第9話儀式

 死体の前に立つと、シンジ・カルヴァトスは難しい顔でそのミイラを見下ろした。

 ひどく縮こまった姿勢は、正しく赤子のようだ。揺り籠から墓場まで。ヒトは生まれたように死んでいくのだ。


「処理は済んでいるのかな」

「事務的な、それとも宗教的な意味でしょうか? 前者ならば滞っています、名前のない死体の処理は困難ですから。後者ならば――それに終わりなどありません」

「儀式による魂の平穏は、君が祈ればもたらされるんじゃないのか?」

「もしそうなら世界中に、霊魂が彷徨うことは無いでしょう」


 霊魂が彷徨うことがあるのか、シンジは疑問を飲み込んだ。

 魔術師的にも霊体がその本人か、それとも世界に刻まれた情報の再現なのかは判断が付きかねるところだ。降霊術、死霊術の使い手にとっても、魂を純粋なエネルギーとして運用するものだし。


 それよりも、重要なのはここから先だ。


「死体が損傷しても構わないか?」

「ある程度ならば。遺族の方がいるのかは解りませんが、どちらにせよ埋葬はしてあげたい」

「そうか」

「っ、教授、もう始めるのですか?」


 万年筆に魔導の灯を点したシンジに、エリクィン神父が驚きの声を上げた。


「早い方が精度が高い、というか、時間が経てば経つほど精度が落ちるんだ。この死体が死後何日か知らないけど、一分前に死んだ訳じゃあないんだろう?」

「それはそうでしょうけれど……?」


 あぁ、とシンジは得心がいったとばかりに頷いた。


「問題は無いよ。その程度で集中を乱すほど未熟じゃあない」

「いえ、その……」

「……まあ、教会に報告されると面倒ではあるがね。君たちの息が掛かった国に、僕は入国できなくなるだろうし」

 それでも、とシンジは続けた。「どうせやるなら出来るだけのことをする。僕は完璧主義者じゃあないが、適当な仕事は嫌いだ」

「……約束しますよ、教授。私は貴方の協力に、出来得る限りの見返りを与えると」

「それはどうも」


 異端審問官彼らの見返りに魔術師自分がどれだけ満足するのかは、歴史的に見ても甚だ疑問だったが。

 そもそも本当に与えられることなど無いだろう――信仰心とやらが与えるのは『世俗的でない』、精神的なものだ。物質的な充足を、とかく彼らは軽く見がちだ。死後の救いを約束されても、シンジとしては一向に嬉しくない。

 それとも自分はまだ若いだけで、死が身近なものとして迫る頃には考えが変わるのだろうか――寝る前に、悪夢を見ないようにとカミサマに祈るように。


 まあ自分はまだまだ、その域には届いていない。

 目先のことで手一杯だ。宗教の掲げる上位存在、その後ろ髪に指先を引っかける程度のことで、ちっぽけなヒトは一生を終える。


「【カルヴァトスの名において告げるplease named me】」


 思考とは裏腹に、舌は滑らかに。

 慣れ親しんだフレーズが意識と乖離しながら踊り出す。言葉は波紋となって辺りに染み渡り、呼吸が魔素を吸い込み魔力を吐いて、音を力ある言葉に変えていく。


「【|知恵は隷属を求め、肉体は所属を目指し、されど魂は解放を試みる《call name as you like》】」


 呪文。

 祈り。

 場を整えるための。


 魔力が呪文を通して周囲に広がり、世界を変えていく。

 今やここは古びた教会の一室ではなく、埃まみれの空気は輝かしい過去へと回顧する。

 神秘華やかなりし神々の時代。むせ返るほどの魔力が狭苦しい小部屋を満たし、慣れているはずのシンジさえ束の間、意識が揺らいだ。


「……っ」


 シンジよりも強く影響を受けているはずのエリクィン神父は、それでも僅か身体を揺らすだけで済ませた。

 詠唱を続けながらもシンジは、彼が異端審問官であることを思い出した。

 かつての魔術師殺し、神の名を掲げた断罪者。彼らは教義上武器を持たないが、それでも魔術師を何人も、何十人も、殺している。


 考えている内に、儀式は佳境に差し掛かっている。

 雑念から目を背け、シンジは集中力を研ぎ澄ましていく。

 散々偉そうなことを語ったが、ヒトの【ウィータ】を操作するのはこれが初めてだ。魔術師は無法の輩ではない、真実の探求のために易々とヒトを実験体にはさせてくれないのだ。


 予習したかったな、とシンジは苦笑する。

 ぶっつけ本番も悪くないと、魔術師は笑う。

 魔力に酔った思考が、経験に支えられた理性の手綱に従って。

 部屋に、星々が満ちた。

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