心があらしのよるに

緒方紘雪

第1話

 僕がその日代官山に着いたのは、午後の二時を少しすぎた頃だった。駅前の枯れ葉が躍る道を抜けると、いかにも高級なんだぜという風のショーウィンドウが並ぶ通りに出る。いかにも上級なんだぜという風の往来を抜ける。そしてカフェフォリオで時間を潰すため地下の店舗へと階段を下った。待ち合わせの時間は1時間と少し先だった。人に会う前に、昨日の事を整理する時間が必要だ。何せ僕の脳は丸二日寝ていない。

「ブレンドを」

「承知しました」

 この店のマスターは愛想が良い。にっこりと微笑んで戻ってゆく。この中年男の愛想と立地で何故もっと繁盛しないのか甚だ疑問だが、喫茶店というものは、繁盛していると姦しいものだ。先客が二、三人。これが良い喫茶店のフォーミュラだ。その先客というのは文化人然とした白髪の眼鏡男と、短い長髪と切れ長の目が特徴的な女性。おそらく夫婦であろう。どんな間柄だろうと、僕に夫婦に見えるのだから、夫婦と呼んで差し支えあるまい。鼻筋が通った化粧の薄い顔とモノクロでシンプルに、かつスタイルが映えるようにセレクトされた服から、座っていながらも女性の方が巷のファッション誌掲載必至の美女であることがわかった。若く見えるが、首元の薄い皺からして彼の娘ではない。あれは女性の浄玻璃の鏡だ。

 あなたといると、自然体でいれるの。あなたといる事は、とても好きなの。

 あぁ、そうなんですか。それは、はは、僕としても、僥倖ですなあ。ははは。

 三年間想いを寄せた女はそう言い放った。どんな感情からそう告げたかは定かではない。あの人の行動に理屈は無い。そこを愛おしく感じた。重い前髪が似合う人だった。あの言葉は僕の純情を撫でまわし、頭の中ではねぶた祭が開催され山車が五台重ね、脳みそのシワを爆走した。直滑降を降りたスキー選手はK点を超えてそのまま高く飛翔しどこかへ消えた。男として生まれた最大の幸福は、惚れた女に振り回されることだ、とスケコマシ風タレントがTVで言っていたが、全くその通りだと思う。ふと時計を見ると、待ち合わせの時間が近い。お代を払い、光へと階段を上った。

 駅前では明美が待っていた。行きずりの男の視線を集めている。前髪を上げ、強気な眉が印象的だった。細身のデニムに明るいキャメルのコート。スラリと伸びた長い脚は腿で女性らしく膨らみ、白いスニーカーで綺麗に接地していた。

「すみません、お待たせしました」

「いや、全然だよ。ところで、代官山に何か見たいお店でもあるのかい?」

「いえ、これから渋谷に行って新しいデパートを見たくて」

それなら渋谷に集まれば良かったんじゃないのよ。この女はいつも待ち合わせ場所に拘った。そのまま東横線に乗って向かうのもなんだかアホらしいので、一駅分歩くことにした。

「クリスマスカラーのリップがどうしても欲しくて、今日は付き合ってもらってありがとうございます。中山さん、こういうの興味ないんだと思ってました」

「僕にだって流行りのコスメとか、話題の商業ビルに行きたくなる時だってあるよ。是非ナウなショッピングを決め込んでくれたまえ。僕に気を遣わず」

「はい。じゃあ、中山さんは今日は私の荷物持ち、なのかな? ふふ」

そこから渋谷の商業ビルが集う街区に着くまで、僕は近況から面白いベランダの塀のカタチまで、様々話題を作り彼女を笑わせた。女性に対して可笑しげに振る舞うのは何より得意だった。ぺらぺらと言葉が口から滑り出た。明美はただ笑い、ただ僕は話した。

 彼女に会ったのは学生時代の後輩からどうしてもと頼まれた合コンの場だった。ああいう男女の盛り場独特のハリボテのような空気が好きではなかったが、ラーククラシックマイルドがダースでついてきた。僕は誘惑に負けた。

 彼女は目立っていた。美しかったからだ。その場の男は皆明美の気を引こうと、休日はクラブに足を運んでDJをしてますだの、今度ドコドコのブティックで服を見ませんか、僕の行きつけなんですだの、嘘八百並びたてた。僕はというと、葉っぱを燃やすのに躍起になっており、明らかにその場の女性陣からの反感を買っていた。だが、彼女曰く、

「煙草を挟む指が綺麗で」

とかで、会の終わりに連絡先を聞かれたのだ。僕としても断る理由も無く、貧乏人の後輩どもに威張れるだろうと後日自分から食事を申し込んだ。

 そのままなし崩し的に月に一度か二度、食事をする仲になった。身体を重ねたことだって何回もある。ただ、彼女側もこれ以上望まない。僕はそのさっぱりしたところが容姿に加えて彼女の好きなところだった。

 件の商業ビルに着くと、彼女はお目当てのコスメブランドの売り場を探した。どの色がいいですかね、ケースも選べるんです、どの色がいいですかね。なんでも似合うんじゃないかな、やっぱり冬だしそれらしいのがいいんじゃないか。うん、それがいいよ。そっち? あぁ、それが一番さ。言おうと思っていたところだよ。

 男女の会話におけるオーソドックスなアルゴリズムを全うしながら、横から店員のセールストークを聞く。本当にどうでもいいことばかり癪な声で宣っていたが、明美はふんふんと頷いて話を聞いていた。社会性のある動物はやはり出来が違う。僕ならもう席を立っていただろう。

 目当ての買い物を終え、ご満悦な彼女を見て、口紅一つでそんなに喜べる気性が素直に羨ましかった。いやこういう性分こそ女性らしさというものかもしれない。

 あの人なら、どうすればこんなに喜んでくれるのだろうか。なにを、いつどこで、どうやって渡そう。ぼんやりと思った。

 食事を済ませ、身を寄せて駅に向かった。誰がどう見ても恋人に見えるだろう。ふと昼間見かけた夫婦のことが頭をよぎった。彼らは本当に夫婦だったのだろうか。

 何本か電車を乗り換え、最寄駅である鷺ノ宮の駅で夜食を買った。酒を飲んだ帰り道の明美が嫌いだった。いつも以上に彼女は女という型に嵌まる。自分の口から出る会話は抜け殻のようだ。

 彼女は当たり前のように僕の部屋までついてきた。察しのついていた事だった。だが、僕は見ないフリをしていた。見えないように装った。心は袋小路の鼠だ。彼女は僕と良い仲になりたい。食事とセックスだけなら幾度となくあろうが、昼間から買い物に付き合うなんて日は初めてだった。彼女の中の不文律をなぞったのだと、そう思った。今までこうなることをわかって、こうなる方向へと向かっていたのに、どうか何も変わらず夜を超えて欲しいと願っている自分がいた。明日からも当然ただの他人でいたかった。

 僕の部屋で裸になると、明美はキスをせがんだ。僕は愛する人にしかキスが出来ない。今まで彼女にはしたことがなかった。部屋にはサイケデリックなナンバーが流れていた。唸り、ノイズを生むレコード。カーテンから街灯の光が漏れた。彼女の目が濡れているのがわかる。美しい顔だなと思った。ただ、美しいだけだった。僕の脳みそをかき混ぜてポテトサラダにする魔力は持ち合わせていない。悲しいほどに。

「僕は君といると、自然体でいれるんだ。君といる事自体、とても好きだと言える」

 兼ねてから反芻していた言葉が、沈黙に耐えきれず口を突いて飛び出た。それはただの吐瀉物だ。僕のゲロだ。飲み込めなくて、何度も噛み砕こうとした刃物だ。

 明美は静かな微笑みを讃え、僕にキスをした。吐き出した刃物が口に残した裂創が、彼女の舌と染みてズキと痛んだ。目を閉じた彼女には、僕の顔が見えない。僕にも見えないが、涙が流れているのに気付いた。わかっていたことを、わかり切っていたことを痛みが僕の腹に押し込んだ。

 かかっていた曲がブレイクに差し掛かる。無音に、あの人の面影が見えた。高い鼻が印象的だった。始めて会った日、大友克洋について語った夜。あの人の書いた詩に曲をつけた。今のこの曲に似たアレンジを施した。

 曲の行間が、ふと僕の心を見透かした。無音に孤独を嘲笑われた気がした。今の僕はどうしようもなく孤独で、行き場を失っている。スピーカーから無数の腕が伸び、僕を無音へと引きずり込んだ。

 心が欠けていった。しぼんでいるのかもしれない。こんなに悲しい夜は初めてだった。お互い心が欠けているのに、気づかない人と抱き合っている。お前は違う。僕はその身体を抜け殻に音の向かう側へと消え、暗い部屋を見下ろした。

 静かな夜だ。

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心があらしのよるに 緒方紘雪 @ogata_hiroyuki

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