最終話
ばーちゃんが息を引き取ったのは、それから一週間もしない内のことであった。
あの日、暴れ回ったオサナイに散々蹂躙されて、元々衰弱しきっていたばーちゃんの体調は急激に悪化してしまった。なんとか我が家に連れ帰っても、ばーちゃんはついに一度もベッドから起き上がることはなかった。ばーちゃんが言った通り、この家にはなんの設備もないし、薬だってアカリに頼り切りだった。感染症の特効薬を発明した医療関係者にしては、孤島で暮らそうというにはあまりにも不十分な環境であった。
ハジメはばーちゃんの側から片時も離れずに看病していた。
だが「喉が渇いた」という求めに応じて台所に向かい、コップ一杯の水を持って引き返したときにはもう、ばーちゃんは既に旅立った後であった。
『ハジメ、あなたがこのメモを読んでいるということは、既に私が役目を終えたということでしょう』
ばーちゃんの車椅子に収納されていたキーボード端末を立ち上げて、浮かび上がったホログラム・スクリーンに展開されたファイルには、そんな出だしから始まる文章が書き連ねられている。
それはばーちゃんがまだ口がきける内に託された、ハジメに向けたメッセージを書き記したメモだ。
ハジメはばーちゃんの死に際を看取ることが出来なかった。彼にとってこのメモは、文字通りばーちゃんからの最期の言葉であった。
『生まれながらにして《わかり合う》ヒトであるあなたには、私たちのように《わからない》ヒトを十分に理解出来ただろうか。いずれこの世の中の人々が全員《わかり合う》であろうことを考えると、もしかしたら活かされることのない理解かもしれない。
でも、この先あなたたちが従来のヒトとは異なる在り方を歩むのだとしても、《わからない》ヒトの在り方を知っておくことは、決して無駄にはならないでしょう』
映像ではない、文書ファイルであるところがばーちゃんらしい。暇を見つけてはキーボードに指を走らせていたばーちゃんの横顔を思い返しながら、ハジメはゆっくりとファイルをスクロールさせていく。
『《わかり合う》ヒトを生み出した特効薬の仕組みについて、あなたに今さら詳しい説明は必要はないのでしょう。それでもあえて言わせてもらえれば、あれは普通の薬とは違う、一言で言えばナノサイズのロボットです。
常に全身に待機して互いに連絡を取り合い、病を察知すれば遺伝子情報も書き換えながら速やかに抗体を生み出し、その情報を全身が瞬時に共有する――そんな大層なものを、私ごときが開発出来るわけがありません。
あれは膨大な症例を分析し続けた医療AIが、何年も計算を重ねた末に生み出したものです。感染症が蔓延する中、全ての知識はネットワーク上に集積し、それを栄養としてAIはとてつもない進化を遂げていたのです。とうに人知を超えていたAIが弾き出した答えが、あの薬でした。
私に出来たのはただ、AIが提示した解を採用するかどうか、その判断だけでした。そして私は既に罹患していた娘、あなたの母親で治験を試みました。娘のお腹にはあなたという命が宿っていたけれど、躊躇っている場合ではありませんでした』
ハジメの母マユが特効薬の最初期の治験者のひとりであることは、彼もよく知っている。それは生前のばーちゃんからすでに聞かされたことでもあるし、それ以前に共に《わかり合う》ヒトたちの知識から得た情報にもある。
マユたち最初の治験者は見事全員が感染症から全快した。ただ、彼らは罹患前の状態に回復したのではない。
その異変に最初に気がついたのが、間もなく感染症に倒れたばーちゃんから研究を引き継いだオサナイであった。
『特効薬、いえナノボットの持つ連絡機能とは個人の体内にとどまらない、ネットワークを通じて医療AIとも繋がるものでした。AIが蓄えた膨大なデータがあったからこそ、ナノボットは最短距離で適切な抗体を作り出すことが出来たのです。それどころか摂取者は全員が、ナノボットを通じて直接連絡を取り合えるようになっていました。それはAIが考える感染症対策には必須でした。
感染症に抗するには個々人だけでなく、より大きな単位でヒトという集団をコントロールする必要がある――それがAIが導き出した結論でした。ヒトが互いに触れあわない距離を保ちつつ、その上で社会を維持するためには、摂取者同士で互いの感覚や思考を共有し合うことが必要だったのです』
ばーちゃんに改めて説かれるまでもない。それはハジメにとって自明の理であった。
感染症への最大の対策は、他人と接しないことだ。だがそれは他人と触れあわずにいられない、ヒトの本能と相反する。それどころか徹底すればするほどに、これまで築き上げられてきた人類社会をも崩壊させかねない。むしろ徹底が不可能だったからこそ、感染症は脅威であり続けた。
他人との物理的な距離を取りながら、同時に他人との触れあいをも保ち、なおかつ人類社会も守るためにAIが編み出したその手段が、ハジメたち《わかり合う》ヒトを生み出したのである。
『薬の真の効能を知らされたとき、私がどれほど驚かされたことか。やがて生まれたあなたの体に最初からナノボットが存在することを知ったときは、それ以上に戦慄しました。
ナノボットは摂取者の遺伝子情報に作用して、その子供は体内で自らナノボットを作り出す。つまりヒトは、特効薬以前と以後で全く違ってしまう。私にはそう思えたからです』
ばーちゃんですら、《わかり合う》ヒトと《わからない》ヒトの間にそれほどの隔絶を感じていたのか。それはハジメにとって少なからぬショックであった。
だがさらにメモを読み進めて、ハジメはそれ以上の衝撃を受けることになる。
『私は、思考や感覚はヒトという一個人の体に収まってこそ。思考や感覚の共有は、いずれ自分と他人の区別を曖昧にして、やがて巨大な個を構成する細胞のひとつに身を落としてしまうと考えています。そう考えること自体、私自身が
ばーちゃんの言葉はまるで、オサナイが言っていたことそっくりだ。
それはハジメにとって嘘偽らざる率直な感想であった。
互いに《わかり合う》ことについて、メモに書き記されたばーちゃんの言葉は明確に否定している。では、ばーちゃんはハジメという存在を端から拒否していたというのだろうか。ハジメにとってはおよそ信じがたいことであった。
この十三年間と少しの間、ハジメはばーちゃんと《わかり合い》たいと望んできた。それはハジメにとってばーちゃんが大切な存在だったからだ。ただ血縁関係にあるからというだけではない。共に暮らすかけがえのないヒトと認めているからこそ、彼にとっては最大限の愛情表現が《わかり合う》ことであった。
だがばーちゃんにとって、ハジメの愛情は要らぬ節介だったのだろうか。それどころか厳しくも優しい表情の裏で、本心は嫌悪すらしていたのかもしれない。だとしたら《わかり合う》ヒトと《わからない》ヒトの間には、乗り越えようのない溝がある。そう考えるしかない。
胸の内を失意に塗り潰されそうになりながら、ハジメはメモにまだ先があることに気がついた。そこに記されているのは彼の疑心を決定づけるような一言かもしれない。そう思うと目を通すのも躊躇われたが、読まないままで済ますわけにはいかないという義務感が、辛うじて画面をスクロールさせる。
そして少年の目に飛び込んできたのは、意外な、だがある意味当然の一文であった。
『私とあなたは《わかり合え》ない。だからこそ私は、あなたを心の底から愛することが出来ました』
一瞬目をしばたたかせたハジメは、そのまま次に続く文章へと目を向ける。
『ヒトは互いに《わからない》からこそ、相手に対して関心を抱く。興味を持つ。突き詰めればそこから愛情や友情親愛から嫌悪侮蔑といった、様々な感情を生み出していきます。そうやってもたらされた感情は正負様々なものがありますが、その全てがヒトにとって不可欠なものだと私は考えています。
いずれ世界中のヒトが《わかり合う》ことになっても、これだけは忘れないで欲しい。《わからない》ヒトのみならず、ありとあらゆる《わからない》物事に関心を払い続けること。それこそがヒトをヒトたらしめる所以です。もし全てを《わかり》尽くしてしまったとしたら、そのときには薬がもたらした変化どころではない、あなたは――あなたたちはヒトと決定的に異なる生き物になることでしょう。
あなたたちにはこれからもまだたくさんの時間がある。だからじっくり考えて下さい。そのときに少しでいい、私という《わからない》ヒトが遺したこの言葉を、共に過ごした時間を思い返してもらえれば、私にとってこれ以上の望みはありません』
そしてばーちゃんのメモは、最後にこう締め括られていた。
『生まれながらに《わかり合う》あなたに、《わからない》ヒトとの経験を積むという名分の下、共に暮らすことが出来たのは私にとって最大の幸運でした。最期までの時間を一緒に過ごしてくれて、本当にありがとう。愛する孫、ハジメへ。あなたのばーちゃんより』
全てを読み終えたハジメは、ホログラム・スクリーンに映し出されたその一文を見つめたまま、しばらく動き出せなかった。
ばーちゃんの想いが詰まったメッセージを画面上から掻き消すことが、彼には出来なかった。そんなことをすれば、本当にばーちゃんとお別れしてしまうことになる。全く理屈に合わない想いであることは百も承知の上で、端末の電源を落とす気にはなれなかった。
(そこまで感極まるなんて、ばーちゃんも本望だね)
不意に脳裏に囁きかける声に、ハジメは思わず声に出して反応する。
「なんだよ、茶化すなよ」
するとその声は、むしろ優し過ぎるほどの声音で語りかけてきた。
(茶化してるんじゃないよ。ばーちゃんが知って欲しかったのは多分、そういう喪失感なんだろうって。《わからない》ままの他人という存在がどれほど大切かを学んで欲しくて、だからあんたとふたりきりで暮らして、自分の最期を見届けさせようとしたんでしょう?)
そう語る声の端々も、微かに震えて聞こえる。声の主もまたばーちゃんの死を悼んでいるということは、ハジメにも痛いほど伝わっていた。
(だったらあんたは――いや私たちは、ばーちゃんの想いをちゃんと受け止められたってことだよ)
「……受け止められたかな」
(だってほら、あんたがそうやって泣くなんて、初めてでしょう?)
声に指摘されて、ハジメは己の頬に熱いものが伝っていることに初めて気がついた。そっと拭ってみれば、手の甲には微かに濡れた跡がつく。
「……本当だ」
(物心ついてから泣いたこととかないはずだよね。私のときには涙一滴流さなかったくせに)
「そりゃまあ、な」
脳に直接響く声との会話で幾分落ち着きを取り戻したハジメは、そこで初めて立ち上がった。
「アカリとは、こうやって今でもやり取り出来るんだし」
(一応、私だって死んじゃったんだからね。今あんたと会話してるのは、ネットワーク上に保存された私の個人データに基づくシミュレーションだって、わかってる?)
「わかってるよ」
煩そうに返事しながら、ハジメは端末の電源を落とす。一瞬でホログラム・スクリーンが消滅して、薄い板状のキーボードを拾い上げると、ハジメはおもむろに背後に目を向けた。
そこに見えるのは、彼がこれまで一歩も出ることのなかった島が、ほぼ水平線上にぽつんと浮かぶ光景だ。
真夏の陽光が一面に降り注ぐ静かな海面に、一隻の小型クルーザーがゆらりと波間を漂っている。その船尾に立つハジメはしばしの間、これまでの彼の人生の全てであった島の姿を、その目に焼きつけていた。
青い空と白い雲とエメラルドグリーンの海に挟まれた、既に遠くにあるちっぽけな島。目をつむれば島中の隅から隅まで思い浮かべることのできる限られた世界で、彼が手にしたものはあまりにも大きい。
そして、それは今後彼が二度と手にすることのかなわないものばかりなのだ。
やがて無言で踵を返したハジメは、狭い操縦席へと身を潜り込ませた。ダッシュボードの上にキーボード型端末を置いて、すとんと操縦席に腰掛ける。
(ここまでひとりで来れたなら、こっから先も大丈夫そうだね)
心配げなアカリの声に対して、今度はハジメも口に出さずに答えてみせた。
(アカリの運転技術はちゃんと頭に叩き込んだよ。さすがにあんな無茶な飛ばし方するつもりはないけど)
(オッケー。じゃあ風も穏やかなことだし、今のうちにさっさと本土に行こう)
その声に頷きながら、ハジメがクルーザーのエンジンを掛ける。やがて大きな駆動音と共にゆっくりと前進し始めた船が、ハンドル捌きに従って徐々に舳先の向きを変えていく。真っ白なクルーザーは少しずつスピードを上げて、白波を掻き分けながら凪いだ海上を進んでいく。
船が目指す先にあるのは、彼にとって初めて会う、でもよく知る人々が暮らす街だ。
操縦窓越しに真っ直ぐに前を見据える少年はもう、背後の島影を振り返ることはない。
(了)
僕とばーちゃんと、時々彼女の島 ~僕の穏やかな島暮らしが終末を迎えるまで~ 武石勝義 @takeshikatsuyoshi
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