髪を梳く琉唯(かみをすくるい)
一田和樹
本編
私の一番古い思い出は
「きれいな髪」
そう言いながら私の髪を梳いてくれた。私はなにも言えずに、されるがままにしていた。梳き終わると琉唯姉は後ろから私を抱きしめて、頭を撫でながらチューをした。戸惑いながらも私は妙に興奮してどきどきした。
琉唯姉はその頃、もう中学生だったけど、私のことを妹のように面倒を見てくれ、家にもよく遊びに来た。……はずなのだ。家族はみんな私と琉唯姉が遊んでいたことを覚えているのだけど、私が記憶しているのは髪を梳いてもらったことばかりだ。琉唯姉は毎日のように私の髪を梳き、それから抱きしめ、キスをした。
やせて骨張った私に比べて、琉唯姉の身体は柔らかく、温かく、とても気持ちよかった。私は琉唯姉が大好きだったから、キスした時に舌を入れられても嫌ではなかった。
「きれいな髪。冬美の髪は私に以外の人に触らせちゃダメよ」
琉唯姉はそう言って、私をぎゅっと抱きしめた。何度もキスをした。身体中が火照り、熱に浮かされたようになって、琉唯姉がなにをしているのかもよくわからなくなった。少し怖くなった私は琉唯姉にしがみついた。
でもある日、突然琉唯姉はいなくなった。誰もなにも教えてくれなかった。琉唯姉がいなくなってしばらくすると隣の家は引っ越していった。私は琉唯姉の空白を埋められずに、なにか満たされない憂鬱な気分で毎日を過ごした。
琉唯姉がいなくなって半年経った頃、私が鏡をのぞき込むと、琉唯姉がどこからかやってきて髪を梳いてくれた。鏡にはなにも映っていなければ、髪の毛がすーっと梳かれてゆくのが見える。不思議なことに驚きも恐怖もなかった。
── 琉唯姉が髪を梳いてくれている
そう思っただけだった。それから私が鏡を見ると琉唯姉が髪を梳いてくれるようになった。話くらいしてくれてもいいと思うのだけど、琉唯姉はなにも言わない。
ある日、小学校の休み時間に髪の毛がバラバラになってしまったので、うっかり洗面所の鏡に自分の顔を映してしまった。すっと私の髪が虚空に持ち上がり、梳かれる。誰かに見られたら驚かれる、と思ったけど、他には誰もいなかったからそのまま琉唯姉に髪を梳いてもらっていた。数分して梳き終わった時、ドアが開いて上級生らしい女子が入って来た。はっとして鏡から顔をそらそうとしたけど、遅かった。
ものすごい悲鳴が響いた。上級生の女子は床に倒れて、死にかけの虫みたいに手足をじたばたしていた。目を剥きだして、涙を流しながらぎゃあぎゃあ泣き叫んでいる。その様子があまりにも怖かったので、私はあわてて洗面所を飛び出して逃げた。しばらくすると学校中が騒がしくなり、救急車がやってきた。
後から聞いた話だと、6年生の女子が洗面所で倒れていたので救急車で運んだということだった。琉唯姉を見たせいだ、とすぐにわかった。私には見ることはできないけど、そんなに驚くようなものだったのだろうか? 琉唯姉はとてもきれいで優しい人だったはずなのに。
その上級生は二度と学校に来ることはなかった。
同じことが何度も起こった。琉唯姉が私の髪を梳いているのを見た人は必ず恐怖のあまりに発狂して二度と戻ってこない。狂った人は琉唯姉を見たことを話さないらしく、一連の発狂事件に私が関わっていることは誰にも知られなかった。
琉唯姉が私の髪を梳いてくれるのは気持ちがよくて便利なのだけど、誰かに見られないようにしなければならないのは不便だ。私はできるだけ、人のいる場所では鏡を見ないようにした。鏡に映っただけでは琉唯姉は現れない。自分の顔を正面から鏡に映るようにしてじっとしていると現れる。だから鏡張りのビルや壁があると、そちらを見ないように注意した。
不便だったけど、琉唯姉に髪を梳いてもらえるのは気持ちがよくて楽しかった。夜中に自分の部屋のベッドで手鏡に顔を映して髪を梳いてもらうと、琉唯姉をすぐ近くに感じて身体の匂いまでするような気がした。キスしたい、抱きしめられたいと思ったけど、琉唯姉はいつも後ろで髪を梳くだけで、私は虚しく布団を抱きしめた。
小学校の卒業が近づいた時、とうとう男子のひとりに秘密を気づかれた。誰から訊いたのかわからないが、私が鏡を見ると人が狂うと知っていた。
「なあ、知ってる? こいつ魔女なんだぜ。近づくと頭がおかしくなるんだ」
そう言ってクラスのみんなで私のことを邪魔者扱いし、机に落書きしたり、遠巻きに陰口をたたいたりするようになった。バカバカしいと思ったので、相手にしなかたけど、女子の友達までそれを信じて離れていった。なんだか裏切れた気分になって悔しかった。
ある日の授業が終わった時、私がひとりで帰ろうとするとその男子が教室のドアを閉めて邪魔をした。
「鏡、見てみろよ。ほんとに頭がおかしくなるのかやってみようぜ」
私が無視して帰ろうとしても、通してくれない。そのうち数人の男子まで一緒になって、「鏡を見ろ」と騒ぎ出した。
「ねえ。鏡見ればいいじゃん。そうしないと、こっちまで教室出られないじゃん」
女子まで一緒になって鏡を見ろと言い始めた。
私は周囲を見回した。以前、仲がよかった女の子も鏡を見ろと言っている。私には琉唯姉しかいない。琉唯姉だけでいい。
私はなにも言わずに窓際に向かった。校庭に夕陽が指しているのがよく見える。それから鞄にしまっておいた手鏡を取り出して正面からじっと見る。すっと私の髪が持ち上がった。
言葉にならない悲鳴が次々と聞こえてきた。ばたんばたんと床が鳴る。みんなが倒れて、もだえているんだろう。なにがそこまで怖いのかわからない。絶叫と鳴き声とバタバタという音を聞きながら、私は手鏡をしまうと、教室の床を転げ回っているみんなをよけて、出て行った。
廊下の向こうから数人の先生が走ってくるのが見えた。私はそれを避けて階段を降り、そそくさと校舎を出た。みんな、気が狂ってしまえばいい。私と琉唯姉の邪魔をするキチガイなんか消えてしまえ。
そう思った時、鏡を見ていないのに髪が勝手に揺れた。まるで琉唯姉に頭を撫でられたような気がして、涙がこぼれた。
了
髪を梳く琉唯(かみをすくるい) 一田和樹 @K_Ichida
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