第8話

 オサナイは目を血走らせたまま、握り締めた包丁をハジメに向かって突きつける。だが発熱で朦朧とした頭を抱える男は、その手に握る刃の先もゆらゆらと覚束ない。


「そんな目で見ても騙されないぞ。お前らと僕を一緒にするな!」


 その発言は唐突で、彼が手にする刃先以上に不安定だ。


「あの薬を使った奴らは、みんなヒトであることをやめてしまった。互いの思考も感覚も共有するなんて、僕にはとても耐えられない。そんな状態のままで平気でいられること自体、お前らがヒトモドキである証拠だ」


 だがハジメはオサナイが喚くのを遮ろうとはしなかった。包丁への恐怖だけではない。余計な一言を口にして、彼を無闇に刺激したくなかったからだ。


「お前のことだよ! お互いに《わかり合う》お前らは、もうヒトじゃない。別の生き物だ」


 すっかり目が据わったオサナイが、そう言ってハジメににじり寄る。ハジメも彼の動きに合わせて一歩後退る。


 さらに一歩前に出ようとしたオサナイが、不意に動きを止めた。


 濁った目で見下ろした視線の先で、彼の右足首をばーちゃんの手がつかんでいた。


「……その薬を世界中に広めた男が、どの口で言うんだい」


 ばーちゃんは俯せに倒れ込んだまま、枯れ枝のように細い腕を辛うじて動かして、かつての部下を詰る。


「私が倒れている間に娘の――マユの治験結果を取りまとめたのは、あんただろう。今さら知らなかったなんて言い訳は通らないよ」

「僕のせいじゃない!」


 予想外の方向から糾弾されて、オサナイは狼狽えながら右足を乱暴に振り回した。弾みで頬を蹴飛ばされたばーちゃんが、呻き声を漏らして再び床に倒れ込む。


「やめろ!」


 制止を求めるハジメの叫び声も、オサナイの耳には届かないようだった。派手に咳き込みながら、オサナイは挙動不審な眼差しを足下に向けて、その口から飛び出したのは釈明の言葉であった。


「みんな特効薬に飢えてたんだ。そんな状況で彼女だけじゃない、治験者全員が一週間もしない内に全快した事実を隠し通せるとでも? あの薬を世に出す以外、僕には選択肢はなかった!」

「だったらどうして」


 不自由な下半身を投げ出したまま、なんとか片肘で上体を支え起こしながら、ばーちゃんがオサナイを見上げる目つきは厳しかった。


「私に薬を打たなかった」


 ばーちゃんの指摘に、オサナイがぐっと言葉を詰まらせる。細い目を何度もしばたたかせて、息切れと共に熱い呼気を吐き出しながら、男の顔はまるで泣き出しそうに歪んでいく。


 返事のないオサナイの代わりに答えを口にしたのは、その問いを発したばーちゃん自身であった。


「あんたは私が死ぬことを願ったね。あんたが恐れた薬の影響も何もかも、全部私に責任を押しつけるために」


 それはオサナイの罪を読み上げる、告発に等しい。


(ばーちゃんは薬を摂らなかったんじゃない、わざと投与されなかったのか)


 ずっと抱き続けてきた疑問が氷解したハジメは、それまでオサナイを睨み続けていた目を思わずばーちゃんに向ける。


 その瞬間、言葉にならぬ太い咆哮が、居間の中に響き渡った。


 罪悪感と、羞恥と、恐怖と、怒り。轟くような声には強烈な感情がひとつも整理もつかないままに渦巻いて、聞く者の心胆を底から寒からしめる。それは少年が生涯で初めて耳にする、心の底から湧き出す負の感情を凝縮した叫び声――


(ハジメ!)


 全身を硬直させて、思考まで停止していたハジメの脳裏に、聞き慣れた声が刺さる。


 ショックから彼を呼び覚ましたのは、アカリの意識が発した声であった。


(あいつ、ばーちゃんを抱えて出て行った! ばーちゃんが何されるかわからない、早く後を追って!)


 アカリの言葉にはっと顔を上げた先には、突っ伏したばーちゃんも仁王立ちになるオサナイも、既にない。荒らされた居間の端に立ち尽くすハジメの頬に、ふわっとした風が吹きつける。気がつけば窓がいっぱいに開け放たれて、縁側の奥に広がる庭先に点々とした足跡が続いていた。


 ***


 慌てて庭先に降りたハジメは、足跡を追う内に駐車スペースに停めてあった電動カートがないことを発見した。オサナイはばーちゃんを引き連れて、どうやらカートに乗り込んだらしい。


 ハジメたちの家からは一本道をしばらく行った先に、二股の分かれ道がある。右に行けば太陽光発電パネルのある斜面や、さらに分岐を経て展望台に向かう。左に行けば坂道を下って、そのまま埠頭に突き当たる。


(海に逃げられたら不味い!)


 オサナイがクルーザーを奪うことを恐れて、アカリは死に物狂いで走っていた。


 クルーザーで海に出られたら、追いつくことは不可能だ。そんなことをしてもオサナイにその先の展望があるとは思えないが、あの状態では何をしでかすかわからない。体を張ってでも埠頭に向かう道を塞がないと――


 息も絶え絶えになりながらアカリが分岐にたどり着いたのと、彼女の目の前にカートが姿を現したのは、ほとんど同時のことであった。


「止まれ!」


 両手を広げたアカリは、埠頭に続く坂道に立ちはだかった。もしかしたら動転したオサナイは彼女を撥ね飛ばそうとするかもしれない。だがアカリにはその怖れよりも、ばーちゃんの身を案じる想いの方がはるかに勝った。


 そもそも電動カートは大してスピードは出ない。おそらく最高時速の三十キロでアカリに向かってきたカートは、衝突する一歩手前で急ハンドルを切った。運転席のオサナイには、分かれ道のいずれが埠頭に向かうのかわからなかったのかもしれない。アカリを避けて展望台方面に向かうカートの荷台には、横たえられたばーちゃんの姿があった。


 後を追いかけたいところだったが、ここまで全速力で駆けつけてきたアカリはすぐには走り出せなかった。立ったまま両膝に手をつき、路面に髪の毛の先から汗を滴らせながら息を整える。カートが走り去っていった方向を睨みつけていると、やがて反対方向からじゃりじゃりという耳障りな音が近づいてきた。


 それはハジメが跨がる自転車であった。


 倉庫から引っ張り出されたマウンテンバイクは、ろくに油も差されないまますっかり錆びついたチェーンが、ハジメがペダルを踏み込む度に悲鳴を上げている。


(先に行ってるから!)


 ハジメには声に出す余裕もない。少年の意識が放った言葉に、アカリもまた内心で頷き返す。


 ***


 ハジメが展望台の前までたどり着くと、その手前に停められていたカートの中は既に空だった。荷台も扉が開け放たれたまま、ばーちゃんの姿も見当たらない。ハジメは自転車を放り出して駆け上がる。そして彼が目にしたのは、大した広さのない展望台の四阿の向こう、申し訳程度の柵の手前に立つふたりの人影だった。


 中天に昇るじりじりとした日差しの下で、穏やかに凪ぐ大海原を背にしたオサナイが長身を揺らめかせている。その左腕には、首を締めつけられるようにして苦悶の表情を浮かべるばーちゃんが、無理矢理立たされる格好で抱えられていた。


 右手にはまだ包丁を握り締めている。


「こっちに、来るな……」


 オサナイの顔には既に理性は欠片も感じられない。病に冒され、その上にばーちゃんに追い詰められて、もはやハジメの説得に耳を貸すとは思えなかった。


「僕は、お前たちと《わかり合う》つもりなんてないぞ」


 発熱の上に強烈な陽光に晒されて、オサナイの顔は真っ赤を通り越してどす黒い。時折り激しく咳き込む度に全身がふらついて、よく見れば裸足のままの足裏が砂地をずるりと引きずる。


 オサナイがばーちゃんを抱えたまま、柵の向こうへと転落してしまわないか。ハジメが怖れるのはその一点のみであった。


 オサナイの背後には岩肌剥き出しのわずかな足場しかない。慎重に降りればその上に立つことも出来るだろうが、足下も覚束ないオサナイにそんな真似が出来ようもない。ましてやばーちゃんを抱えたままなのだ。


「特効薬以外に、あんたが助かる方法は、ない」


 首に巻きついた腕を引き剥がそうとしているのか、それともぶらさがっているのか。ばーちゃんが途切れ途切れの言葉を口にする。


「嘘だ」


 だがその内容は、オサナイを絶望させる以外の何ものでもない。


「何かあるだろう。薬に頼らない何か。博士はこの島でその研究を続けていたと、僕はそう信じて……」

「この島には、そんな設備も、薬すらない」


 ばーちゃんの口調は、かつての部下に対してどこまでも無慈悲だ。だが彼の腕力に抗いきれなくなってきたのか、顔色は青ざめるのを通り越して、白くなりつつある。


「頼むからばーちゃんを離してくれ」


 出来るだけ刺激しないように口にしたハジメの懇願に対して、オサナイは返事の代わりに包丁の刃先を向けた。


「うるさい、喋るな」


 荒い息を吐きながら、オサナイの声は聞き取りにくいほどに小さい。彼が冷静になったわけではない。もはや大声を出す体力が残っていないのだろう。


「僕はもう、ヒトモドキと話すことはない」


 口をつぐみ、動きを止めたはずのハジメから、さらに離れたいというのか。オサナイは少しずつ後退って、すぐ後ろに迫る柵が目に入っていない。


(アカリ、早く!)

(もう少しだけ粘って、あいつの注意を引きつけて)


 少年の心の叫びなど知る由もない、オサナイがハジメを見る目に浮かぶのは、溢れ出さんばかりの嫌悪だ。


「だいたいあれは、薬なんて呼べる代物じゃない。ヒトの体を遺伝子から書き換えて、お前たちみたいなヒトモドキを造り上げていく」

「オサナイ、俺たちだっておんなじヒトだよ。あんたも薬を摂れば、きっと俺たちと《わかり合え》る」

「やめ、ろ」


 オサナイは右の頬をこれ以上ないほど引き攣らせて、泣きたいのか笑いたいのか、もしかしたら両方だったかもしれない。


「お前と、あの女と、《わかり合う》だと……」


 そこまで口にしたオサナイの言葉が、おもむろに途切れた。そして押し上げるのも辛そうな瞼の下で、ゆっくりと眼球だけで辺りを見回しながら「あの女は、どうした?」


(今だよ!)


 タイミングを見計らったかのようなアカリの声に、ハジメが弾かれるように前に出る。不意をつかれたオサナイが、狙いも定まらぬまま包丁を振り回そうとして――つんのめった。


 片膝をついたオサナイは朦朧とする長身を支えようとして、ばーちゃんの首に回していた腕を緩める。途端に崩れ落ちかけるばーちゃんを、ハジメは間一髪で抱き止めた。


「よくやった、ハジメ!」


 その声にオサナイが背後を振り返る。そこには柵の外側のわずかな足場の上で、身を屈めながらオサナイの足首をつかむアカリの姿があった。


「貴様……!」


 完全に冷静を欠いた男は、立ち上がりながらアカリに向かって包丁を振りつける。だが柵をつかんだアカリは無理矢理に体を捻って、大振りの刃先が空を切った。


 勢い込んでバランスを崩したオサナイが、柵に足を取られる。前のめりになった男の長身は、後はもう崖下に向かって落下するしかなかった。


 オサナイは声を発することも出来ないまま、ただ両腕を振り回して――


 その先にある包丁の刃が、アカリの手首を切り裂いた。


「あっ」


 不意の激痛が、柵を握り締めていた握力を奪う。


 不自然な体勢で支えられていた彼女の体もまた、重力に抗えない。


 ばーちゃんを抱えたハジメの前で、驚愕の表情を浮かべたアカリは、そのまま少年の視界から消えていった。

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