ブレーキ摩擦ゼロ
柿尊慈
ブレーキ摩擦ゼロ
自転車で駅まで行って、電車に乗って歩けばオフィス。仕事の方はわりと順調で、女性だらけの職場だから、不快なセクハラには遭わないで済んでいる。
けどまあ、予想してなかったところで事故は起こるもので。
「そういえば、自分で直したことなかったかも……」
大学時代から、かれこれ6年くらい使っていた自転車だが、この頃チェーンが外れやすくなってきた。ボディだけは定期的に拭いていたから、水色の車体は新品同然だったが、チェーンやブレーキは完全に放置していた。
普段の買い物時に外れるならまだしも、出勤時に外れると厄介だ。駅の周辺に自転車屋さんがあった気がするが、そこまでこいつを押して行くのは面倒だった。かといって、自宅に戻って自転車を置いてくるのにも微妙な距離で、どっちにしろ10分くらい自転車を押して行かなければならない。
見たところ、結構チェーンが弛んでいるらしく、軍手などもない上に、そもそも直し方を知らなかった。ひとます道の端に自転車を停めて、ぼんやりとしゃがみ込んでいるけれど、仕事前に赤錆で指を汚したくない。
コンビニで軍手を探そうか。いや、そうなると、近くのコンビニまでこいつを押して行かなければならない。自転車屋さんは、この時間まだ開いてないはずだ。そうなると自分で直さなきゃいけない。だが、このチェーンの弛みようを見ると、自分でどうにかできそうな状況ではなかった。チェーンを戻すとかではなく、チェーンの弛みをどうにかしなければならないだろう。
チェーン、ゆるみ、直し方。スマホで検索をかけてみる。スパナが必要です。いや、ねぇよ、スパナ。コンビニで売ってることはないだろうし、ホームセンターの類もまだ営業していない。直せないじゃないか。
とりあえず、社長にだけは連絡しておこう。座ったまま、ぽちぽちと画面とタップしていく。証拠として、外れたチェーンを写真に撮って送っておこう……。
「どうかしましたか?」
ふいに、空から声がする。首をあげると、くきんと小さく音が響いた。
黒いジャージ姿の、男性。年齢は同じくらい。座っているので正確にはわからないが、180センチ弱の背丈だろう。黒髪の短髪。眼鏡をかけていて、息が上がっていないところから察するに、ランニングではなく散歩かウォーキング中だったのだろう。……いかん、同い年くらいの男性を間近に見る機会がなさ過ぎて、つい観察してしまった。
「チェーンが、外れてしまったようで」
「ああ、結構弛んでますね」
男性は、立ったまま腰を折って私の自転車を眺めている。
「少しお時間いただければ、家に戻って修理道具を持ってこれますが……」
「えっ、いいんですか?」
「はい」
通りすがりにしては親切すぎるが、変なところに連れ込まれたりするわけではないので問題ないだろう。悲しいことに、貯まるばかりの貯金があるので、仮に膨大な修理代を請求されてもどうにかなる。
「では、お願いします」
私の返事に男性は頷くと、来た道を走って引き返していった。
社長に送ったメッセージ。既読はついていない。あの人は家が近いから、まだ起きてないという可能性もある。ああ、やはり私も引っ越しを検討するべきだろうか。収入も安定してきたから、多少家賃が高くなったところで困ることはない。中途半端に距離があるため、部長より終電は早いが、終電なくなっちゃったの、なんてイベントもないまま、もう27歳だ。彼氏との結婚秒読み状態の社長と同じ30歳になったとしても、恋愛関係の何かが起こるような予感がしない。
盛大にため息をついてみる。幾分か気持ちは晴れたが、日も上りきっていない青白い空気にブルーなため息が加わっただけで、幸せになれるというわけでもない。
「……えらいため息ですね」
ハッとして顔をあげる。
男性が戻ってきていた。笑って誤魔化す。
「時間とかは、大丈夫ですか?」
妙に慣れた手つきで自転車を触りながら、男性が尋ねて来る。
「ええ。……いや、大丈夫じゃないんですけど、遅れますって連絡は、してあるので」
「そうでしたか。では、なるべく早く仕上げますね」
「ありがとうございます」
ガチャガチャと、金属の音。
沈黙。
気まずい。スマホを見てみるが、特に返信はなかった。
ふと思い立って、カシャリと修理現場を写真に収める。男性はシャッター音に振り返って、きょとんとした顔をしていた。
「ああ、すいません。自転車が壊れたっていう、証拠のために……」
嘘である。証拠写真はとっくに送信済みだ。ただなんとなく、ちょっと自分好みの男の人が近くにいるもんだから、それっぽい理由をつけて写真に収めたかっただけ。……盗撮になるか? いや、今合意は得た、はずだ。嘘はついたけど。
さっぱりした顔のわりに、手は少しごつごつしている。男性に優しくされたのは、いったい何年振りだろうか。転職してから、本当に男の人との縁がなかった。前の会社では、ちょっとしたセクハラで嫌になって、大学時代の友人に相談したところ、彼女の勤めている会社を紹介してくれた。少し年上だけど、まだまだ若い女性社長が切り盛りしているからきっと合うだろうと。
フタを開けてみると、紹介してくれた友人は寿退社をするため、後釜を探していたというわけだ。いざ入社すると、紹介してくれた本人がいない。けどまあ、仕事は今の方が楽だし楽しいし、いいんだけど。
「――直りましたよ」
男性が、ペダルを手で回す。シャリシャリと音がする。スタンドを立てて浮いていた後輪も、今まで通り、回っているようだった。
「その場しのぎみたいなところはあるので、近いうちにチェーンをまるごと交換した方がいいと思います」
「ありがとうございます、本当に」
スマホで時間とメッセージを確認する。まあ、確実に遅刻するな。メッセージは読んでもらえたようだが、適当なスタンプが返ってきているだけだった。
「あの、お礼に何か……」
どのみち遅れるのだから、もう少しゆっくりしてってもいいかな、なんて悪い考えが浮かぶ。
「いえいえ、気にしないでください。……それでは、僕はこれで」
小さな工具箱を持って、男性は帰ってしまった。
まあ、だろうな。仕事に遅刻してるってのに、お礼してましたなんて言ってさらに遅れていくのは非常識の極みだ。
……しかし、好みの顔だった。
別に釣りをしてたわけじゃないが、逃した魚は大きいっていうのは、こういうことかもしれない。
「こじらせてるなぁ……」
男性はもう見えなくなっていた。スタンドに足をかけて軽く蹴る。ガシャンと音がして、ため息を吐きながらサドルに跨った。
男の人との縁がないのは、普段女性専用車両を利用しているからかもしれない。帰りの電車はだいたい寝てるから、男性観測なんかできやしないので。
電車の遅延も重なって、今日は女性専用車両に乗ることができず、久しぶりにスーツの男性を間近に感じながら電車に揺られていた。息が当たってしまいそうな距離感。揺れのせいで、体を預けてしまいかねない。
けどまあ、意味もなく「きゃっ」とか言って寄りかかりたくなるような男性はおらず、一目惚れって意外としないもんだなと思う。
「もっと感度低くてもいいのにね」
スムージを吸い込む社長が、ストローを噛みながらそんなことを言った。
会社についてから2時間ほどで昼休憩になってしまったが、さすがに遅れていった身で同じように休むわけにもいかず、同僚たちがランチに出ている中、私はオフィスに残ってマウスを握っている。社長は食事しながら仕事をする人なので、ふたりで仲良く画面を見つめていた。
「感度?」
「一目惚れの感度よ。誰かが自分のことを好きになってくれる確率って結構低いじゃない? だけど、好きになってくれた人が自分の好みじゃないってことも十分ありえる。言っちゃなんだけど、自分の守備範囲がもっと広ければ、自分を好いてくれる人とすぐにでもくっつけるわけ。でも、実際はそうはいかない。妥協もしたくない。こだわりってのは不便よね」
「まあたしかに、社長の彼氏は、別に私の好みじゃないですしね……」
社長の眉がピクリと釣り上がる。誠意のない謝罪を小さくしてから笑った。
黒い髪の社長。3つしか違わない。私はまだ、わざわざ美容院で染めてもらった栗色の髪。髪色自由だ、わーい! なんて思って染めたけど、40代になった自分がまだ栗色ゆるふわってのは想像ができない。というか、その頃には他の同僚たちも辞めていっているかもしれないし、自分よりも若い娘がどんどん入ってきて、古くからの社長のサポート役みたいな顔をしなければならないのか。やだな。
「で、その通りすがりの修理屋さんはどんな顔だったの?」
仕事に飽きた社長は完全に手を止めて、私の背後に回りこんで肩を揺する。
「あー、こんなです」
カメラロールの、最新の写真。今朝の合法隠し撮り。
「……うん。別に、私好みじゃないな」
私の発言に対する仕返しか、社長はため息混じりにそんなことを言った。思わず、眉をひそめる。
「さっきはああ言ったけど、それくらい一目惚れってのは貴重なわけ。来週の朝も、同じ場所で待ってみたら? 今度は――そうね。自転車をパンクさせてさ」
わざわざ、ドライバーか何かで穴を開けろということか。
1時間遅れたからという至極真っ当な理由で、普段よりも1時間遅く退勤することになった。戻ってきた駅の景色は普段より少し暗くて、何だか落ち込んでしまう。
今日もまた1日が終わってしまった。明日こそ、何か新しいことでもしようか。休みっていったって、動画配信サイトで1日潰すだけってのはそろそろ止めたい。新しい化粧品でも探しに行くか? 30代用のものを――いや、まだだ。まだ私は27歳。アラサーだが、サーじゃない。
自転車の鍵を外して、ハンドルをぐっと押し出す。からからと回るペダルの音を聞いて、今朝のことを思い出した。
家の近くには自転車屋さんがない。また外れて遅刻するのも何だから、今日のうちにチェーンを交換してもらおう。
「あんたみたいに、私も少しずつガタがキテたりして」
自転車に話しかけている段階で、まあそこそこにキテるけどさ。
やだやだ。自転車は修理に出せばいいし、ブレーキのゴムは買い替えられるけど、私はいったい、どこで直してもらえるのだろう。そもそも、壊れてるのかもわからない。最初から、ジャンク品だったりして。
地元の自転車屋さんと言えば、なんとか商店だがなんとか商会って名前の小さな店舗で、おじいちゃんおばあちゃんが経営している、狭いスペースに自転車が敷きつめられているようなところだった。
ところがどっこい、こちらの自転車屋さんはまるでスーパーマーケットのような広さで、薄暗い小さな商店とは対照的に、明るい照明を浴びた自転車たちが堂々と並べられていた。
「いらっしゃいま――せ……」
「……えっと、はい。なんか、すみません」
バッタリである。妙に手際がよかったのはそういうことだったのか。
青いラインの入った、半袖の黒いジャージ。今朝とは違う格好だが、その顔はカメラロールに保存されているものと同じだった。自動ドアのすぐ近くで、どこかの誰かの自転車を修理している。黒い手袋をつけていたので、色っぽい手を見ることができない。
「今朝、教えてもらったように、チェーンを交換してもらおうかなって……」
まさか、ここで出会うとは思ってなかったけどさ。
「自転車は、外に?」
「はい、停めてあります」
店員さんが、壁にかけられた時計を確認する。時刻は、19時45分。
「20時までの営業になっているので、今日中にお渡しすることができなくてですね」
「はい」
「こちらでお預かりして、明日の昼過ぎまでに交換しておく、という方法もございます。もちろん、明日またお越しいただいてもいいのですが、今お預けいただくと、待ち時間なくお返しできるかと……」
なるほど。
しかし、今ここで預けてしまうと、私は歩いて自宅まで戻らなければならない。自転車は、完全に壊れているわけではないのだ。わざわざ無駄に歩く必要もないだろう。
「では、明日また伺います」
「はい、申し訳ございませんでした。営業時間は11時からになりますので、それ以降であればいつでも――」
「あの」
事務的な対応に割り込んでしまった。店員さんは、不思議そうな顔で私の言葉を待っている。
「その……あなたは、明日もいらっしゃいますか?」
店員さんの、瞬きがすごい。何を聞いているんだ、私は。
あの人が夢に出てきちゃった、なんてこともなく、起きたら10時という、普段通りの土曜日。
特に何かあるわけでもないが、いつもより念入りに歯を磨いたり、全然使ってなかったルージュを塗ったりなど、足掻いてみる。こんなことをしたところで、行くのはただの自転車屋だ。それも、デートで行くとかではなく、お客さんとして。
自転車に乗る都合上、気合を入れてミニスカートを履いたりすると地獄になる。少しでもフェミニンな感じを醸し出せる服装を……。動きやすさとそれっぽさを重視したオフィスカジュアルたちをどかしても、大学時代に着ていたような煌びやかなものはなく、25歳を超えたあたりで色々と処分したことを思い出す。男の人に見せるための服装なんてものを、かれこれ5年くらい放棄していたことになる。
結局普段通りの格好で家を出た。メイクだけやや気合を入れたものの、別にどうにかなるわけではない。自転車のチェーンが替わるだけだ。我ながらバカみたいだなと思いながら、時計を見る。
11時を過ぎていた。待ち合わせをしているわけじゃないので、20時までに行けばなんだっていい。だけど、そわそわして仕方がない。早く行って、やっぱりただのお客さんでしたっていう事実に打ちのめされた方が、妙な期待でぶくぶくと太らないで済む。
「いらっしゃいませ。……チェーン交換でよろしかったですか?」
「はい、お願いします」
「それでは、お時間を少々――30分ほどいただきまして、修理が終わったらこちらの番号でお呼びします。しばらくお待ちください」
例の店員さんと、もうひとり女性の店員さん。お客さんは、私以外にも数人。散歩中に迷い込んだみたいなおじさんや、チャイルドシートのついた自転車を見ている、同い年くらいの女性。外を歩いて、30分後に戻ってきてもよかったけど、せっかくなので、店内および店員さんを見ることにした。
外に停めていた私の自転車が、女性の店員さんによって運び込まれる。男性はというと、現在請け負っている分であろう自転車の修理を進めていた。その近くに私の自転車が並べられて、女性の店員さんがひと声かける。作業をしながら何か返事をして、女性が笑った。
まあ、わかってるけどさ。私が変にこじらせてるだけで、あの人は普通に、女の人との交流が日常的にあるのだ。久しぶりに稼動したために過剰反応を起こしているのかもしれない私の一目惚れセンサーと違って、あの人のセンサーは正常だから、たまたま道端でチェーン外れて困っている女になんか、運命めいたもの感じないはずで。
電動アシスト自転車のコーナーに来る。ペダルのあたりにバッテリーがついていて、なんだか速そうな印象を受ける。別に、早くなるわけじゃないんだけどね。
お子さんの送り迎えに最適ですと書かれたポップ。そうか、子どもがいてもおかしくない歳なんだよな、私。何となく大学に進学したため、社会に出たら22歳になっていたが、地元で暮らす従妹なんかは、高校卒業と共に結婚して、25歳で2児の母だ。子どもどころか、彼氏もつくれない。
生活のあらゆる場面で、当たり前の幸せみたいなものを押しつけられる暴力。人それぞれ幸せだと思う形は違うから、別に押しつけは気にならないんだけどさ。同僚たちの多くは、結婚に価値を見出せず、ずっとひとりで遊んでたいと思っているわけだし。
だけど問題は、押しつけられた幸せの価値を、私はわかってしまっているということ。もし私が結婚に意味を感じなければ、こういったポップもうるせぇって笑い飛ばせたはずだ。
でも、わかっちゃうんだよなぁ。別の生き方じゃ幸せを感じないから、みなさんが勧めてくる生き方がしたいんだけど――できないんだ、これが。
土曜の昼に鬱々としていたが、先ほど渡された札の番号が呼ばれて我に返る。やはり、家の外に出るべきじゃないな。現実は、社会は、私をぼこぼこ殴ってくる。
「チェーンはしばらく、問題ないかと思われます。ただ、ブレーキゴムがやや小さくなってきていますので、もしブレーキが効きにくいと感じたら、またお越しください」
レジの向こうで、男性が説明してくれる。表示された金額を見て、財布を探った。ぴったり払えないので、お札を何枚か重ねて出す。
また来るのも悪くないけど、それはそれで辛いな。片想い相手の職場に来るっていったって、そう頻繁に来れるような場所でもない。会えば会うほど、苦しくなるのが目に見える。
「あの……」
声がして、ぼうっと顔を上げた。頬を掻いている男性。手にはお釣りとレシート。
「こちらからお聞きすると、業務の中で知り得た情報を悪用した、みたいになってしまうので……」
手渡されたレシートの下に、メモのようなものがあった。
「それで? その連絡先は登録したの?」
タイピングの音に合わせて、首を振る。社長の不満そうな声が響いた。
「どうしてよ? どう考えたってチャンスじゃない」
メモには、おそらく店員さんのものと思われる、チャットツール用のIDが書かれていたのだが、私はそれを捨てることも、メッセージを送ることもできないまま、週を明かして水曜日を迎えている。
手を止めて、駐輪場で私を待つ自転車のことを思い浮かべた。
「見えてないだけで、たぶん私も修理が必要なんです」
「は?」
「大学出たり、セクハラ受けたり、ここで働いたりしているうちに、ブレーキか何かが壊れた気がするんですよね。今、私が彼の元に走って行ったら、ブレーキ効かないまま撥ね飛ばしちゃうと思う。無我夢中っていうか、後がないから、相手が思い通りに動いてくれないときっと怒る。自分の操縦だって、満足にできやしないのに」
歳を取ると慎重になる、なんてのは、最近まで社長が言っていた言葉だ。長いこと一緒にいる彼氏との結婚に、なかなか踏み切れないでいた。やっと、少し前向きに考えるようになったみたいだけど、私はその逆――ブレーキが効かない。要所要所でのストップができないから、慎重に動こうとするとものすごい減速することになる。そうこうしてると、きっと30歳になっちゃって、いよいよ誰も振り向いてくれない。
「……私は、先週から立場は変わらずよ。一目惚れなんて、めったにないことなんだから。後悔しない方を選びなさい」
「なーにやっても、後悔しそうなんですよねぇ」
ブレーキのゴムを替えにいっても、そのときあの人が店にいるかはわからないのだ。もしいたとしても、交換しちゃえば会いに行く口実がなくなる。そもそも、連絡してないことに気まずくなるはずだ。
未練がましく、あのメモは今もカバンの中に入れているけど、突風が吹いて、飛んでいってくれないかなと思う。
「まさか、あんたが逝くことになるとはね」
駅に戻って自転車を迎えに行くと、停めていた列の自転車がほとんど倒れていた。誰もいなかったので、ひとりでせっせと立て直す。目立った外傷はなかったので安心していると、ロックを外した途端に違和を感じた。ハンドルがいつもより低い。前輪を見ると、ぺしゃんこだった。倒れた拍子に何かが刺さってパンクしたのだろう。駐輪場に備えつけられている空気入れを使ってみても、前輪が膨らむ様子はなかった。
会いたくないなぁ、休みだといいなぁ。
明日も仕事なので、パンクを放置するわけにもいかなかった。19時少し前。パンクくらいなら直してくれるだろうと、諦めて自転車屋さんまで押していく。
だが、ついてないときはとことんついてない。
「嘘でしょ」
入口にはフェンスが降りていて、定休日と書かれた紙が張られている。
「社長、どうしましょう」
思わず、社長に電話した。びっくりするから止めろといわれたが、私だって、何で社長に電話したのかわからない。
「連絡してみなさいよ。来てくれるかもしれないでしょ」
「見たところ、お店の中誰もいないんで、電話しても無駄だと思います」
「そうじゃなくて」
「はい?」
「彼の話」
彼、というのは。
「いや、そんなことできませ――」
「じゃ、ファイト」
ぶちりと、電話を切られた。ツーツーと、電子音が空しく耳に響く。
ぼうっとしていると、頬で何かが弾けた。雨だ。急に降ってきやがった。自転車を停めて、入口の屋根で雨宿りをする。
「……ブレーキがどうだろうと、天気までは操縦できないってことね」
メモを開いて、ゆっくりとIDを打ち込んだ。
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