いまもどこかにある部屋の話

succeed1224

いまもどこかにある部屋の話

じっとりとした汗をかき、昼になる頃目が覚めた。


隣で寝ていた女は、帰ってしまったらしい。

女に精気を吸われて眠るまでの、最後の良心で着たパンツとTシャツが、汗と汗以外の何かで汚れて気持ち悪い。


とりあえずシャワー、の前に何か飲もうと、汚れたコップを掴んで蛇口を捻る。

ジュゴゴゴゴと嫌な音がしただけで、何も出てこない。


金はきちんと払っている、然れば、原因は何か。

反射的に散らかったテーブルを見やると、A4普通紙に黒い文字で「断水のお知らせ」とある。


小さく嘆息して、シャワーを諦める、とにかく喉が乾いた。


部屋の隅にある冷蔵庫を開けたが、賞味期限を大きく過ぎて明らかに腐った牛乳しか入っていない。


今の俺にはこいつを流しに捨てることすらできない。


財布を掴んでステテコを履き、飲み物を買いに外に出ようとドアノブに触れる。


バツンと音が聞こえた気がしたが、それを明確に認識するより早く、俺の意識は閃光に飲まれた。


じっとりとした汗をかき、黄昏時に目が覚める。


さっきと同じ寝姿で、夢でも見たかと思ったが、俺はステテコを履いている。


体が痺れて動かないし、頭もひどく痛む。


薄ぼんやりした部屋の隅に、何かの気配を感じる。

どうにか動く首を回して、そちらを見やると、誰かがうずくまっていた。


声にならないが、声は出せない。

女が来たのかとも思ったが、だとすれば何故部屋の隅にいるのか。

確かに冷蔵庫の前はこの部屋で一番涼しい場所だが、俺は部屋の空調を勝手にいじられて怒るほど短気な男ではない。


様子を探ろうと目を凝らす、着ているところを見たことのない白いワンピース、髪はこんなに長かったか?そしてこんなにも、黒く濡れた色だったろうか?


ひたり、と女が床に片手を置く、立ち上がるのかと思ったが、もう片方の手を床に置いたときに気が付いた。


女はこちらへ、這っている。


よく見れば、女はそもそもうずくまっているのではない、言うなれば部屋の隅から「生えている」。

冷蔵庫の扉から生えてズルり、ズルりと這って出ているのだ。


こういうのは普通、テレビの画面からではないのか。


悠長にそんなことを考えている間にも、女はひたり、ズルりと音を立て、こちらへゆっくり近付いてくる。

女の全身が這い出た途端、背筋に嫌な悪寒が通り、本能的に命の危険を感じる。焦るが体は動かない。叫ぶが、自分の声も聞こえない、頭蓋の震える感覚はあるが、恐らく声は出せていない。


女の手が、ベッドの足を掴む。


ギシギシとベッドが軋んだ時、体がふと軽くなった。


慌てて体を丸め、少しでも距離を取るように、ベッドの上に立ち上がる。


部屋の出口はベッドの足側、そっちへ行くにはどうしても床に降りて、女を跨いで通らなければならない。


出口はもうひとつ、ベッドの真横の窓を開けば、ベランダに出られる、ここは2階だ、飛び降りられない事はない。


得たいの知れない恐怖と、裸足で2階からコンクリートの地面へと飛び降りる明確な恐怖。


どちらかを選ぶのに使える時間は、どうやら少ない。


素早くフック式の鍵を外して、窓を開け、勢いそのままにベランダの縁に足を掛け、気合いの叫びと共に飛び出す。


飛び出したよりゆっくりと、体が地面に向かって落ちて、着地の瞬間、目が覚めた。


部屋は暗いが、カーテンの隙間から漏れる月明かりで、部屋の様子が分かる。

体はなんともない。

が、今度は入り口に女が立っている。


先程と同じく、白いワンピースの女が、長い黒髪で顔を隠して、ゆっくりこちらに顔を向けている。


再び俺は、声にならない声を上げて、窓から外へ飛び出した。


そしてまた、目が覚める。もう何時かはわからないが、とにかく部屋は明るかった。

「水止まってたんやな。トイレは使えたけど、シャワー浴びんと授業出たから、直前まで男とおったって、隣の子に臭いでバレたかもしれん。」

昨日寝た女が、今度は服を着て添い寝していた。

「なぁ、臭ない?」

そう言いながら俺の答えを待たずに、女は口移しで、俺にペットボトルのミネラルウォーターを飲ませた。

恐怖から解放された安堵感と、冷たい感触が心地よく、ひどく喉が乾いていたので、吸い付くように女の口から水を受け取る。

「そんなにがっついて、どうしたん?」

濡れた唇をつり上げて女は俺の頭を優しく撫でた。

「なぁ、こういうこともあるし、冷蔵庫壊れとるん、なんとかせなあかんで。あの牛乳も腐ってるやろ?私普通のゴミは片付けたげるけど、ああいうのだけは気持ち悪くて触れへんねん。」

しばらくそうしていて欲しかったが、汗で体がベトついて気持ち悪かったのと、とにかく喉が乾いていたので、体を起こして女が置いたペットボトルに、妙に動かしにくい手を伸ばした。

同時に女が、撫でていた手を握り、髪を掴んで後ろに引いた。

そのときようやく、自分の指が視界に入る。

指先に包帯が巻かれ、固定されていた。

「あかん、まだ手ぇとか痺れて動けんやろ、私が取ったるから。」

優しい顔と口調とは裏腹に、強い力でベッドに頭を押し付けられた。

女はペットボトルを手に取り、再び口に含むと、今度は俺の鼻を咥え込んで、そのまま水を鼻の穴に吹き込んだ。

口から粘液と水を吐き、ゴホゴホと咳き込むが、女の力は緩まない。

「なぁ、あんた、浮気しとるやろ?」

女の顔は穏やかだった。

違う、と上手く声にならなかったが、否定の意思を伝えるように、首を振る。

「東京オリンピックの観戦チケット持っとる言うて女釣っとるん、学内で噂になっとるで。」

そっちには心当たりがあった。

「部屋に隠してあるん見つけたら、そのチケットあげる言うて部屋に連れ込んどるんやってなぁ。」

我ながら上手く考えたと思う。ちなみに今までにチケットを見つけられた女はいない。

「それとも、私が浮気か?私にはチケットの事、隠しとったもんなぁ。まぁ、どっちでもええわ。とにかく、他の女連れ込むんやったら、枕元の髪の毛くらい、ちゃんと片さなあかんで。」

女は、俺を押さえるのとは逆の手で髪の毛を一本摘まんで見せた。

黒く、長く、たった一本でも濡れて見えるような艶髪。

「まぁ次起きたら、ちょっと惨めな姿にしといたるし。反省しいや。」

髪の毛が付いた指を俺のシャツに擦り付けると、女はようやく俺の頭から手を離し、代わりに握りこぶしより少し大きいプラスチックの塊を俺に押し付けた。

バッテリーの部分が絶縁テープでぐるぐる巻きにされたスタンガンだった。

「ほんで、チケットはどこなん?まぁ、お仕置きの後でそれダシにしながら、もう一回戦やけどなぁ。」

女の顔は、昨夜のどんな時よりも妖艶に蕩けた。


再び意識が閃光に飲まれる刹那、俺は女の背後に、黒い濡れ髪と、白いワンピースを見た。


いまもどこかにある部屋の話  了

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