きょうのぼくらを永遠にしたい

霜月ミツカ

きょうのぼくらを永遠にしたい

 玄関のドアの開閉音が、脳髄を直接揺らした。時計を見ると十七時だった。ああ、もう帰ってきてしまったのか、早いななんて思った。きょうはもう外出することなく、ぼくが夕飯をつくるまで、リビングでテレビを観たり、スマートフォンを見たりして時間を潰すのだろう。


「マリッジブルー」ということばをはじめてきいたとき、自分とは無縁な話だなと思うと同時に、成就した想いがあるのに、それが覆るような大波が襲ってくるなんて意味不明だと思っていた。——三日前までは。


 日に日に相手を間違えたかもしれないとか、相手からするとぼくは合わないかもしれないとか、こころにささくれができそうなくらい苦悩した。


 十八時過ぎに終業して、部屋から出ると、ささめが振り返ってぼくを見た。


「おかえり」


 家で仕事をしていたぼくに対し、外に働きに出ていた彼がそう言うなんて妙だなと思いながらも、やはり顔を見ると腹の底から熱いものがせりあがってくる。太い眉に幅の広い二重瞼に小高い鼻、官能的な唇。ぜんぶが好きだ。


「おかえり」


 同じようにぼくが言うと微笑み、「ただいま」と言った。


 好きなところを百個見つけたとしても、こころの中の欠けた部分に、そのひとという、ピースがうまく嵌らなかったら、恋には落ちないと思う。ささめはぼくの欠けた部分に嵌ってくれた相手だった。


「ご飯つくるね」


 ご飯と言っても宅配の食品セットで用意された食材をレシピ通りに調理するだけだ。ささめは、携帯電話の販売員で働いていて、スマートフォンの操作を熟知しているくせに、マニュアル通りに調理することができない。料理はぼくのほうが向いているからやるだけ。


頬あたり視線を感じるけれど、きょうもささめの目を見ることができなかった。


「ありがと」


 そう言ってささめはテレビに向き合った。


 冷蔵庫から食材が入ったパックを取り出し、キッチンバサミで封を切る。


 世界でいちばん好きなひとがすぐそこにいることを、恨めしいなんて思いたくなかった。


「将来さ、ゲイでも結婚できるようになったら結婚しない?」


 三日前、ぼくはささめにそう提案した。ずっと思っていたことだ。一緒にソファに座り、人工ウイルスにより、世界が翻弄される洋画を観ていた。エンドロールの悲壮感溢れるBGMを聞きながら、ぼくは彼の目をしっかりと見て言った。


「無理でしょ」


 ささめの目には何の感情もなく、まっしろだった。言われたほうのぼくは、脳が詰まって、何も考えられなくなり、一瞬パニックに陥った。


「無理って?」


「男同士で結婚できるようになるわけないじゃん」


 ようやく口にできたことばを悪気なく一蹴して、彼は風呂に入ってしまった。


 部屋に残されたぼくは、息ができなくなるほど苦しくなり、心臓だけが活発に動いていることがわかった。


 その後、顔を合わせてもささめは何事もないようにぼくの顔を見て、ことばを放ち、当たり前のように眠り、仕事に行く。ぼくのこころが正常でないことに気づいていないようだった。


 なぜ「無理」だなんて当たり前のように言うのだろう。同じ方向を見ていなかったことを知ったことがショックだったし、なにより、そういう自分の気持ちを無意識にささめにぶつけていることに気づいてしまい、嫌悪感でいっぱいになった。


 この三日間、なんとなく気まずく思っているのはぼくだけで、ささめはまったく何とも思っていないようだった。


ぼくは過剰に思い悩むが、ささめは嫌なことがあってもすぐに忘れてしまう。そういうところが好きだったし、少しだけ嫌だった。


 ささめとぼくは、出会い系アプリで知り合った。といっても、真剣に交際するための相手を探していたわけではなくて、一日遊べる相手を探していただけだ。仕事終わりにさっくり会って、セックスをして、帰る。何度か利用したことがあったし、あの日もそんなに特別な日ではなかった。ささめを選んだのだって「ささめ」という不思議な名前と、彼のプロフィールを見て、細身の体型で、身長があまり高くないこと、写真の雰囲気が単純に好みだし、いいかと思った。それだけのことだった。


 待ち合わせ場所にはぼくのほうが先に到着した。いつも相手よりも早くついてしまう。ドキドキはあまりなかったし、体の相性が合えばいいかなくらいに思っていた。その数分後にスーツ姿のささめが来た。


「クオンさんですか?」


 街の雑音や、ほかのひとの気配が一気に消えて、彼しか見えなくなった。


 プロフィールに嘘はなにもなかった。小柄で、やせ型で、顔が小さい。画面を通して見るよりもずっと神秘的に思えた。


 彼の魅力は写真なんかには収められないのだろう。しかし、こんなひとも、出会い系アプリで相手を探していることがさもしく思えた。


 実際に触れてみたら唇も、髪も、素肌も、体温も、体毛も、筋肉も脂肪も、その向こうにある骨や神経、血管、枚挙に暇がないくらいすべてが、ぼくの全感覚器官を揺さぶった。


 恋に落ちるのに時間はかからなかった。


 元カレの記憶も、遊び相手の記憶もすべてが消えた。


 同じ相手と二度するということはあまりしなかったけれど、ささめとはもう一度会いたかった。仕事中も、家にいるときも、ささめのことで頭がいっぱいで、ささめと会うことでしか満たされないから、会いたくてたまらなかった。もっと簡単なことばで言うと、ぼくを選んで欲しかった。


「クオンさんて本名なの?」


五回目に会ったときにささめのほうからきいてきた。なにかをつくりあげるように熱心に体を絡めた後に、裸のままで、見つめ合っていた。残るものなんてなにもないのに。


「そうだよ。久遠て、書く」


 ささめの右手首を軽く引っ張り、手のひらに名前を書いてみせた。


「ささめは、名字?」


「うーうん。下の名前」


 今度は彼がぼくの二の腕に「細」と書いた。


「この字で、ささめ。細かいこと気を配るひとになってもらいたかったみたい」


 ひとつ知るたびにこころのなかでささめの存在が明確になって、膨れ上がる。またぼくのこころを圧迫した。


 七回目に会った帰りに軽い感じで「俺と付き合ってよ」と言った。断られたら自我を保てなくなりそうだから言いたくなかったのに、つい、口走ってしまった。


 ささめと出会ってからぼくはほかの誰かとしたいと思わなかったけれど、ささめがほかの誰かとしていると思うと見えない相手への嫉妬で血管が切れそうになった。もう限界を迎えていたから、そう言うしかなかった。


「べつにいいよ」


 了承してくれたことは嬉しかったけれど「べつに」ということばがこころに小傷をつけた。


 それが三年前のできごとで、二年前から一緒に暮らしている。ぼくの両親はぼくがゲイであることを冷ややかに受け止めていたが、ささめの両親は明るく受け入れてくれていたらしい。


 ぼくらはごく限られた範囲のひとにしかゲイであることをカミングアウトしていなかったし、お互いが生きやすいように思想のぶつけあいをしてこなかった。


 結婚というものをぼんやり意識しはじめたのは、ぼくが子どもの頃に比べると世間のセクシャルマイノリティに対する理解が加速しはじめたから。同性愛パートナーシップ制度の制定や、同性婚を認める法案が提出されたこと。その理解の加速は、手招きしていただけで享受できたものではなく、声をあげ、活動してくれたひとたちのおかげで成り立っていることは重々承知している。そのありがたみのうえで、ぼくは勝手に自分の人生を考えなおすようになった。


 最近は、会社から自宅で働くように命じられていたのでぼくは家で仕事、ささめは窓口仕事なので、外に働きに出ていたが、時短勤務を命じされていから、いつもより帰る時間が早くなった。そのおかげで、というかそのせいで嫌でも顔を合わせる時間が増えた。一秒でも長く顔が見たかったから一緒に住みはじめたのに、顔を見るたびに鬱々とした気持ちを蓄積する日がくるなんてまさか思っていなかった。


 不要不急の外出を自粛していたので、気晴らしに外に遊びに行くこともできず、沸いてできたこころの澱や淀みは、発散することができず、閉じ込めざるを得なかった。


 できあがった夕飯を仕方なしに一緒に食べる。避けているという態度を取りたくなかった。喧嘩をしたわけでも、浮気をしたわけでもない。どちらかが悪いという話でもない。


 目の前の鶏肉とカシューナッツと野菜の炒め物よりも、ささめの食べる姿に釘付けになってしまった。それに気づいてすぐに見るのをやめる。だけどまた見てしまう。その繰り返しだった。


 ささめが最後の鶏肉を食べ、ご飯を消費しきり、味噌汁を飲み終えた後、「あのさ」とぼくは切り出した。


「この前の、冗談じゃないから」


 彼は涼しい顔で「この前?」と返した。


 ぼくが悶々と頭を悩ませていたことを、ささめは思い出せないくらいには、気に留めていなかった。胸を冷たいものが刺す。両親の名づけに反して、彼はぼくよりもずっと“細かいことを気にしない”性格だった。


「俺、本気でささめと結婚したいって思ってるんだよ」


 あさっての方向、というよりかそれよりもっと遠く、世界の端でも見るような顔をした。


「久遠にとって“結婚”て何?」


 初めて会った日、冷たいのに熱いように感じるその瞳が好きだと思った。


 あの日と同じ目で、ぼくをしっかりと捉えて離さない。


「だってもう、してるようなもんじゃん。結婚」


 一緒に住もうと言ったときも「べつにいいよ」と言われた。遠回しにほかの男と寝ないでほしいと言ったときも、ぼくだけを好きでいてくれると嬉しいと言ったときも。


 ささめは感情をあまり表に出さないひとだった。欲深くないし、嫉妬を顕わにしない。


「久遠は、そういう形に拘るタイプだったんだね。把握把握」


 ぼくが答えられずにいると勝手にまとめあげた。その軽いことばが癇に障った。


「いまはまだ制度がないけどさ、結婚したらいいことのほうが多いよ。たとえば、どっちかが危篤になったときとか、面会できるし。恋人から一歩先の関係を意識してほしいんだ」


 こんなことを言ったら重いと思われるかもしれない。すでに五トンくらいの気持ちをぶつけているのに、さらにまた数一〇〇キロくらいの気持ちを上乗せしてしまった。


「久遠はさ」


 ささめは汚れた食器をテーブルの端っこに追いやって両肘をつき、手を組んでその上に顔を載せた。


「夫が居ますって、みんなに言いたいの? 言えるの?」


 詰るわけではなく、単純に知りたいようだった。口調がきつくならないように精一杯意識した。


「俺はみんなにカミングアウトするために同性婚したいわけじゃないんだ」


 ぼくの表情から何かを読み取り、目を伏せ、ため息をついた。


「結婚が嫌なわけじゃないよ。ただ、ちょっと夢みたいな話って思ってるだけ」


「できたらいいなって思わないの?」


「思うよ。そりゃ。でも切望はしてない。どんな形であれ、俺はアナタが好きなんだからそれでいいじゃん。ステータスが夫であれ、恋人であれ何も変わらないよ」


 ささめは立ち上がって食器をまとめてキッチンに運んだ。彼の中でこの話は完結してしまったらしい。ダイニングに戻ってきて、ぼくの目の前にある食器をまとめはじめた。


「なんか、悔しいじゃん」


 右目の端にささめの視線が刺さる。


「ほかのひとが当たり前にできることができないなんて」


 信じているだけであしたが変わるはずないなんてことくらい、ぼくだってわかっている。だけど、結局誰かが変えてくれていることを待っている。自分の狡さもわかっている。「結婚」という形で彼と結ばれても堂々と誰かに言うことはしないだろう。いつかはこういうことも珍しいことじゃなくなればいい。でも、そんなにうまくいかないかもしれない。ささめも、そう思っているから「無理」と言ったのかもしれない。


 ささめは少しだけ声を出して笑った。それからぼくの後ろにまわり、体をくすぐった。


「かわいいな」


「やめろ、ばかにするなよ」


 ぼくは必死で抵抗する。


「でも」


 ささめは手を止めた代わりに後ろからぼくを抱きしめた。頭の上で、ささめの頬の柔らかさを感じる。


「ほんと、そうだよね」


 ささめの袖からは、外の匂いがした。あまり多くを望まず、抗わない。苦難がありながらもこうやって生きると選んだときも「べつにいい」と思ったのかもしれない。


 でも、制度として同性婚が認められていないことを「べつにいい」とはどうしても、ぼくは思えないのだった。


風呂から出た後、ささめの部屋に入った。ぼくらは、ふだん、それぞれの部屋で別々に眠ることにしている。


ベッドの上にささめは横たわっていて、ぼくは際に腰をおろして彼の髪に触れる。


「久遠て死ぬの怖い?」


「それは、こわいよ」


「俺子どもの頃からさ、あした死んでもべつにいいやーって思ってたんだよね」


 ささめはゆっくりと瞬きをする。


「でも、さっき久遠と話して、風呂入って考えてたんだけど、やっぱり結婚できるようになったら、したほうがいいかもね」


 頬から鼻の下の髭の剃り跡に触れた。


「いまはあした死んでもいいやってあんまり思わないし、死んだら、久遠と同じ墓には入りたいかも」


 胸が苦しくなったのは、ここ最近のものと種類が違う。


「でも、長生きしなきゃ、ね」


 ぼくはそのまま、ささめの体に覆いかぶさり、キスをした。一度では足りなくて、数えきれないくらい、想いの分だけ。


 顔を上げるとささめの睫毛に涙が絡んでいた。ぼくはそれを指で拭った。


「嫌だった?」


「嫌なわけ」


 彼は思いきりぼくを抱きしめた。ささめ、というひとの体のかたい感触の、きょうの分を、きちんと体に記録しておきたかった。


 ささめが眠いというので、もう一度キスをした。


「おやすみ、またあしたね」


 頭を撫でながらそう言うと「うん。おやすみ。またあした」と笑ってくれた。


 自室に戻り、ベッドに入る。まだ、体中にささめの温度が残っている。すっかりとこころの中からくすんだものはなくなった。


 愛情に温度があるということを、ぼくはささめに出会ってから知った。


 いまの想いや気持ち、愛し合っていた記録みたいなものを、残していきたいと、きょうも思う。だけど、ぼくはささめと違って欲深いから、未来がもう少しだけいいものであったらいいな、なんてやっぱり望んでしまう。あした世界が変わっていますように。そう思いながらベッドに入り、目を瞑った。

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