私の知らない色を見せて

伊島糸雨

殺伐感情戦線:第12回「髪」


 “人頭木じんとうぼく”と呼ばれる植物がある。

 灰色に近いうねりのある幹を持ち、花弁のように開かれた枝の付け根部分に、一つの大きく硬質な実をつける。実は暗い肌色をしていて、愛好家たちは屍色ブラッドレス・カラーなんてかっこいい名前をつけていたりする。

 この木の最も特徴的なのは、その実の形状と性質にある。“人頭木”なんて名前が示すように、果実は屍蝋化した人間の頭部そのもので、瞼を閉じて、損傷を修復されてから棺に入れられた時のような穏やかさを、その顔に貼り付けている。果肉は珍味として扱われていて、趣味の悪い愛好家もいるとかなんとか。実の成長過程は、なんというか、しわしわの肉塊が捻れて蠢きながら徐々に成形されていくような……なんとも冒涜的な様相を呈する。

 さらにこの木の異様なのは、花を咲かせる代わりに、人間の髪の毛にあたるものを生やすところにある。日を追うごとに、人間の髪が伸びるのより早いペースで成長していくのだった。

 こういう類の奇怪な植物は数年前から爆発的に増え始めて、今ではそれほど珍しいものでもなくなった。叫びもしないし口もないけれど、根の部分がうねうねと動くものは“マンドラゴラ”と名付けられて、魔法に憧れてきた人々をわっと沸かせた。人工的に栽培されて観賞用として販売されているものも今では多く、人頭木などは美容師・理容師を目指す人たちに重宝されている他、その髪の自然な手触りから、ウィッグを作るために栽培しているところもあるという。

 観葉植物を育てるのが元より好きだった私は、当初こそ敬遠していたものの、大学までの街中やよその家の庭先、花屋などで見かける機会が増えていくうちに徐々に慣れていった。この間には暗闇で七色に発光する花を買った。夜にライトアップされる観覧車を思わせるこの花は、可憐な容貌を餌にした食虫植物で、光には虫を催眠状態しにして引き寄せる効果がある。そして雌しべがある窪みに虫が近づくと、口を開いてばくりと食べるのだった。私はその生態から“クリオネ”と名前をつけた。綺麗な上に虫よけにも使えるので、なかなか気に入っている。実家暮らしだったら母が嫌がって買えなかっただろうと思うと、やりくりの大変な一人暮らしも悪いものではなかった。

 秋口あきぐち美園みその、という人がいる。大学の同期で、学科とゼミが同じだった。年齢はたぶん、同い年か、一つ上。仕草や言葉の端々に、私にはない大人びたものを感じることが多い。実際に話したことはあまりないから、正確な年齢はわからないけれど。

 顔立ちはきりっとしていて、あまり化粧をしている風でもないのにしっかりとかっこいい。髪は優美な流れをもって肩甲骨のあたりまで伸ばされて、艶やかな黒色が眩しかった。

 同じ授業がある時。ゼミの授業中。キャンパス内ですれ違う時。離れた場所から別のものを見ているふりをして、私はいつも目を奪われてる。一緒にいる友達に「どうかしたの」と聞かれた時の言い訳ばかりがうまくなっていく。「いや、時計をね」「掲示板を」「建物」「人」「……いや、なんでも」

 自分が彼女に懐いている感情については色々考えてみている。あの知的でクールな印象への憧憬、嫉妬的なもの、美術品に対するものに似た好奇心……いくらでもいいようはある。まだあまり、判然としていない。

 人頭木の実は人の頭部だ。そして本当に偶然、肥料を買いに出た先のホームセンターに、その株はあった。

 均一に並べられた三十センチほどの陶器の中で眠る、秋口美園に似た顔……。首のあたりまで髪は伸びていて、前髪は頭頂部でヘアピンに留められていた。

 近づいて見れば見るほど、それは私の知る秋口美園だった。私は何かやましいものを見つけてしまった気になって周囲を見渡し、しゃがみこんで屍色の顔をまじまじと見つめた。

 私の不運だったのは、その日がちょうどバイト代が入る日で、お金をいくらかおろした帰りだったことだ。人頭木の、普段なら躊躇する値段設定も、その日ばかりは問題にならなかった。

 知っている人……中でもとりわけ気になっている人の顔が目の前に現れた時、私はどうするべきだったのだろう。

 その日から、私の家にはミソノがいる。

 彼女の髪を梳くのにも、ずいぶんと慣れてきた。



 *     *



 彼女の頭を買った日。私は重たい株をどうにか持ち帰ると、ベッドから見える窓際に彼女を置いた。それから、秋口美園の死相の前に座り込んで、やってしまった、と頭を抱えた。いくらなんでもこれは変態すぎる。顔が似ているからって買って持って帰ってくるというのは、いったいどういうわけだろう。

 人身売買に手を染めてしまったと後悔する人間の気持ちはこんなものなのだろうか、と益体も無いことに考えを巡らせた。人頭木はそんな私に文句一つ言わないどころか、顔色一つ変えずにじっとしている。

 しばらくその顔を直視できず、ちらちらと横目で盗み見てはため息をついていた。それからどうにか意を決して、中途半端に知っている人にいきなり触れるのもなんだかな……、と思いつつ、彼女の黒髪へと手を伸ばした。

 一房手にとって、親指の腹でゆっくりと撫ぜる。きめ細かな線の集合は、夢想した感触を実感させて、思わず吐息が漏れた。顔を見ながら指を這わせていると、まるで目の前にあの秋口美園の冷たい死体があるかのようで、腹の奥からじわじわと滲む背徳の高揚が、泥濘のようにどろりと意識を包み込む思いがした。

 十分ほど夢中になっていた。我に返るとにわかに全身が沸騰したように熱を持って、私はそのまま身体を反転させると布団に顔面から突っ込んだ。ぼふ、と頭を埋めて、じたばたと一人で悶える。

「なんてことを……」

 ああ、と恥ずかしさに呻いた。私はあの秋口美園になんてことをしてしまったのだろう?

 もちろん、あれは人頭木、植物で、本物の秋口美園ではない。わかっている、あれは偽物だ。本物の代わりの、お人形……。

 けれど、一度似ていると思ってしまって、さらには本人だという妄想を重ねてしまったら、それはもう秋口美園の幻影から逃れられないことを意味している。休日の昼間、本物の彼女は今頃何をしているのだろう。私は今、あなたのことを想っています。私の部屋にはあなたの顔があります。あなたは知る由もないでしょうけれど。

「秋口さん……アキグチ、ミソノ……」

 ぼそぼそと、彼女の名前を反芻する。普段は「秋口さん」と呼んでいるけれど、本人はここにいないのだし、考えてみれば、この人頭木をなんと呼ぶか決めていなかった。だから、もしかしたら……、ここでは少しくらい、冒険をしてみてもいいのかもしれない。

 そんな考えがあって、私は結局、人頭木を“ミソノ”と名付けた。

 名前があると愛着は日に日に増して、私は何かと彼女に話しかけるようになった。他の植物と違って、“人の顔”というわかりやすい部位のせいか、相手が話を聞いているような錯覚に陥るからか、髪を撫でながら言葉を投げかけるのは妙に落ち着いた。ヘアピンで仮止めされていた前髪を切って現実の彼女に合わせ、枯らさないように慎重に髪の手入れをしていく。清潔と美しさを保ちながら、どんな髪型が似合うかを思案する。ミソノは不気味なほどのさりげなさで、私の日常に入り込んでいった。

 それまでの茫漠とした時間の流れは姿を変えて、遠くから眺めるだけの日々は終わったのだと思えた。本人が私の行いを知りえないということが、私に奇妙な征服感を与えていた。彼女が髪型を変えるたびに私はこう思うのだ。「私の方がよく知っているのに」

 執着するものが遠くにある時、私たちは自分の感情を疑って、相手の心に怯えている。

「私が彼女に抱いているのはいったいどんな感情だろう」

「彼女は私の言動をこう解釈しはしないだろうか」

 そんなもの関係なしに、現物に近いものが手元にあるということ。

 その髪に触れるのに、許可を必要としないということ。

 たとえ死者の色ブラッドレス・カラーをしていたとしても、見つめるのを拒絶しないということ。

 クリオネの光が瞬く中で、私はミソノに「綺麗だね」と語りかける。彼女は何も言わず、何も示さず、永遠に死んでいる。ただ髪だけが生きて、伸びて、夜の闇に七色の光を反射する。手で掬えば絹のようなしなやかさで指の隙間をこぼれていく。冷たい頬。冷たい唇。冷たい瞼。私は頭だけの彼女を胸に抱いて、髪に指を這わせている。

 ミソノを通して秋口美園を見ていた。けれどもう、家に帰ればミソノがいるのだと思うと、大学にいる秋口美園は、私から遠くかけ離れて、現実味を失っていくばかりだった。

 本物を直視するのをやめた。

 秋口美園は、拍子抜けするほどの呆気なさで、私の日常から消えていった。



 *     *



 そんな風に消えていったら、どれほどよかっただろう?

 ミソノで不満を解消しようとすればするほど、脳裏には秋口美園がちらついて苛立ちが募った。ろくに話したこともないのに? いいや、話ならうんざりするほどしているのだ。口を閉ざした屍の彼女とたっぷりの独り言を、私は交わしている。

 視線は変わらずあの人を追って、風にたなびく髪を見ては、私が触れたという記憶が蘇った。そして毎回それを否定する羽目になる。違う、それは偽物の髪であって、本物では……。

 どんどんおかしくなっていく。どんどんわからなくなっていく。私は何を見ているのだろう。私は何を求めていたのだろう。何が欲しくて、何が正しいの?

 クリオネの光に照らされて、ミソノの肌に血の気が宿ったような気がした。教室の蛍光灯に照らされて、秋口美園の肌が血の気を失ったような気がした。

 そんな時に考えるのは、こんな光景だ。

 私は秋口美園を殴り殺す。そして彼女は屍色ブラッドレス・カラーになって、私を拒絶しないお人形に成り果てる。触れるのも髪型も私の思うまま。でもそれはほんの少しの猶予でしかなくて、彼女の身体には植物に虫が群がるように、蝿が卵を産みつけ、蛆が湧き、何もかもは腐敗して残らない。私はそれを見つめているだけ。あーあ、と嘆息して、代わりの偽物の方が良かったと戻っていく。

 あの肉でできたミソノが、触れる許可を必要とせず、見つめることを拒絶せず、私から文句も言わず顔色も変えないとしたら。彼女こそがミソノであったとしたら……。私はその妄想を否定する。許されないことだ。あってはならないことだ。私はそんなこと望んでいない。そんなものを欲してはいない。

 私は私に証明しなければならなかった。偽物なんて、必要ではないのだと。

 ベッドから身体を起こす。秋口美園と同じくらい美しい濡れ羽色を、私は見下ろした。彼女は抵抗しない。傍らのクリオネが、淡く輝き始めていた。

 私は拳を振り上げる。



 ミソノを殴りつける。

 その知的でクールな顔を、叩き潰すように。

 その綺麗な髪の生えた頭をかち割るように。

 ミソノを殴りつける。

 拳が痛んでも構わない。沈む陽の光が差し込む窓際で、私は秋口美園を殴りつける。

 丁寧に、執拗に、原型から目をそらすように。本物からも偽物からも、遠くにいるために。

 みしりとひび割れる表皮に、私を、私の肉を叩きつける。この私があなたを壊す。届かないあなたを私が殺す。屍色の妄想から逃げ出したい。だからどうか死んでくれと願っている。

 醜く凹んだ顔と陥没した頭。硬質な外殻を砕いて、あふれる果汁に手を浸した。みずみずしい灰色の血に満たされて、同じ灰色の、脳みそみたいな形の果肉がみっしりと詰まっていた。

 荒れた呼吸のまま床にへたり込む。高ぶりがおさまって、原型をとどめていない残骸に、息が詰まった。

 やっちゃった。やってしまった。ミソノを壊しちゃった。ああ……。

「ふふ」

 偽物でさえこんなにグロテスクなのだから、本物はさぞかし醜怪であるに違いなかった。そう思うとなんだかおかしくて、私は身を震わせた。大切なものを自らの手で破壊する矛盾。失ったことの悲しみ、痛み。解放されたのだという安心感。口から流れ込んだ感情が胃液とないまぜになって眩暈がする。灰色の液体のついた手を構わずに顔にあてる。いつか吐き出されるはずのマーブル色が、頭の中でぐるぐると渦を巻いている。

「そうだ……」

 重たい眼球を彷徨わせた先で、私はミソノの脳みそに目を留めた。じくじくと熟れた襞の奥からは、ほのかに甘い香りが漂ってきていて、私はその匂いに釘付けにされる。

 そうだ。かたく秘されたものというのは、どうあれ淫靡な空気を纏うものじゃないか。

 私が知らない秋口美園。

 私が知らなかったミソノの中身。

 髪という見せかけでなしに、その表皮を剥いでからわかることも、きっとあるのだろう。

「私の方が知っているのに」

 何も知らなかった。だって、髪以外のすべては、最初から死んでいたのだから。屍色の残骸から、いったい何を知りえたというのだろう?

 あの髪が私を惑わせる。手を伸ばしたかったのは、そんなところではなかったはずなのに。

 だから、私は、

 手に絡みついた髪を振り払って、彼女の脳みそに手を伸ばした。それはバターのようななめらかさで私の指を迎えて、埋没させていく。

 そして掴み取ったひとすくいを、口に運んだ。



 *     *



「秋口さん」

 授業の終わりに、黒髪のなびく背中に声をかけた。秋口美園は振り返って、「あ、同じゼミの……」

 名前は覚えていてくれたようだった。小走りに距離を詰めて、正面に立つ。

「どうかした?」

 生きた表情で彼女が言う。柔らかな皮膚が筋肉の上を動いて笑みを作る。初めて直視する瞳は、透き通ったブラウンだった。

 私はミソノとのやりとりを思い出しながら、

「友達に、なって欲しくて」

 クリオネを意識して、笑顔を作る。


 秋口美園を、いつかミソノと呼ぶために。

 まず始めに、その髪へと手を伸ばすのだ。

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