第7話
オサナイはそもそも発症した身でありながら、あんな小さなボートでこの島まで海を渡ろうというのが無理であった。
「熱発までしたなら、さっさと薬を打たないと命に関わるよ」
朝食の席でハジメから報告を受けたばーちゃんは、そう口にした台詞とは裏腹に、老眼鏡の奥に覗く瞳は冷ややかなほど醒めきっていた。
「だけど今日まで拒んできたっていうなら、今さら薬を摂るつもりはないんだろうね」
「だからって必ず死ぬってわけじゃないんだろう? ばーちゃんだって感染症に罹ったけど、薬無しで治ったんじゃないか」
「ハジメ、治るってのは感染症に罹る前と同じ生活を取り戻せて初めて言えるんだ。この病の場合、なんらかの後遺症が残るケースがほとんどだ」
そう言ってばーちゃんは自らの膝の上にぽんと手を置いた。
「私の場合は一生車椅子の生活になった。それだってもう、あと何ヶ月保つか」
「ちょっとばーちゃん、縁起でもないこと言わないで」
朝から茶碗にいっぱいの米を掻き込んでいたアカリが、箸を持つ手を止めてばーちゃんを睨みつける。
だがハジメはアカリの言葉に頷くことが出来なかった。
なぜならばーちゃんの目の前の朝食は、ほとんど手をつけられていないのだ。
「アカリ、私はもう、食べ物を口にするのも億劫なんだ」
ばーちゃんが少し寂しそうに笑うのを見て、ハジメは今さらながらはっとした。
(こんなに痩せ細っていただろうか)
改めて見返したばーちゃんの顔だけではない。首筋にも手首にも、肉の厚みが感じられなかった。骨に皮が張りついたかのようなという比喩が、見た目そのままを言い表している。
共に暮らしていながらどうして今まで見過ごしていられたのか。それは多分、ばーちゃんの眼鏡の奥にある瞳が、常に力強い生気を放っていたからだ。
ばーちゃんがハジメを見る目はいつも厳しく、でも暖かい。日頃からその目に包み込むように見守られてきたから、ハジメはばーちゃんが衰えていくことに鈍感なままでいられたのだ。
だが今、ハジメとアカリに向かって己の寿命を語るばーちゃんの目からは、そんな活力さえも失われていた。
「あいつが病に倒れて、私ももう長くない。特効薬に関わったふたり揃って、これも何かの縁かもしれないね」
「……そんなこと言うばーちゃん、らしくないよ」
膝の上で拳を握り締めて、辛うじてそう口にしたハジメに、ばーちゃんは申し訳なさそうな笑顔を向けた。
「ここしばらくずっと考えていたことなんだよ。そこにあいつが、あの体たらくで現れた。こんな偶然があったら、もしかしたら何か意味があるのかもしれないと、そう思えても仕方ない」
そしてばーちゃんは両手で老眼鏡を外し、ふたりの顔を見比べた。
「私たちみたいに旧い、《わからない》ヒトはもう、そろそろ退場する時期なんだろう」
ばーちゃんの痩せこけた顔の唇の端には、仄かな笑みが覗く。どうしてそんな表情を浮かべて、そんな台詞を口にすることが出来るのか。それはハジメにもアカリにも理解の及ばぬところであった。
***
(僕はこのまま、ばーちゃんのことが《わからない》ままなのか)
電動カートに揺られながら太陽光発電パネルのある斜面に向かう間、ハジメはずっとそんな思いに囚われていた。
(生まれたときからずっと一緒に暮らしてきたのに、僕がばーちゃんを《わかる》ことは出来ないのか)
運転席でカートのハンドルを握るアカリが、少年の思いに頷くかのように呟く。
「《わからない》って、もどかしいね」
彼女の言葉に、ハジメは無言のままだった。
昨日やり残した二枚のパネルの交換に向かっていたハジメたちは、舗装路の突き当たりまでたどり着いてもすぐにカートから降りようとはしなかった。車内でしばらく黙りこくったままだったふたりの内、先に口を開いたのはアカリだった。
「仕方ない。ハジメは家に戻りな」
そう言うとアカリは車外に出て、そのままカートの後部に回る。つられるようにハジメが助手席から降りると、アカリは荷台からパネルを下ろそうとしているところであった。
「やっぱりそうした方がいいか」
「あんなこと言い出すばーちゃん、見たことないしね」
途中からハジメも手助けしながら、なんとかパネルを一枚引きずり下ろす。地面に立てたパネルを片手で支えて、アカリはにっと笑った。
「こっちは私ひとりでもなんとかなるって。あんたよりは力あるんだから」
「もう一枚下ろすとこまでは手伝うよ」
そして後をアカリに任せて、ハジメが運転するカートは来た道を引き返す。
(オサナイが現れたせいなんだろうか)
今朝方ばーちゃんが漏らした言葉を思い返しながら、ハジメは道中で考えを巡らせた。
(俺が気に留めてなかっただけで、ばーちゃんが衰え出したのは昨日今日のことじゃない。それがいきなりあんなこと言い出すなんて、それ以外ない)
(そりゃわざわざこんな僻地に、急に昔の部下が訪ねて来たら面食らうだろうけど――)
ろくに手入れされていない舗装路を、電動カートはゆっくりと進んでいく。ところどころに現れる凹凸を乗り越える度に脳裏によぎるのは、太陽光発電パネルが敷き詰められた荒れた斜面の感触だ。
(オサナイのことを、ばーちゃんは元々良く思ってないようだった)
(薬の手柄を取られたってならわかるけど、むしろ譲られた形なのに?)
(だってあいつ、その薬を使うのを嫌がってるんだ)
やがてフロントガラス越しに、ハジメたちが暮らす一軒家の姿が現れる。家から少し離れたところにある、半ば雑草に覆われかけた駐車スペースにカートを停めて、ハジメは運転席から降り立った。
(あいつは自分が作った薬のこと、信用してないのかな)
整地もされていない土肌が剥き出しの駐車場から、玄関へと歩き出す。
(というよりも怖いんだろうね)
地に足を踏み締める度に、サンダルの底から土の感触が伝わってくる。
ふと無意識に額を拭う。まだ昼前だというのに日差しが強い。先ほどから炎天下で作業中のアカリに至っては、首筋から背中まで全身に汗が吹き出している。
(《わからない》ヒトにはそんなに恐ろしいもんなのか。じゃあアカリ、ばーちゃんももしかして――)
ハジメの思考は、不意の物音によって遮られた。
何かが落っこちて、砕けるような音。玄関の目の前で足を止めると、続いて聞こえるのは怒号――
ばーちゃんではない。成人の男性の、つまりオサナイが何やら怒鳴り散らす声。
慌てて玄関扉を開ける。サンダルを乱暴に脱ぎ捨てて、そのまま居間に駆け込んだハジメが目にしたのは、ひっくり返ったダイニングテーブルに倒れた椅子。その前で肩で息をしながらいきり立つ大柄な男の背中。
そして彼の足下で床に突っ伏したばーちゃんの姿であった。
「ばーちゃん!」
少年の叫び声に振り向いたオサナイが、出鱈目に手を振り回す。その手の中には、ハジメが普段から愛用している料理包丁が握り締められていた。
「寄るな、この化け物!」
ハジメの顔に包丁の先を向けて、オサナイが怒鳴り声を上げる。その声に彼自身の咳が被せられて、長身を屈めて足下をふらつかせる。紳士然と繕う余裕もなくなった顔は、今朝方よりもさらに赤い。
「博士が悪いんだ。特効薬以外に打つ手はないなんて言うから」
言い訳めいた呟きを口にするオサナイに包丁の刃先をちらつかせられて、ハジメはそれ以上踏み込むことが出来ない。その場で拳を握り締めて、熱に浮かされて正気を失った男を睨みつけるしかない。
少年の非難がましい目つきが気に障ったのだろうか。オサナイは充血した目にありありとした敵意を浮かび上がらせた。
「なんだ、その目は」
ぜえぜえと喉を鳴らしながら、男が吠える。
「ヒトモドキのお前らが、僕のことをそんな目で見るな!」
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