直接ウェンをつかまえるしかないのだ。

 サイモンは、街外れのバーに出向いた。安バーで、昔から労働者風の客が多いところだ。そのような場所には、不思議と不法と名の付くものが集まる。不法滞在者、不法潜入者(密入国)、不法物品(密輸品)、不法ドラッグ、そして不法者の情報。薄暗い店内に汗とたばことアルコールの入り混じった、すえた臭いが立ち込める。まさに不法という言葉が似合う場所だった。

 ウェンはカウンターにいた。ポロシャツに黒いスラックスと、先のとがった革靴を履いている。短く刈り上げた髪といかつい服装、そして人を威嚇する細く鋭い目が、彼が堅気の人間ではないことを物語っていた。

 サイモンはウェンの隣に無言で座り、ウィスキーを二つ注文した。ウィスキーが出てくると、サイモンはグラスを一つウェンの前に滑らせ、久しぶりと声を掛ける。ウェンは小さく頭を回しサイモンを見て、無視するように顔をカウンターの正面に戻した。サイモンはお構いなしに、今度は売春宿のナンバーを書いたメモと百シンガポールドルを、ウェンの前に滑り込ませる。

「このゲイランの宿と付き合いのある組織を教えて欲しい。それにどの程度の付き合いかもだ。ついでにこの宿のオーナーがどんな人間かも教えてくれ」

「おいおい、そんなに欲張るなよ」

 ウェンにそう言われて、サイモンはもう一枚の百シンガポールドルを彼の前に滑らせ、少しあんたの独り言を聞きたいだけだと言った。

 ウェンは辺りに聞こえる舌打ちをし、携帯で電話を掛けると同時にバーの外へと姿を消した。組織絡みの話には、情報屋も慎重になるのだ。

 十分後、ウェンが戻ってきた。

「面倒を見ている組織は、リーという男が仕切っている香港マフィアの末端だ。出張組みだから大して大きくない。ここではゲイラン地区でしか活動をしていないようだ。売春宿のオーナーはハンという中国人だ。調子のいいケチな野郎だそうだ。あの界隈のオーナーはどれも似たりよったりだろうがな。ハンは売春宿の他にレストランを二~三件持っているらしい。リーとハンの関係はよく知らないが、リーはゲイランで顔が広い。リーは単にハンの用心棒をしているだけだろう。ハンは堅気の人間だからな」

 サイモンはウェンから、ゲイランの売春宿の実態を更に聞き出した。ゲイランの各売春宿はそれぞれが、働く女性を確保するためのルートを持っている。そのほとんどが、タイ国のプロモーターとの繋がりによるものだ。プロモーターは売春宿に、写真とプロフィールを記載したペーパーで女性を定期的に紹介し、宿が必要に応じて具体的な斡旋をお願いする。その際プロモーターは、売春宿から紹介料を取らない。プロモーターは紹介する女性から、斡旋手数料や渡航費を数十万円単位で受け取るからだ。しかしそれは借金という形を取り、女性は実際に働きだしてから返済することになる。この費用を売春宿が一括で立替え、売春宿は女性の月々の給料から立て替え分を月賦返済として天引きする。売春宿は借金を肩代わりしているので、女性からパスポートを取り上げ、借金の支払いが終わるまでその身柄を管理する。借金の形を取れば、事実上女性の身柄を拘束できることが売春宿の利点ということだ。

 この基本的な仕組みが機能しているため、本来売春宿はそれ以外の危ないルートに女性を求める必要はない。しかし売春宿も風俗商売という性格上、日本の水商売と同様マフィアにみかじめ料を支払い繋がっている。それがある為に、時にはマフィアの顔を立て彼らの連れてくる女性を高額で引き取るのだ。アイリーンはその一人だった。

 プロモーターから斡旋される女性とマフィアが連れてくる女性の違いは、契約書にあった。プロモーター経由の女性は元々働いてお金を稼ぐのが目的のため、給料に関する取り決めがきちんとしている。しかしマフィアが連れてくる女性にはそれがない。結局給料は売春宿が決めた金額でよく、人によっては払われない。売春宿がマフィアに支払う金額は女性にとって借金という形にしながら、その詳しい内容は当人に明かさないのだ。よって売春宿は、女性が何年働いてもまだ借金が残っていると言うことができる。つまり女性は買取り扱いとなっているため、その女性をどう扱おうと、それはオーナーの勝手ということだ。事実上、これは立派な人身売買だった。

 このようなケースでは、売春宿からマフィアに一人当たり二万プラスシンガポールドル(約百五十万円)のお金が動く。しかしもし女性に何かが起こっても、売春宿はマフィアに金銭を請求することはできない。何も保証はないけれど、女性が長く働けばそれだけ利益を生み出す。よって、ハイリスク、ハイリターンケースということになる。つまりプロモーター経由の女性は元を取るまで厳しく管理されるが、マフィアルートの女性は元が取れてからも、それが大きく変わらずに続くということだ。

「マフィアが連れてくる女性のビザはどうなっている?」

「女たちには特殊就労者ビザが必要になる。奴らだって馬鹿じゃないさ、彼女たち自身が知らないうちに、きちんとそれを取らされているよ。働く目的で渡航するならどっちにしても就労ビザが必要になる。それが一般なのか特殊なのか、手続きをする中で彼女たちの大半は気付かない」

「それじゃ政府への届出も、正規のものということになるのか?」

「おそらくそうなっているだろう。きちんと実名で届出をしているはずだ。政府公認とは怖い病気が広がるのを恐れて、あの地区に絞って特別に管理しているということさ。きちんと衛生管理や病気のチェックをする代わりに許可する。路上の立ちんぼが時々摘発されるだろう? 最近ゲイラン地区には路上に監視カメラが増えたらしい。それだけ政府も監視体制を厳しくしているのさ。だから書類もきちんとしているはずだ」

 さすがにつけこめそうな穴は、簡単に見つからない。やはり行政筋をうまく動かし、金で決着をつけるしかないのだろうか。ハンは金さえ戻れば大騒ぎをすることはないだろう。あとは如何に値切るかである。彼の唯一の弱みは、実質彼女を金で買っているという点だ。突破口はそれだろう。その弱みを使い、営業停止をほのめかせばハンも折れるに違いない。とにかくハンを、無理やりにでも納得させる必要がある。マフィアを絡めないためには、ハンを落とさなければだめだ。ざわめくバーの中で、サイモンはグラスを片手に思案を巡らせた。

 サイモンは翌日から、具体的に動き出した。期限は一週間だ。

 手始めにサイモンは浩二に電話をし、前夜の話をかいつまんで説明した。売春宿のハンは、おそらく日本円にして百五十万円をマフィアに支払っている。最悪のケースではハンに百五十万円~二百万円を支払うことになるが、それでもよいかを浩二に確認しかったのだ。浩二はそれをすぐに了承した。勿論サイモンは、お金を支払わずに解決する方法を模索している。しかし話を切り出してアイリーンを引き取れなければ、彼女の立場が悪くなる。最悪は金を積んで、強引に連れ出すケースも想定しなければならない。サイモンは、そのことを浩二に説明して了承してもらうのが先だと判断したのだ。

 サイモンはそれから三日間、精力的に動き回った。必要な措置に詳しい弁護士仲間にも相談をし、それぞれ適任者を紹介してもらった。

 浩二はその間、毎日アイリーンに会いに行った。昼過ぎに宿へ出向き、ヤンにお金を握らせアイリーンを外に連れ出す。そして彼女と食事をしながら会話を楽しむ。ヤンは連日金が入るので、オーナーには内緒で浩二の連れ出しを歓迎していた。ヤンはアイリーンが外に行っても問題が起こらないことに慣らされ、安心しきっていたのだ。本来浩二はアイリーンの営業時間全てを買取りたかったけれど、あまりに目立つ行為はオーナーの目に止まるので諦めた。

 サイモンは随時浩二に連絡を取り、必要な情報をアイリーンから聞き出すように依頼した。

 その一つは、アイリーンの給料のことである。確認すると、アイリーンは宿から給料をもらっていないことが分かった。宿に大きな借金があり、その返済と部屋代や食事代を給料から差っ引き、しばらくは支払うべきお金がないと言われているようだ。アイリーンも早く自由になりたいために、働いた分は借金の返済に充てられると聞いて了承していた。

 彼女は、がんばって働けば借金は二年で無くなると教え込まれ、それを信じていた。しかし月々いくらの月給でいくら返済に充てられるという詳細を、アイリーンは全く知らされていない。彼女が普段自由にできるお金は、客からもらうチップだけだ。そのチップでアイリーンは、生活で必要なものを買っていた。

 もう一点は働き始める際に、何かの書類にサインをしたかということだった。アイリーンは数種類の書類に自分の本名でサインしたようだ。しかし本人は、何の書類かを全く知らずにサインしている。ただ単に、働くための届出だという説明を受けたにすぎなかった。

 こうして四日目に準備が整い、サイモンは浩二に、翌日ハンに話を付けることを電話で告げた。詳しい話をするために、二人は夕食を共にする約束をした。ハンに話を付けた後はアイリーンを連れ帰るので、ホテルの部屋を用意することも指示される。浩二は直ぐに、自分の宿泊するホテルに部屋の予約を入れた。

 いよいよ娘を取り戻すための決戦だ。浩二の心が引き締まる。緊張もしていた。しかし彼女を取り戻した後のことを考えれば、気持ちは浮き立つ。

 浩二は日本にいる池上に電話を入れ、事の経過を報告した。アイリーンとはうまくコミュニケーションが取れていることも報告した。興奮気味の浩二は、久しぶりの日本語の会話に舌も滑らかになり、池上が仕事中にも関わらず思わず長電話となる。

「沢木さん、うまくいくといいですね」

「きっとうまくいきますよ。いや、必ずアイリーンを取り戻します」

「心から、成功を祈っていますよ」

「ありがとうございます。これも池上さんのおかげです。僕は今回の件で、あらためて人の繋がりの大切さが身に染みました」

「いや、僕は何もしていませんよ。全ては沢木さんの想いが成したことですから。とにかく明日が正念場なわけですよね。がんばってください」

 日本にいる池上も、事の運び具合を喜んでくれた。彼は今回の計画において、事前の段取りをしてくれた。フィリピンのサラに浩二の会社の住所を連絡し、アイリーンの所在を確認し、そして新宿のコーヒーショップで事態の詳細を浩二に教えてくれた。それから、事が大きく動き出したのだ。

 自分に娘がいることを知り、その時は漠然とした不思議な感覚を持つだけだったけれど、ここ数日間その娘と会い、浩二の心は大きく変化した。アイリーンのことを我が身の事のように思い、彼女の心が痛ければ自分の心も痛む。浩二はいつの間にか、本物の父親になっているのだ。それが浩二は不思議だった。

 アイリーンが、サラと自分の間にできた子供だからそうなるのだろうか。そんなことは無関係に、これは単なる血の繋がりが成す技なのか。浩二にはさっぱり分からなかった。

 夜になって、浩二はオーチャードのレストランでサイモンに会った。日本のファミリーレストランのような、普段着の似合うざわついた店だった。店内は、家族連れやカップルで七割ほどのテーブルが埋まっている。そこで浩二は、翌日の予定をサイモンから聞いた。

「明日はいつも通り、昼頃娘さんに会いに行き外に連れ出して下さい。そしてこのレストランに二人で来てもらいます。我々もここに合流します。私はそこで、娘さんに今回の件の説明と少々聞き取りをするつもりです。それから宿のオーナーのハンを呼びつけ話しをつけます。その時あなたと娘さんは、別テーブルで我々の話を聞いて欲しい。店の外で待ってもらっても結構ですが、一緒に話を聞いてもらった方が、後々お二人が安心できると思います」

 レストラン店内にL字になっている箇所があり、その奥まったテーブルは手前のテーブルから死角となっている。ハンと話をしている間、浩二とアイリーンは死角となるテーブルで、ハンとの話し合いを聞くことにした。

 話はプライベートな話題を含む内容になる。サイモンによれば、静かなところよりもこのような場所の方がプライバシーも保てるとのことだった。サイモンは客室の構造や雰囲気など、様々なことを考慮し、そのレストランを協議の場所に決めたのだ。

 ハンには行政筋の圧力で臨むことにした。アイリーンに関する届出書類が完璧に用意されていることを、サイモンは確認済みだった。よって正攻法で落とすのは簡単ではないというのがサイモンの見通しだ。裁判という手もあるけれど、時間がかかり、かつ勝利できる保証もない。相手も告訴を想定し、最初から落とし穴がないように関係書類を準備している。アイリーンを騙し、各書類を偽造し彼女を無理矢理働かせたという客観的証拠を裁判で揃えることは、非常に困難だろうとサイモンは予測していた。

 しかしネゴシエーションの世界であれば事情が異なる。少々強引であっても、個人のネゴシエーションにはイリーガルな手段が通用する。サイモンはそこに賭けて準備を進めてきたのだ。

 翌朝浩二は、早朝から目が覚めた。部屋のカーテンを開けると、青空が広がり暑くなりそうな気配だった。シンガポールへ来てから一週間、雨は一度も降っていない。

 いよいよ運命の決戦日だ。果たしてうまくアイリーンを助け出すことができるのだろうか。浩二の胸に、拭いきれない不安の小片がある。彼は、最悪の事態に備え、何か保険を用意しておくべきだったかもしれないと思い始めた。思いつくものはどんなことでも万全を期して臨みたかったけれど、いざそれが何かと考えると、浩二には保険となるべき作戦のアイディアが思いつかなかった。

 軽く朝食を済ませた浩二は、午前中にシティーバンクで二万シンガポールドル(約百六十万円)を用意し、それを鞄に入れゲイランのアイリーンの元へ向かった。

 いつものように浩二が宿に顔を出すと、ヤンがにこやかな顔で、やーと手を上げる。ここ数日間、二人で外出をしても何事もないため、ヤンは浩二に対してすっかり気を許していた。アイリーンが二度とこの場所へ戻ることがないなど、露ほども疑っていない。

 アイリーンも同様、その日に何があるのか知らされていなかった。

 浩二はいつものように財布から二百シンガポールドルを抜き取り、それをヤンに渡した。ヤンは浩二にへつらうように愛想笑いを浮かべる。

 そこへアイリーンがTシャツとジーンズ姿で現れた。ヤンはアイリーンに携帯を渡すけれど、今では注意事項をすっとばし、単に手渡すだけだ。アイリーンも無言で受け取り、無造作にジーンズの後ろポケットへそれを突っ込む。

 外へ出てから、浩二はアイリーンに小声で言った。

「君は今日、ここに戻らないかもしれない。あとで詳しい話をするから、もし部屋の中に大切な物があるなら取ってきなさい。ただし持ち出すものは最低限にして欲しい」

 アイリーンはその言葉で、何かを察知した。彼女は一瞬固まり、ヤンに気取られる前に動作を再開した。

 彼女は部屋から、小さなノートを一つだけ持って出てきた。

「私の大切な物はこれだけ」

 そう言ってノートを広げると、そこには彼女の家族の写真が数枚挟まれている。

 浩二は歩きながらアイリーンに言った。

「詳しい話は後でする。とにかく今は、早くこの場を立ち去ろう。今日はいつものレストランではなく、オーチャードのレストランに行く。少し先にタクシーを待たせてある」

 二人は無事にタクシーに乗り込み、ゲイランを後にした。

 タクシーの中で浩二は、携帯の電源を切るようにとアイリーンに言ったきり、無言になった。浩二を信頼しているアイリーンは、黙って彼に従う。いつもと様子が違うことは明らかだけれど、浩二が後で説明をすると言うならそれまで待てばいい。

 オーチャードまで、タクシーで十五分ほどかかった。予定のレストランに入った二人は、浩二とサイモンが最初に決めていた奥のテーブルに座る。食事を注文し、少し落ち着いてから浩二が説明を始めた。

「突然のことで驚いたかい? 君には何も話していなかったから無理もないけれど、今日から君は自由になる予定だ。これから、僕が依頼した弁護士がここに来る。彼が詳しい話をするが、後でハンもここへやって来る」

「ボスが?」

 アイリーンの顔に、不安の色が浮かんだ。

「心配しなくていい。弁護士とハンはここが見えない手前のテーブルで話をする。僕と君はその話し合いの様子をここで聞いていればいい。弁護士は君をあの場所から助け出すための話をする。そこでハンの合意を取れたら君のパスポートを取り返し、君は晴れて自由の身となる。もし合意を得られなくても、僕は君をあの場所へ帰すつもりはない。その時には君を一旦ホテルにかくまい、次の作戦を考えようと思っている」

 アイリーンはまだ事態を飲み込めず、言葉が出てこない。それまで屈辱に耐えるため、必死で自分を押し殺してきたのだ。それが突然自由の身になると言われても、彼女に実感が湧かないのは当然だった。

「実は君をあそこから解放するために、この一週間、弁護士のサイモンと準備を進めてきた。そしてようやくその準備が終わった。だから今日、ハンと話をするというわけだ」

「それがうまくいったら、私は自由になれるということ?」

「その通りだ。僕が君をフィリピンへ連れて帰るつもりだ」

 フィリピンへ帰るという言葉で、アイリーンはようやく状況を把握し始めた。つまり本当の意味で、あの場所から解放してくれるということだ。

 そこへ弁護士のサイモンが、見知らぬ男と一緒にやってきた。サイモンの連れはポロシャツにスラックスと革靴を履いた体格の良い男で、生真面目そうなどこかの重役という雰囲気を匂わせている。サイモンが彼を浩二に紹介してくれた。

「彼は衛生局局長のディックです。今回の件で協力して頂きました」

 浩二はディックと握手を交わし、彼とサイモンにアイリーンを紹介した。突然見知らぬ男に囲まれたアイリーンの顔が、緊張で強張る。

 席に着くなり、早速サイモンが切り出した。

「アイリーン、およその話は沢木さんから聞いていると思うが、君にいくつか確認をしておきたいことがある。会話は録音させてもらうけれど、いいかい?」

 アイリーンは、こくりと頷いた。

「これから君を救い出すだめにハンと話をするが、君はそれを望んでいるかい?」

「はい、もちろん望んでいます」

「君はあの場所で働くために、自ら望んでシンガポールへ来たのかい?」

「いいえ、最初はメイドの仕事をするということでこの国へ来ました。私は騙されたんです」

 サイモンとディックは顔を見合わせ、一緒に頷いた。

「君はハンから、毎月給料をもらっていましたか?」

「いいえ、私には大きな借金があり、それをボスが肩代わりしたから、給料は全てその返済に充てられると言われました。だから給料は全くもらっていません。でも私は借金なんてしていません。ただ……」

 アイリーンの言葉が途切れた。

「ただ、なんだい? 正直に話してごらん」

「私が借金をしたという書類があって、それに私のサインがあるんです。私、何も知らず、フィリピンでそれにサインしました。シンガポールで働くための手続きに必要だと言われたんです」

「それはいつのことかな?」

「フィリピンでサインをしたのは八カ月前です」

「そしてシンガポールに来たのはいつのことだい?」

「ここへ来たのは半年前です」

「すると君はあの場所で、約半年間働いたということになるけれど、間違いはないかい?」

「ええ、大体そのくらいになると思います」

「少し嫌な質問だけれど、これは大切なことだから教えて欲しい。君はあの場所で、一日何人の客がいたかな?」

 アイリーンは答えに躊躇し浩二を見たが、浩二が黙って頷いた。

「少ない時でも一日三人いました。多い時で八人くらいの客がいたと思います」

 彼女はサイモンの目をまっすぐ見据えて、はっきりと答えた。

「それが半年間続いたわけですか?」

 アイリーンは「はい」と答えて頷いた。

「つらい質問に答えてくれてありがとう。質問はこれで全てです」

 サイモンはアイリーンにそう言いながら、レコーダーのスイッチを切った。そして浩二の方を向いて言った。

「あなたが話していたように、彼女は芯のある子だ。毅然としっかり話ができる。これだったら何があっても大丈夫です。これからハンに電話を入れます。彼が来てもあなたは彼女と一緒にここにいて下さい。ハンにアイリーンの姿を見せないように気を付けて下さい」

 そう言って、サイモンはメモを見ながら自分の携帯のダイヤルを押し始める。

 ハンに電話が繋がった。

「私は弁護士のサイモンといいます。衛生局の依頼でゲイランエリアの商売について実態調査をしているのですが、そのことでお話があります。いやいや、あのエリアでビジネスをしている全員にお話を伺っているのです。それでご足労ですが、これからオーチャードのデイトンというレストランに来てもらえませんか。そこで簡単な聞き取りをしたいのです。形式的なお話ですのでお手間はとらせません。お茶くらいはご馳走しますから」

 サイモンはハンに余計な疑いを持たせぬよう、できるだけ和やかに話した。

「ええ、分かりました。それではお待ちしております」

 電話を切ったサイモンは、浩二とアイリーンに向かって言った。

「ハンは三十分後にここに来るそうです。我々は向こうの席に移動しますから」

 彼はそう言った後、アイリーンに「トイレは今のうちに行っておいて下さいね」と、彼女の緊張をほぐすように柔らかい口調で声を掛けた。

 浩二は現金が入った鞄を、サイモンに手渡す。彼は中をちらりと確認し、お預かりしますと言いいディックと一緒に席を移動した。

 いよいよ正念場だ。浩二の中にも緊張が走る。顔や背中が少し汗ばむ。口の中も渇いていた。浩二がコーヒーを口に運んだその時、アイリーンが口を開いた。

「沢木さん、私少し驚いているの。確かにあなたは私を支えてくれると約束をしてくれた。でも、ここまでやってくれるなんて想像もしていなかった。なぜなの? あなたの恋人だったサラさんがリンさんの知り合いだから? それだけの理由で、他人のあなたがこれだけのお金と時間を使うのを私は理解できない。だから正直に言うと、少し不安なの」

「君を助ける理由は他にもある。しかしそれは君が晴れて自由になり、フィリピンへ帰ってから話をしよう。必ず君が納得する答えを用意する。約束するよ。今はとにかく、あそこから抜け出すことだけを考えていればいい」

「私は本当にフィリピンへ帰ることができるの?」

「大丈夫だ。僕は途中で君を見捨てたりしない。君をフィリピンへ帰すまで、僕は日本へ戻らないつもりだから」

「分かった。最後まであなたを信じたらいいのね」

「その通りだ」

 アイリーンは一度、見せ掛けの優しさに騙され痛い目にあっている。彼女は他人に想像できないほどの深い傷を負い、更に傷口に塩を塗るような仕打ちを受けてきた。人を簡単に信じてしまった代償は、あまりにも大きかったのだ。そのトラウマが、時折アイリーンの中で頭をもたげる。

 浩二はジュースを飲む彼女のあどけない顔を見て、純粋で小さな彼女の心に傷をつけた連中を、心から憎いと思った。無事にアイリーンを救い出しても、彼女の傷はしばらく残るだろう。そこから立ち直らせるために、彼女には大きな愛が必要となることを浩二は痛感するのだ。

 ハンの「あなたがサイモンさんですか?」と言うだみ声が聞こえた。約束通り、ハンがやって来たようだ。浩二とアイリーンは体を堅くし、彼らの会話に耳をそばだてる。

 サイモンはディックを、敢えて役職を省き、単に衛生局の人間だと紹介した。ハンもお上には逆らえない。ハンの下手に出ている様子が声の調子で分かった。

 三人はしばらく、景気やハンのビジネスの話、サイモンが最近関わった事件の話など、本題と関係ない世間話で和気藹々としていた。笑い声さえ聞こえてくるほど、場はリラックスしている。

 平日の昼下がり、店内はビジネスマンやOLが点在しているけれど、ある程度の静けさを保っていた。その中で、ハンの大きなしゃがれ声が響き渡る。ハンは話しの節々でディックを必要以上に持ち上げた。その話し方や笑い方全てが、下種な人種の臭いを感じさせるものだ。彼だけが店の中で、周囲とまるで違う雰囲気を放っているように、浩二には思えた。

 話に一区切り付いたところで、ディックが口火を切った。これは最初からサイモンとディックの打ち合わせ通りだった。ディックから話を出すことで、その後のサイモンの話しに衛生局の後ろ盾があることを、ハンに知らしめる狙いがあった。

「さて、あなたも忙しいでしょうからそろそろ本題に入ります。ゲイランの実態調査というのは、違法労働者のことなのです。最近は路上でも個人的に違法な客引きをしている者が多く、あなたもご存知のように我々はそんな彼女たちの摘発に力を入れている。それに加えて政府の認可を受けて商売をしているあなた方の中に、違法労働者を働かせている者がいるという噂を聞きましてね。それでまずはこうやって聞き取りをしてみようということになったわけですよ」

 それまでよりトーンを落とした声に、ハンの大きな笑い声も途絶えた。

「私の店では違法労働者など雇っていませんよ。それは政府の役人が一番良く知っていることです。それに聞き取り調査をするのに、なぜ弁護士が一緒なのですか?」

 如何にもサイモンを邪魔者扱いするような調子でハンが言った。

「それに関しては、私からお答えしましょう」サイモンが説明を始める。「実は違法労働者というのも二種類ありまして、今私が調査の対象としているのは正確に言うと、違法に集められた労働者のことなのです。私の所へある告発がありまして、それで色々と調査をしながらディックさんに相談をしたところ、政府としてもそれは容認できないということになり、改めて衛生局から私に調査依頼が出されました。そのような経緯で、本日私が聞き取り調査をしています」

 ハンの顔から一瞬余笑みが消えたけれど、彼はすぐに気を取り直す。

「その手の労働者はうちにいませんよ。うちは基本的にプロモーターの紹介で、きちんと契約を結んだ人間しか働いていない」

「基本的に……と言いますと、全てではない、ということですか?」

 サイモンは意識的に冷静な口調で、ハンに質問を投げ掛けた。

「ええ、稀にプロモーターではなく、個人的なツテで紹介を受ける場合があります。しかしそのケースでも、きちんと本人の同意を得て契約を結び、政府の許可を得て雇っていますよ」

 ハンも込み入った話題になると声を低く落とすけれど、その態度と口調にはまだ余裕が感じられた。

「個人的なツテと言いますと、それは具体的にどのようなツテなのでしょう?」

 サイモンの言い方は穏やかで、相手の油断を誘うように遠回しながらも、確実に相手へプレッシャーを与えるものだった。

「それは知人、友人の類です。生活が苦しくて割りのいい仕事を探している女性はどこにでもいますから。働かせて欲しいという女性は、様々なコネを使ってどこからでも来るものですよ」

「その知人の名前を、具体的に教えて頂けませんか?」

「そんなことを言う必要はないでしょう。あなたにそれを教える理由はないと思いますが」

 ハンはサイモンに対して、相変わらず横柄さを感じさせる物言いだった。相手の役職や立場で口調を変えるハンは、成上がり者の典型だ。サイモンは構わず、一貫した口調でハンに問い続けた。

「それでは私の方からお尋ねします。あなたへ女性を紹介する人間に、リーという男性はいませんか?」

 この時ハンの目が一瞬泳いだのを、サイモンとディックは見逃さなかった。リーの名前にハンが動揺したのは明らかだった。

 それまで背もたれにふんぞり返り身構えていたハンは、突然体を前に出し、自分の目の前に置かれたコーヒーカップを口元へ運んだ。彼はコーヒーを飲みながら、次の言葉を考えているようだ。サイモンとディックはそんなハンから目を逸らさず、二人の鋭い視線の中で、ハンは苦し紛れに言った。

「リーという男は色々いるから、もしかしたらそんな人から紹介を受けたこともあったかもしれませんな」

 リーの名前が出たことで、ハンはこの呼び出しが、ただの一般的な聞き取り調査ではないことに気付き始めた。

「あなたは先ほど、稀に個人的な紹介を受けると言いました。稀に……というのは、ほとんどないがたまにそんなこともある、という意味だと理解したのですが、あなたはそのたまにしかないことを覚えていないのですか?」

「私はレストランも経営している関係で、毎日色々な人間と会うものですから、少し混乱しているようです」

 ハンは少し考える振りをしてから、突然思い出したように言った。

「あー、思い出しました。確かにリーという男から女性の紹介を受けたことがあります」

 ハンはリーとの関係を認め出した。ハンの態度と口調に、先ほどまでの横柄さが消えていた。

「では少し、そのリーさんのことについてお尋ねしたいのですが、まず、あなたとリーさんはどのようなご関係でしょうか」

「彼は知人の一人で、私のビジネスについて時々相談をする人です」

「彼は普段、何をしている人ですか?」

「私も詳しくは知らないが、手広くビジネスを展開していると聞いています。彼はビジネス上の知識が豊富で広い人脈を持つ人間なので、たまに相談することがあるんですよ」

「ではそのリーさんから、これまで何人の女性の紹介を受けましたか?」

 サイモンの質問が、じわりと確信に迫っていく。

「私の覚えている限りでは、二人か三人だったと思います」

「リーさんから紹介を受けた人で、現在働いている人はいますか?」

「みんな、辞めてしまったと記憶していますが」

 少し間をあけて、サイモンが「全員ですか?」と、もう一度確認した。

 サイモンはハンがはぐらかそうとする部分にきちんと焦点をあて、再確認をすることで彼を追い込もうとしている。ハンが答えに躊躇している間に、サイモンは続けた。

「私の調査結果では、リーさんの紹介者の中で少なくとも一人は、現在あなたの店で働いているはずですが」

「それは誰ですか?」

 ハンがとぼけて、サイモンに逆質問を投げた。それに対してサイモンは、アイリーンという名のフィリピン人女性ですと、きっぱり答えた。

 その時、陰で話を聞くアイリーンの肩が一瞬小さく震えた。同時にサイモンと向き合うハンの動きも、口が半開き状態で止まっていた。その顔に、凍り付いた表情が張り付いている。ハンは明らかに動揺していた。数秒後、半開きだったハンの口が動いた。

「細かい内容は店の者に任せているので明確に覚えていませんが、そうだったかもしれない……」

 そこへディックが鞄から大きな封筒を取り出し、そこから一枚の書類を引き抜いた。それはハンが役所に出した、アイリーンの従業員登録書だった。アイリーンの本名が記され、書類の左上に彼女の写真が貼り付けられている。それをハンの前に差し出し、今度はディックが話を始めた。

「これはそのアイリーンという女性の届出書類です。ここにあなたのサインが入っているので間違いないはずです。この書類によると、彼女はプロモーターからの紹介ということになっています。それが間違いであれば、今ここできちんと訂正していただく必要がありますが、如何しますか?」

「あー、この件ですね。書類を見て思い出しました。これはあなたの局で課長をしているジミーさんの了解を取っていますよ。内容に問題は無いので、記録上はプロモーターの紹介ということにしておきましょうというのが、彼の見解だったはずです」

「そのジミーをここに呼んでいます。彼はすぐに来ると思います。ただし今のあなたの話しですと、やはり虚偽の記載をしていたということになりますね」

 ディックは話をしながら、そろそろそのジミーがやって来る頃だと自分の腕時計に目を落とした。ハンはジミーがその場所へやって来ると聞いて、彼がディックと同じ職場の役職者として、その場を丸く収めてくれることを期待した。

「だからそれはジミーさんが……」

 ハンが半ばふて腐れたところに、予定通りジミーがやって来た。サイモンとディックは、全てのタイミングを図りながらハンを誘導していた。

 ジミーは入り口の方を向くハンに近づきながら、「やあハンさん、伝言を頂いたんですが、どうしたんですか?」と言いながら、背中を見せていたディックに気付くなり、「ボス!」と驚きの声を上げた。ハンも、ジミーがディックをボスと呼んだことに驚いた。

 サイモンが説明した。

「伝えていませんでしたかな? ディックが衛生局の局長だということを」

 ジミーの課長職をちらつかせてその場をうまく切り抜けようと考えていたハンにとり、今対峙している相手がジミーの上長である局長なら、ジミーを引き合いに出したことは逆効果だ。局長は課長にとっても、雲の上の存在だ。この時始めて、本当の意味でハンに焦りが生まれた。目の前にいるディックはハンの売春宿だけでなく、レストランさえも営業停止にできる権限を持つ大物なのだ。

「ジミー、そこへ座って下さい。今ハンさんの店の届出書類を確認している最中です。君が担当した書類なので、ここへ来てもらいました」

 ジミーは座りながら、手に取ったその書類を見つめた。ディックが不気味なほど穏やかに、ジミーに話し始めた。

「君が今見ている書類ですが、彼女の紹介ルートのところで事実と相違があるようです。ここにいるハンさんは、君にそのように記載することを勧められたと話しているのですが、そうなのですか?」

「い、いや、私は決して虚偽の記載を勧めることはしませんよ。それはハンさんの勘違いではないですか? 私が指導するのは、あくまでも事実に基づいた書き方のことだけであって、事実を捻じ曲げるようなことは……」

 ハンは一瞬何かを言いたそうにジミーを睨んだあと、喉から出掛けた言葉を飲み込んだ。実はサイモンとディックは、ジミーがハンから小遣いをもらっていることを事前に掴んでいた。しかしハンはその場で、贈賄と言われかねないその事実を暴露することができない。

「さて、ハンさん、これで虚偽記載の事実が明らかになってきましたが、どうしますか? ここで事実訂正をしますか?」

 下を向いて黙り込んでしまったジミーを横目に、ハンがディックに迫るように言い放った。

「ディックさん、虚偽記載というのは少し聞こえが悪い。確かに内容は違うかもしれないが、これは単なる間違いで、意図的に書類を改竄したわけではありません。そのようなことは絶対にありませんので、どうかそんな言い方はしないで下さい。書類は見直し改めて提出しますから」

 ハンは汗をかきながら愛想笑いを浮かべ、つい数分前の「ジミーの了解をもらった」という話を「間違い」という形にすり替えた。

 デッィクはそんなハンを無視し、ジミーに切り込む。

「あなたは、この女性の紹介者がリーという人物だという事実を知っていましたか? この件はあとで徹底的に掘り下げて調査をするつもりがある。もしあとになりあなたの嘘が分かれば、あなたに相当重い処分が適用されるが、今なら私の胸にしまっておくことも可能です。だから正直に話して下さい」

 ジミーは一分近く下を向いて黙り込んでしまったけれど、観念したように青ざめた顔を上げ話し出した。

「ボス、申し訳ありません。私はその事実を知っていました」

 この言葉には、さすがのハンも目をむいた。ハンはあからさまにジミーを睨みつけたけれど、ジミーは構わず続けた。

「その女性の紹介者は、リーというマフィアの末端です。そのために紹介ルートを既存のプロモーターということに改竄しました。そんな人物から紹介された女性を承認した記録が残っては、後々面倒なことになるかもしれないと危惧しました」

「ジミーさん、なぜ突然そんなことを言い出すのですか? 私とあなたの関係を忘れたのですか?」

 ハンが顔を上気させ、お前は金を受け取ったじゃないかという含みをもたせてジミーに訴えたけれど、ジミーはもはやハンを相手にしていなかった。サイモンがジミーに確認をした。

「なぜ、後々面倒なことになるかもしれないと思ったのですか?」

 ジミーはサイモンを見てからディックに視線を移し、部外者の彼に全て話してもいいものかを無言で確認した。ディックはそんな彼に頷いて、話をするように促した。

「それはここ数年問題になっている、人身売買が関係している可能性があるからです。あの連中がまともなプロモーター稼業を営んでいるわけがない。私はそのことをハンさんからはっきり聞いたわけではありませんが、それを匂わす言葉を聞きました」

 ハンは既に生気を失っていた。ハンが陥落するのは時間の問題のように見えたけれど、さすがに風俗業を長く営んできただけあって彼はしぶとい。

 ハンは突然、開き直りの言葉を口にした。

「人身売買だって? 冗談じゃありませんよ。仮にリーという人間から紹介を受けようが、当の女性本人とはきちんと契約を結び、本人の同意を得て仕事に就いてもらっているのですよ。それらの証拠書類はあなた方の指示に従ってきちんと提出している。その書類には本人のサインだって入っているのだから、それを確認してもらえば分かるはずです。ジミーさん、あなたがそれらの書類を確認したはずなのに、ずいぶんといい加減なことを言うものですね」

「それらの書類は既に確認しています。これですよね」

 ディックは先ほどの封筒から、今度は数枚の別書類を取り出し、その中の雇用契約書をハンの前に差し出した。

「その雇用契約書によると、アイリーンのサラリーは基本給が一ヶ月五百シンガポールドル、後は歩合制になっていて、売り上げの五十%が本人取り分となっている。そこから税金、使用する部屋代、そして食事代を差し引いた分が本人の給与ということになりますね。確かに本人のサインも入っている」

「その通りです、特に問題になる内容ではないと思います」

 ハンの血圧が、急激なアップダウンを繰り返す。今は揺さぶりの中で、ハンが少し落ち着きを取り戻した瞬間だった。

「確かに問題はありません。ただし、ここに書かれた通りの支払いがあれば、ということですが。支払いは間違いなく実行されていますか?」

「彼女の場合は少し特殊でして、借金があるのですよ。それを私個人が肩代わりをしているので、それを毎月の給与から返済に充ててもらっています」

 ハンはアイリーンがフィリピンで借金をした二万五千シンガポールドル(約百六十万円)を肩代わりしたと言い、借用証書もあるので、必要であれば後ほどそれを提示すると言った。今度はサイモンがハンに質問をした。

「その借金の返済は、彼女からどのような形で行われているのですか?」

「お金の細かいことは事務のヤンに任せていますが、毎月の給与の三十%を天引きしていると思います」

「ということは、給与の七十%は彼女に支払われているということですね」

「ええ、そのはずですが……何か」

「実は本人から既にお話を伺っていまして、本人は毎月の給与を全くもらっていないとのことでしたので、この点は話が食い違います」

「全く? それでしたら本人希望でそのような返済になっているかもしれません。それは帰ってから詳しく調べてみます。ところで本人から話を聞いたというのはいつのことですか?」

「本日です。我々は事情聴取と保護のために、現在彼女の身柄を預かっています」

 この話を聞いたハンの顔は、一旦落ち着いた血液が再び逆流したかのように、みるみる赤らんでいった。

「ちょ、ちょっと待って下さいよ。一体どんな権限で彼女の身柄を拘束しているんですか? 我々の商売にも影響するのですよ。勝手にそんなことをされたら困りますね」

「それについてはきちんと話しますので、まずは今の借金返済の話を決着させて下さい。借用証書については後ほど拝見させてもらうとして、返済に関する明細も勿論存在するわけですよね」

「さあ、あるでしょうね。だから私は細かいことを知らないと言っているじゃないですか。働く女性の身柄を勝手に拘束し、しかも私に対して何かの言いがかりをつけようとしているようですが、これ以上おかしなことをすると私も法的な手段の行使を考えますよ」

 ハンは自分の商売を大きく左右するディックを意識しながらも、アイリーンの身柄を拘束された事実を知り、開き直りの態度に出た。それはディックがいくら衛生局の局長だとしても、所詮は役人であり、違法な取調べに対する訴えには腰が引けるはず、という思惑があるからだ。それだけアイリーンに関する書類に、ハンは自信を持っていた。そしてこのまま下手に対応していたら、とんでもないことになるという鋭い感がハンを突き動かしていた。

「ハンさん、あなたは知らないと言いますが、このことは最終的に知らないで済まされる問題ではありません。もしあなたが不当に彼女の賃金を搾取している事実が判明したら、あなたを訴えることもできますが、その場合あなたは従業員の賃金を搾取したなどという小さな罪ではなくて、人身売買に加担した罪を問われることになります」

 サイモンが告訴を匂わせる言葉を口にしながら、自分の鞄から数枚の書類を取り出しハンに手渡した。

「こ、これは……、なぜこれを」内容を確認したハンは絶句した。

 書類の一枚は、ハンが税務署に提出した法人所得申告書だった。そしてもう一枚は、その申告書の裏づけとなる、税務署に提出した計算書である。それは帳簿の写しのようなものであった。問題は残りの二枚だった。それはハンが大切に自宅の机の引き出しに隠し持っていたはずの、裏帳簿のコピーである。そして更には、サイモンが依頼した会計の専門家が、ハンの売春宿の客の出入りから推定した経営数字の計算書が添えられていた。

「あなたならその書類の意味がお分かりになるはずです。我々は人身売買にまつわる調査をしていて、たまたまそのような整合の取れない書類を入手しました。その書類を専門家に分析してもらった結果がこの紙です」

 サイモンは更にもう一枚の紙を、黙って書類を見つめるハンの前に滑り込ませた。そこには項目毎の計算結果が記載され、結論として“裏帳簿を見る限り、二十四人いるはずの従業員数に対して、二十二人の給与しか支払われていない実態が読み取れる。しかし税務署に申告した内容では、二十四人の各従業員に裏帳簿よりも多い賃金が支払われ、売り上げは全体で三割不足している。明らかに脱税の事実を示す内容となっている”とある。

 サイモンが矢継ぎ早に話を続けた。

「その書類から、あなたがリーに二万五千シンガポールドル(約百六十万円)を支払った事実も分かりました。その金額があなたの言うアイリーンの借金だとすれば、アイリーンはとっくに借金を完済していることになります。我々はその帳簿の22Aという記号が、アイリーンの売り上げだと睨んでいるからです。22Aはアイリーンがあなたの店で働きだした頃からあなたの裏帳簿に登場していますね。彼女の他に、その頃あなたの店で新しく働き出した女性はいません。それは既に調べて分かっています。そして彼女本人に確認した彼女の売り上げと22Aはほぼ一致します。22Aは既に六万シンガポールドル(約三百九十万円)の売り上げを立てています。もし雇用契約書通り売り上げの五十%が彼女の取り分だとすれば、それだけで借金と利息は十分あなたに支払われているはずです。当然元はとっくに取れている状況です。それでもあなたは、彼女に基本給すら支払っていない。この事実をもって我々は、あなたが人身売買に加担したことが濃厚であると思っています。我々はこの書類を証拠として、法的手段を行使しながら、更に詳細を追及しても構わないと思っています。もしあなたも先ほどおっしゃったように法に訴えるのであれば、我々もすぐに手続きを始めます。その準備は既に整えていますから、もしあなたがそうするのであれば、事前に我々にも伝えるようにして下さい。ただしその場合、この書類が公の場で全て公開されることになる。Jという記号の金額は、衛生局のジミーさんに支払ったことを意味するのではないですか? あなたは脱税の件と贈賄の件でも追及されることになるでしょう」

 サイモンの言葉に、ディックが付け加えるように言った。

「ハンさん、もしあなたが人身売買をした事実が判明した場合、行政としてあなたの店にそれなりの処分を言い渡すことになります。あなたは不適切な経営者として、あなたが営んでいる全てのビジネスにおいて、各関係方面から細かく追求されることになるでしょう」

 もはやハンは、完全に言葉を失った。そこへサイモンが、これまでの厳しい顔を少し緩めて、ハンにささやくように言った。

「ハンさん、今現在、この事実を知っているのは我々だけなのです」

 ハンはその奇妙な物言いに引っ掛かりを感じ、無言でサイモンの顔を見つめた。サイモンは、もう一度ハンにささやきかけるように言った。

「まだ、公になっていないのです」

 それでも呆然としていたハンは、突然何かに気が付いた。

「あなた方の狙いは何だ?」

 サイモンが少し身を乗り出して答えた。

「率直にいいましょう。我々の目的は、騙されて人身売買の犠牲になった女性の救出と、もう一点は正規のプロモーター以外で女性の紹介話を持ち込む相手の実態を、正直に教えて欲しいということです。あなたの脱税やその他の金銭的な誤魔化しを暴くことが目的ではありません。あなたが我々の申し出に協力してくれるなら、あなたの裏帳簿が公になることはないでしょう。はっきり言います。これは取引です。もし協力いただけないのであれば、我々は税務署、警察力と法の力を最大限に駆使して、強制的にあなたの全てのビジネステリトリーへ介入することになります。そうなれば、惨めな想いをするのはあなただ」

「なぜ最初からそれをしないのですか?」

「理由の一つは時間がかかるということ、そしてもうひとつは、派手な動きをかけると、それらが全てリーの率いる組織に筒抜けになること。もしあなたがその状況下で警察に連行されたら、あなたはリーのことを洗いざらい話しますか? きっと報復を恐れて肝心なことを話さないでしょう。結局あなただけが罪をかぶることになる。トカゲの尻尾きりと同じです。悪の根源が絶たれずに、末端の人間だけが処罰されて終わってしまう。しかし裏で取引をするのであれば、我々は徹底的に秘密を守ります。よってあなたは正直に実態を話すことができる。そして我々はこのような悲劇を生む根幹に、メスを入れることができるわけです」

 裏で会話を聞いていた浩二は、ここでようやくサイモンの狙いに気が付いた。裏取引の中でハンにリーの情報を吐き出させれば、ハン自身が今回の件をリーに告げることはない。いや、逆に必死に秘密を守ろうとするだろう。つまりアイリーンが開放されたあと、彼女が組織から追われることはないというわけだ。

 ここでハンは考え込んた。おそらく彼は、自分にとってどの選択が一番得になるかを思案しているに違いない。そこへディックが、ハンを諭すように話し始めた。

「ハンさん、今シンガポールは人身売買の取り締まりが緩すぎるということで、アメリカをはじめとした欧米諸国から槍玉に上がっていることを御存知ですか? 国は今、必死になってこの摘発に取り組もうとしている。もし我々が正面からこの問題に取り組めば、あなたが経営しているような宿の半分は営業停止に追い込まれるでしょう。しかし国があのような宿を認めているのは理由があります。それは、いくら取り締まったとしても体を売らなければ生きていけない女性が大勢いるという現実と関係している。もし彼女たちと摘発のイタチゴッコをしていたら、その間にこの小さな国中に怖い病気が蔓延してしまう可能性があるのです。それだけはどうしても避けなければならないから、現状は、きちんと女性の就労条件や健康管理をした上で、そのような女性の生きる道を残そうという苦渋の選択なのです。だからできれば、人身売買に関しても賢く取締りを強化していきたい。分かりますか? これはお互いの為の提案なのですよ」

 ハンは踏ん切りを付けるために、もう一度確認をした。

「もし先ほどの申し入れを承諾すれば、脱税の件は不問に付してくれるのですか? そしてこれは大事なことですが、私があなた方の摘発に協力した場合、私の名前が表に出ることは絶対にないと約束できますか?」

 ディックは約束しますと、力強く言った。ハンは一呼吸おいてから、分かりましたと小さな声でつぶやくように言った。

 サイモンは、ハンの気が変わらぬうちにたたみ掛けた。

「それでは早速、アイリーンのパスポートと借用証書、就労関係の契約書全てを用意して下さい。それと彼女が正規に受け取るはずだった賃金を、きちんと再計算してあなたに支払ってもらいます。あなたがリーに支払った金額は、実際には彼女の借金ではない。それはあなたも御存知だったはずです。罪滅ぼしとして、あなたにはそのお金をかぶってもらいます。私がこれからあなたに同行し、それらを受け取ります。その後御足労ですが一緒に役所へ行ってもらい、リーと行った取引のことを話してもらいますが、よろしいですか? 全てを今日中に済ませたい」

 サイモンの確認に対して、抵抗する気力を失ったハンは、分かりましたと答えてうなだれた。

 サイモンとディックは、その返事に大きく頷いた。最後にディックはジミーに、今回の話を決して他言しないこと、そしてアイリーンと同様のケースを洗いざらい話すという二つが、今回のハンとの癒着を見逃す条件だと伝えた。今後民間との癒着が発覚した場合は、即刻懲戒免職処分にするという厳重注意も、敢えてハンの前で行った。

 陰で話を聞いていた浩二は、サイモンの作戦の見事さに驚いた。サイモンの解決方法は、安全にアイリーンを売春宿から解放するという浩二の依頼内容を、十分満たしていた。

 浩二がアイリーンに対して、これで終わったよと一声掛けると、彼女は無言で深々と頭を下げたまま言葉を失った。ひざの上に置いた彼女の両手に、雨粒のように涙がこぼれ落ちる。それは泣き声のない、静かな涙だった。その涙には、彼女のこれまでの無念や悲しさ、そして今回の件に対する感謝など、全ての想いが複雑に入り混じっていることを浩二は理解した。浩二はそんなアイリーンの肩に手をかけ、彼女の肩の震えを感じながら、やはり彼も何ひとつ言葉を掛けることができなくなった。

 大人びて見えても、アイリーンはまだ二十歳だ。これまで気丈を装いながら、大きな我慢を重ねてきたに違いない。出口の見えないトンネルの中を彷徨い続けていた彼女が、これまでに受けた傷は計り知れないのだ。浩二はしばらく彼女を黙って泣かせた。

 サイモンとディックは、そんな二人の様子をちらりと覗き見ただけで、ハンとジミーを連れ立ってレストランの外へ出て行った。

 レストランを出た浩二とアイリーンは、外の空気を思い切り吸い込み、晴々とした気分を満喫した。

「さあ、アイリーン、これで君は自由だ。そこでさし当たってやらなければならないことがある」

 先ほどの涙で目を腫らしているアイリーンが「なに?」と訊いた。

「君は何も持たずに出てきただろう。着替えや必要な物を買わないといけない。全て新品にするんだ。これから大々的にショッピングをして、夜はお祝いのディナーだ」

 浩二のその言葉に、ようやくアイリーン本来の笑顔が戻った。

 その場を後にした二人は、浩二が話したように、本当にたくさんの買い物をした。彼女のジーンズ、Tシャツなどの着替えから下着や歯ブラシに至るまで、当面のホテル暮らしに必要なものを全て買い揃えた。

 浩二は自分のカードが擦り切れるまで、彼女のためにお金を使ってあげたいという気分だった。遠慮するアイリーンを炊き付けて、とにかく彼女が興味を示した物を次々と買った。下着売り場では、アイリーンにどれがいいかと相談されて、浩二は返答に困ってしまった。

 そう言えば、昔サラにも同じことがあったと、浩二は当時を思い出した。若い女性が男性と一緒に堂々と下着を買うなど、当時の日本では考えられないことだったのだ。浩二はそんなサラの行動に、国民性の違いを強く感じたものだった。

 それだけではなかった。アイリーンが買い物にはしゃぐ姿は、サラそのものだった。顔が似ているだけではない。子供のような無邪気な言動が、サラに瓜二つだった。浩二はタイムスリップした感覚に襲われ、血のつながりの不思議さに翻弄された。

 たくさんの買い物袋をぶら下げ、二人はホテルに到着した。フロントでキーを二つ受け取り、追加でとった部屋へアイリーンを案内した。

「部屋はあなたと一緒じゃないの?」

「僕の部屋はこの隣だ。何かあってもすぐ近くだから大丈夫だよ」

「私一人になるのはいや。寂しいし怖いの。お願い、部屋をあなたと一緒にして」

 浩二はアイリーンの強いお願いに押され、彼女に用意した部屋をキャンセルし、自分の部屋をツインのスイートルームに変更した。部屋に移動して間もなく、浩二は今日起こった出来事に対する興奮を引きずったまま、日本の池上に電話をした。

「池上さん、全てうまくいきました。アイリーンは今ここにいますよ。ようやく取り返すことができた。本当にありがとうございます。アイリーンと話をしますか?」

 池上は、大きな重石が取れた晴れやかなアイリーンの声を聞いて、今回の件を心から喜んだ。アイリーンは池上に礼を言い、リンに宜しく伝えて欲しいと言って電話を切った。

「アイリーン、フィリピンにはできるだけ早く帰ろうと思っているが、その前に君と相談しなければならないことがある。それは君のフィリピンでの生活をどうするかと言うことだ。住む場所はあるとしても、君には少し休養が必要だ。それでしばらく、サラの家に住んでのんびりしたらと思うんだが、どうだろう?」

「それはとても有り難いけれど、サラさんに迷惑がかかるでしょう?」

「いや、彼女は君を歓迎してくれるよ。そのことは既に彼女と話がついている。あとは君次第だ。君さえよければ是非そうしてくれないか。それでみんなが安心する。そこでしばらく、その後のことをゆっくり考えればいい。僕はサラや娘のレイラと一緒に、君を日本に呼んでもいいと思っているんだ」

「あなたは初めて会ったときに、私を日本に招待してくれると言った。でもそんな約束は本気にしていないから大丈夫よ」

「とにかく君のこれからのことは、サラも交えて相談していこう。僕は最後まで君のことに責任を持つと約束した。これで終わりにしたら、君はまたフィリピンで路頭に迷うことになる。そうならないようにしっかりと話し合いたい。それには君がサラの家にしばらく世話になるのが一番いいと思うんだ」

 分かった、ありがとうとアイリーンは答えたけれど、彼女はやはり不思議だった。なぜみんながそこまで自分のことを考えてくれるのか、理由が分からない。

 浩二は、フィリピンに帰ったらその理由を教えてくれると言った。彼女は浩二の言葉に従おうと思っている。確かにフィリピンに帰っても、今のアイリーンに頼る人はいない。いずれにしても彼らの好意に甘えるのが良いのだ。それでも疑問は、彼女の周りをしつこく浮遊していた。

 浩二はアイリーンがバスルームに入ったのを見計らい、フィリピンにいるサラに電話をした。

「サラ、全てうまくいった。アイリーンを取り戻した。彼女は今ここにいる」

「ありがとう、浩二。彼女は元気なの?」

「ああ、元気だ。彼女のパスポートを受け取ったらすぐにチケットを買い、一緒にフィリピンへ帰る。フィリピンに帰ったら、アイリーンはしばらく君のところへ世話になるそうだ」

「そう、よかった。私もすごく嬉しい」

 浩二はバスルームの方をちらりと確認してから、少し小さめの声で言った。

「彼女は君にそっくりだ。さっきまで一緒に買い物をしたけれど、まるで昔の君とデートしているようだった」

「そうなの? 早く彼女に会いたいわね」

「君と会うのも久しぶりだ」

「そうね、あなたと会うのも楽しみね」

「ひどいことを言うね。まるで僕がおまけみたいに」

「冗談よ、私もあなたと会うのが楽しみだわ。でも少し心配ね。私はもうおばさんになっちゃったから」

「僕だって立派なおじさんだよ。バランスが取れていいじゃないか」

「そうかしら? 日本のおじさんは、いつまでも若い子が好きっていうじゃない」

「ははは、それは日本人だけじゃないだろ。でも僕には若い娘が二人もいるんだから、それで十分だよ」

「あら、私は?」

「そうだね。素敵なレディもいて、もう十分過ぎる」

「あなたも酷いじゃない。さっきの仕返し?」

「そんなことはないよ。フィリピンに帰ったら、みんなで旅行でもしよう。君とゆっくり話がしたい。もう一度、君と一緒に人生をやり直したいんだ」

 電話の向こうで、サラが無言になった。

「どうしたの? それは無理なお願いかな?」

「違うの。そんなことを言ってくれるなんて嬉しくて、言葉に詰まっただけ」

「そのことは、会ってからもう一度君と話をしたい。そしてアイリーンやレイラにも、どうやって本当のことを打ち明けるべきか相談する必要がある」

「ええ、それはあなたと相談したいわ。私一人じゃどうしていいのか分からない」

「僕はアイリーンもレイラも、二人とも自分の娘として考えているよ。そのつもりでこれからどうするかを考えたい」

「本当にありがとう。私もそう。二人とも私の娘よ」

「帰国の日程が決まったら、また連絡する」

「ええ、分かったわ。本当にありがとう」

 池上から、アイリーンの育った環境についておおよそ聞いていた。すぐにアイリーンをそこに返しても、彼女は困るだろうと浩二は考えていた。そして彼女が家族とどうするかについては、アイリーンの気持ちが一番大切だ。それを無視して何もかもを決めることはできない。

 そしてサラが育て上げたレイラの気持ちも、よく考える必要がある。浩二は、レイラに本当のことを告げるべきかどうかも判断できずにいた。会ったこともない彼女に対して、どのように対処すべきかを考えられないのだ。現時点では、しばらく事実を伏せて様子を見るしかないだろう。

 翌朝、ホテルにサイモンが訪ねてきた。アイリーンは、まだ部屋で寝ていた。昨夜は約束通り二人でディナーを楽しみ、その後はホテルのバーで、浩二はアイリーンを相手に美味い酒を飲んだのだ。アイリーンも浩二に付き合い、カクテルを数杯飲んだ。部屋に戻ってからも興奮は冷めやらず、部屋で酒を飲みながら、明け方まで二人で話をした。

 浩二とサイモンはホテルロビーで、晴れやかにしっかり握手を交わした。

「サイモン、今回は本当にありがとう。君の解決方法は見事だった。僕は君にこの件を託して本当に良かった」

「ありがとう沢木さん。僕もこの依頼で色々なことを学んだし、新しい仕事を得ることもできました。新しいクライアントは昨日のディックです。僕とディックの思惑が見事に一致して今回はチームを組んだのですが、今後もシンガポールで行われている人身売買の摘発で協力していくことになりました」

「それはよかった。あんな悲劇を少しでも減らすことができれば僕も嬉しい。ところであの切り札となった裏帳簿は、どうやって手に入れたんだい?」

「あまり褒められた方法ではないので、本当は明かしたくないのですが、沢木さんにだけは本当のことを言いましょう」

 そんなふうに言いながら、サイモンはディックとの関わりを含め、裏帳簿を入手した方法を明かした。

 場末の酒場でウェンから話を聞いたあと、サイモンの方針は決定した。

 行政筋のプレッシャーでハンを屈服させるのはいいとして、何か他に決定打が欲しいと考えていたサイモンは、ハンがリーと人身売買をした証拠がどうしても欲しかった。しかし領収書があるはずないだろうし、それに代わる物がないかどうか思案していたのだ。

 ウェンがヒントをくれた。ハンの懐に飛び込むなら、ハンの妻が狙い目だと。

 ハンの妻は、ハンが夜間店にでている間、ハンの稼いだ金で夜の街をふらついている有名な遊び人ということだった。金に物を言わせてハンが手に入れた若い妻だったけれど、その若い妻も三十を過ぎると、ハンは次第に彼女を相手にしなくなった。最近のハンは、外に作った新しい女にご執心らしい。もともと打算で結婚したハンの妻も、次第に夜の街へと繰り出すようになっていた。最初は気晴らしで飲み歩く程度が、彼女の持つ金に吸い寄せられるように若い男が言い寄ってきた。

 彼女は心の隙間を埋めてくれる男であれば、誰でも良かった。次第に彼女の夜の徘徊目的が、行きずりの男の物色に変わっていった。

 金品の繋がりなど所詮そんなものだろうとサイモンは思いながらも、ハンの秘密を探るとすれば、活路はそこにしかないように思えた。サイモンは信頼のおける、ある一人の男を雇った。その男をハンの妻に近付けさせたのだ。

 噂通り、彼女に近づくのは簡単だった。ハンの家を張り込み、妻が出掛けたら後をつける。そしてバーで飲んでいる彼女に、偶然を装い声を掛ける。あとは一緒に飲むだけだった。

 酒に薬を入れると彼女は泥酔状態になり、その彼女を家に送り届ける振りをして、ハンの家に簡単に入り込むことができた。ハンの家で雇われるメイドは帰宅しているため、広い家の中は誰もいない。彼女を寝室に収納後、男はゆっくり家の中をかぎ回ることができた。

 ハンの金の出入りが分かるものであれば何でもよかったけれど、ハンの書斎の机に鍵の掛かる引き出しがあり、その中に通帳と裏帳簿を発見した。外で待っているサイモンがそれらを受け取り、コピーを取りすぐに元の場所へそれらを戻した。いわば違法に取得した資料のため、実際には裁判になると厄介なことになっていたと、サイモンは頭をかきながら裏話を教えてくれた。

 同時にサイモンは、行政筋で金になびく男を捜していた。仕事仲間にずいぶん相談し、ある一人の男に行きついた。その男がディックである。

 ディックは決して金になびく男ではなく、頭の良さと誠実な仕事振りで出世を果たした役人だった。サイモンの仲間うちで、金になびく男は金で裏切る、そのような人間と手を結ぶのはよした方が良いというのが大方の意見だった。それよりもディックのような志を持つ男に、問題をストレートにぶつけるのが良いと、彼を弁護士仲間から紹介をしてもらった。

 ディックは衛生局の局長だ。今回の件で味方をしてもらえるなら、これ以上うってつけの人物はいなかった。

 サイモンが、ディックについて聞き込みを中心とした調査を慎重に進めると、彼のことでは悪い噂が一つも出てこなかった。周囲の話しを聞く限り、彼は珍しく清廉な上級役人だった。

 サイモンがディックと会って直接話をすると、確かに誠実そうで腰の低い好感の持てる人物だった。サイモンは思い切って、浩二の依頼内容を正直に話してみた。

「ディックさん、私はこの件で、役人のどなたかにお金を渡して協力を求めるつもりでいました。しかし相手は信頼できる方でなければなりません。もしハンと繋がっている人物に依頼をするものなら、とんでもないことになります。私がこのような事件に首をつっこんでいるのは、先ほどお話した日本人の依頼がきっかけですが、しかしこの件は知れば知るほど同義的に許してはならないことだと思うようになりました。社会正義を貫く意味でも、私は依頼人の娘さんを是非助け出したい。ディックさん、どうか私に協力していただけないでしょうか」

 ディックはサイモンの話に、じっと耳を傾けていた。そして静かに語った。

「サイモンさん、よく私にその話をして下さいました。その想いは私も全く同じです。そして今、国も人身売買に対してどのように対処すべきかを真剣に考える時期にきています。言ってみれば私とあなたが協力をするのは、お互いのためになるのと同時に、世の中の浄化に繋がる。私もこの問題にどのようなアプローチが良いかを考えていたところですから、一緒に協力をして取り組んでみましょう」

 こうして二人の協力関係が出来上がった。ディックは局内で、アイリーンに関する届出書類のチェックや、ハンに関する情報収集で精力的に動いてくれた。また、ディックはサイモンと何度か話しを重ねた後に、サイモンを、この問題に関する衛生局の顧問弁護士として契約してくれた。ディックはサイモンを、この問題の改善や解決に向けた活動のパートナーとして認めてくれたのである。それによりサイモンは、シンガポールでの人身売買問題に関して、政府公認弁護士として活動する立場になった。

 全ての情報の共有化として、ディックはリーやその他の組織情報もサイモンに提供した。政府が警察を通じて取得したその情報は、組織構成、人員、資金源、活動エリア、活動内容など詳細を極めた。衛生局とはNDA(秘密保持契約)を結んでいるので、詳細情報を話すわけにはいかないと前置きしながらも、サイモンは人身売買の実態を簡単に教えてくれた。

 売買の対象となる女性は、タイ、インドネシア、カンボジア、ベトナム出身が多く、ついでフィリピン女性が犠牲になるとのことだった。

 売られた女性は、全てが風俗業界で働かされることになる。そんな女性たちが騙されるきっかけは、今回のアイリーンのように生活苦であったり借金であったりするが、変り種では軽犯罪を犯した人が収容される女性収容所の脱獄を手引きし、海外に逃亡させる口実で連れてこられるケースもあるようだ。このような形で売買された女性を今後アイリーンと同じように救済していくことになるが、その元締めを根絶する方法についてはこれからディックと詰めていくことになるという。

 そして最後にサイモンは、浩二がサイモンに渡した現金入りの鞄を浩二に返した。

「このお金を使わずに済みました。あんな連中を二重三重に儲けさせることはありません。それとハンからは、アイリーンの売り上げの百%を分捕ってきましたよ。私はそこから成功報酬として一割を頂ければ、後は何も要りません。実は衛生局からアイリーンの件を含めてお金が出ていますので、遠慮は不要です。着手金としてお預かりしたお金の残金も、明細と一緒に鞄へ入れておきました。アイリーンのパスポートやサイン入りの書類も全て入っています。サイン入りの書類は、確認をしたら間違いなく破棄して下さい。そんなものが残っていたらロクなことがありません」

「サイモン、本当にありがとう。あなたにはいくら感謝しても足りないくらいだ。このお金は今後のアイリーンの生活に役立たせてもらうよ」

 こうしてアイリーンの奪還作戦は、成功裡に終了した。浩二は、後日成功報酬を振り込むことを約束し、握手を交わしサイモンと別れた。

 浩二は、サイモンから手渡されたディックの手紙を読んだ。

「今回はシンガポール政府の至らぬ点が招いた事件に、大切な娘さんを巻き込んでしまい大変申し訳ありませんでした。あなたと娘さんを見ていて、人の気持ちを踏みにじるあのような行為を、私は決して許さないということを、改めて肝に命じました。不幸にして既に事件に巻き込まれた女性を少しでも多く助け出すと同時に、再発防止のための対応を具体的にとっていきたいと考えているので、今回の件、それでどうかお許し下さい。あなたとアイリーンの幸せを心から祈っております」

 独りでコーヒーを飲む浩二の目に、ガラス越しに道行く人々の姿が映っている。こうして街を眺めると平和そのものに見え、そのすぐ裏側で進行している凄惨で不幸な事件など、実は存在すらしないような気がしてしまう。

 これまでの自分もアイリーンの件がなければ、何も知らずに平々凡々とした生活を続け、その裏側のことなど気付きもしないのだ。

 しかし現実には、不幸のどん底に突き落とされた人間が至る所で苦しんでいる。今後できるだけそれらに関心を持ち、分相応な範囲でできることをしていきたいと浩二は考えていた。それが人間として社会性を発揮すると言うことかもしれないと、浩二は生まれて初めてそのようなことを考えるのだ。

 そして何よりも、まずは身近なアイリーンやサラを守り、幸せにしなければと決意を強くした。身近な人間を幸せにできない者に、社会の幸福など語る資格はないのだ。

「さて、愛する娘の寝顔を覗きにいくか」

 浩二はそんな独り言を胸の中で囁き、ロビーのラウンジを後にした。

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