このコートで輝く

 こうして、体育館で過ごすはずだった夏は、家に閉じこもる夏となった。勉強漬けの毎日だけど、未だに燃焼し切っていない気持ちが邪魔をして、実際のところ受験勉強は全く捗っていない。


「ピコン」


 そんな風に毎日を鬱屈と過ごしていた私の元に、ある日こんなメールが届いた。


「先輩方、引退試合しませんか?」


 その送信主はバレー部の後輩、新キャプテンの愛菜あいなだった。SNS禁止というバレー部のルールのため、部員間のやりとりは全てメールか電話で済ませていた。


 ルールを破る人は誰一人としておらず、高校生だというのに相手が友達でも家族でも全員がメールで連絡を取り合っていたのだ。そんな所からも意識の高さが伺えるだろう。


 私達三年生は引退したことになっているから、SNSのアカウントも作れるし、お菓子禁止のルールも撤廃されている。けれど、三年間体に染み付いた習慣というのは恐ろしいもので、まだ現役の頃のようにルールを守って生活していた。


 SNSのアプリをインストールしようとするだけで得体の知れない不安感が襲ってくるし、美味しそうなスイーツを買い物カゴに入れるだけで罪悪感に苛まれる。


 私が真面目すぎるだけだろうか、いや、そうではない。それほど、本気だったのだ。


 後輩からのメールを見て、この「バレー部でメールをする感じ」が数ヶ月しか経っていないのにも関わらず、懐かしかった。思わず顔は綻んでいた。


 ただ、急に引退試合をしようとだけ言われて、私は少しだけ困惑した。去年も一昨年も、うちのチーム内で引退試合をしたことはなかったからだ。


 なんと返していいのかも分からず数十秒放置していると、続けて詳細の日時が送られてきた。


「ご都合が合えば、是非やりたいです」


 やりませんか? と聞いてきたくせに日時まで決まっているなんて、引退試合の開催は確定しているも同然だった。先生らしいな、と、ふっと笑いをこぼしてから、新規メールに日本語を入力していく。


「まじで!?絶対やりたい!」


 「試合」という文字が送られてきた時点で、困惑しながらも既に答えは決まっていた。可愛い後輩の方から持ちかけてきてくれたのだ。


 そんなの、やりたいに決まってる。


✴︎


 引退試合当日。三年生含め、チーム総勢十四人が久しぶりに一堂に会した。贅沢にも体育館を貸し切って、中央に一面だけ張られたコート。所々傷の入る白帯、色褪せたアンテナ、錆びついたポール。いつもと同じ景色のはずなのに、どことなくインハイ決勝のセンターコートのような雰囲気を醸し出していた。


「ピーッ」

「お願いします!」


 久々に聞いたプロトコールの音。キュッキュと鳴る体育館の床。握手をする対戦相手は紗夜だった。途端、骨が曲がりそうなほど強く握り締められて、私も負けじと握り返した。絶対に負けない。プロトコールが鳴った瞬間から、戦いは既に始まっている。


 試合が始まるこの瞬間というのは、どんな相手との対戦でも少しだけ緊張する。だけど同時に、試合開始を告げるホイッスル、「プロトコール」はいつだって私に、これから何かが始まる期待とバレーボールの楽しさを運んで来てくれる。


 後輩たっての希望と私達の願いから、この引退試合は実現された。チームメイトを七人ずつ、二チームに割り振って戦う。三年の私達が全員と組めるように、チームを二回組み替えて三戦。三セットマッチ、デュースありの真剣勝負。


 コートに立つのは久々だけど、筋トレや軽いパス練習なんかは引退してからも自宅でやっていた。ボールに触らないと気持ちが落ち着かなくて、一日に一度は必ず触れていた。このままいくと、大学入試の日に持っていくお守りはボールになってしまいそうだった。それほど、未練というのは厄介なものだった。


 しかし、試合前の練習の様子を見る限り、ボールを使わないと禁断症状が出てしまうのはどうやら私だけではなかったらしい。三年生は数ヶ月のブランクを感じさせない動きを見せていた。


「菜乃さん、あれ、やっちゃいましょうよ」


 円陣を組むときにセッターのかなうが出してきたのは、人差し指をぐにぐにと曲げ伸ばしするサイン。


 そのサインは一人時間差を上げるときの指サインだった。一人時間差というのは、アタッカー一人で助走や踏み込む速さとジャンプのタイミング、飛ぶ位置を変えて相手のブロッカーを惑わす攻撃のことだ。


 一人時間差は筋力、ジャンプ力の問題から男子の選手が使うことが多い。しかし、私の並み外れた滞空時間とスタンディングジャンプの高さによってでき得るのだ。他の人には真似できない、私だけの武器。女子で打てるのはお前くらいだと、顧問の先生のお墨付きを頂いている。


「やってやろう」


 ニッと悪巧みするように笑うこの感じも、勝ってやるという闘志を燃え上がらせるのもいつぶりだろうか。ふつふつと燃え上がる青い炎は、確かに心の中で勢いを増していた。


「絶対勝つぞ」

「よし!」


 対峙するのはチームメイト。双方とも、手の内も癖も全てお見通しだ。その中で、どうやって点を取るか。どうやって点を取らせないか。


 私と紗夜のジャンケンの結果、サーブはこちらのチームからとなった。私はブロックの責任者であるミドルブロッカーとして、絶対全部止めてやる。一本たりとも抜かせるものか。


「ナイスサーブ」

「レフトマーク。速攻注意」

「一本目集中!」


 様々な指示が飛び交う中、先生の鳴らす笛がコート全体に鳴り響く。


「ピーッ」


 最初のラリーが始まる。一点目、体育館全体に一瞬の静寂が訪れた後、サーバーがその手からボールを放った。


「いくぞ」

「いけっ」


 一番サーブカットが苦手な三年生の遥へ、容赦なくボールは飛んでいく。勝ちたいという気持ちは同じ。先輩の引退試合であろうと、忖度なんて誰がするか。


「はい」


 しかも、飛んでいったボールは胸の辺りの高さで、遥の一番嫌いなポイントだ。案の定、遥のサーブカットは乱れ、ネットから少し離れたコート中央辺りへ飛んでいった。


「両サイド」


 これで速攻はなくなった。レフトか、ライトか。大きなトスを待つ両サイドのアタッカーを視界に入れながら、セッターを食い入るように見つめた。そして、セッターの手からボールが離れた瞬間、軌道を即座に判断してレフトに走り寄る。


 せーのっ。


 声には出さないけれど、レフトサイドで一緒にブロックを飛んだ亜紀と心の中でシンクロした声が聞こえた。タイミングは完璧。お互いの肩と肩が触れ合う感触がした。


「ワンチ!」


 ワンタッチ。目の前に現れた壁のようなブロックからは逃れようもなく、思い通りのコースに打ってきた相手のスパイクは私の指先に当たった。ボールは軌道を変えて、ふわりと跳ねてチャンスボールに変わる。


「来い!」


 着地した瞬間、すぐさまアタックを打つ準備のために数歩下がりながら、ボールを呼ぶ。


 ——私にあげて。絶対決めるから。


「Bマーク」


 向こうのコートから聞こえる声。相手は私の十八番、Bクイック——速攻攻撃の一種で、レフト側とセッターの中間地点に上げる素早いトス——を警戒している。


 でも、本当にBクイックかな?


 セッターの手にボールが入った瞬間、全速力でアタックを打ちに入る。Bクイックを打つのと全く同じタイミングで踏み出し、タン、タンと踏み込んで、今にもジャンプするように膝を曲げて————飛ばない。


 思い通り、引きつけた相手のブロッカーをジャンプさせることに成功した。私はその瞬間に一歩右へ踏み出し、床を強く蹴り直してスタンディングジャンプで空中へ舞い上がる。


 来た。


 セッターの叶が選んだのは、私。ワンテンポずらしたセットアップで、私にトスを上げる。


 私が欲しい高さ、欲しい位置ちょうどにボールが上がる。タイミングが合いすぎて、ボールが重力に抗って空中で停止したかのようにも見えた。その刹那、私の手の平に吸い込まれるボールを床へ叩きつけた。


「ダンッ」


 つられたことに気づいたブロッカーが慌てて跳び直すが、間に合わない。ノーブロック状態で放たれた私のスパイクは、相手コートへ突き刺さる。


「ピッ」


 先制点を取ったのは私。


「よっしゃー!!」


 一点をもぎ取った喜び。蝉よりも何倍も煩い雄叫びがコートにこだまする。歓喜の声を上げながら渾身のガッツポーズを決めて、メンバーとハイタッチを交わした。


 初めはBクイックを相手に見せて、警戒させてから一人時間差をするのがセオリー。相手を騙すために、一度Bクイックを打って相手の印象に残すのだ。でも、Bクイックが私の武器だと知るチームメイトが相手だからこそ、セオリーを無視した立ち回り。


「ナイストス!」


 最高のトスを上げてくれた叶へ駆け寄った。もう一度ハイタッチを交わしながら、二人とも満面の笑を浮かべる。こちらの思惑通りに決まったアタックほど、気持ちの良いものはない。


 これまで何万回、合わせただろう。叶とはたった数秒でも時間ができれば、トスを合わせていた。その一回ずつの積み重ねで、今がある。私と叶の最高のコンビネーションは、全国誰にも負けやしない。


 もちろん、トスだけが良かったのではない。アタックを決めた私が偉いのでもない。ナイスサーブ、ナイスレシーブ。全てが繋がって、もぎ取った一点。アタックを打ったのがたまたま私だったというだけだ。


 そう、バレーボールは一人では絶対にできないスポーツだ。たとえスーパープレイヤーがコート上にいたとしても、たった一人ではどうすることもできない。続けて二回、同じ人間がボールに触った時点で反則になるのだから。


 チームメイトとの協力なしにはラリーすら成り立たない、まさに究極の団体競技だと、私は思う。だからこそ難しいけれど、だからこそ楽しいのだ。


 そして、ワンプレーワンプレーの繋がりを大事にするスポーツだからこそ、今ひしひしと感じるボールを介した仲間との対話。


 どうしようもないくらい、楽しい。


 一球一球に全員が食らいついて、点を取り合って。私達のできる全てをここで、出し尽くす。


 一球ごとに、みんなとプレーできる時間は短くなっていく。だからこそ後輩に最後に何かを伝えたいし、どんなに点差が離れようとも、最後の一球まで諦めたりしない。


 纏わりつく暑さも、みんなの熱気も気持ちいい。コートを濡らす汗すらキラキラと輝いて見える。


 ここはインハイの、憧れたコートじゃない。


 毎日通い詰めた学校の、古い体育館の、見慣れたコート。相手だって強豪校じゃなくて、喧嘩して、笑って、泣いて、ずっと一緒にいたチームメイト。


 あの日、私が夢見た景色とは違う。


 だけど私は今、あの日テレビ越しにコートに立っていた選手より輝いているよ。私一人だけじゃなく、このチーム全員で。


 プレーしていたら分かった。たった一つのニュースにして無に帰したように見えたこの三年間は、決して無駄ではなかったと。


 絶望に打ちひしがれたのは紛れもない事実。全国大会がなくなって、このチームで辿った軌跡が記録上は何も残らないことだって事実。だけど、ここで私のバレー人生が終わるわけじゃない。


 二階から吹き抜ける風がカーテンをたなびかせて、現れた隙間から太陽の光が零れ落ちる。首筋から流れ落ちた汗がオレンジのユニフォームを濃く染めた。


 遮る障害を乗り越えて、光が差すときはいつか必ずやってくる。この先環境が変わったとしても続ければいいし、たとえ続けられなかったとしても、またこのメンバーで集まって試合をしよう。


 振り返れば蘇る、いくつもの思い出。大笑いして痛くなった腹筋。怒られる度に流した涙と強くなったバレーへの想い。悩んで悩んで、心が折れかけて、一度ゴミ箱に入れたシューズとサポーター。


 何があっても今まで続けてこられたのは、チームメイトがいたから。バレーボールの魅力に、取り憑かれてしまっていたから。


 今立っているこのコートが、私達の過ごした日々の全てを知ってくれている。だから今は、恩返しをするように、出し切れなかった悔しさを全てぶつけるように、また新たな一ページを埋めていくために、目の前の一球に私の三年間を全て懸けるんだ。


「ピーッ」


 次のラリーが、また始まるから。

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プロトコールが鳴り響く 朝田さやか @asada-sayaka

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