Daily Growing

酔人薊Evelyn

Daily Growing

 サリー丘陵の秋の日は暮れるのが早い。夕陽がなだらかな馬の背に似た曲線の合間にぽとりと落ちると、アレクサンダーの手のひらに赤い林檎が包み込まれた。

「アレックス、もうじき暗くなっちゃうわ。帰りましょうよ」

 後ろをついて歩くエリザベスは、フリルがたっぷりの重いスカートをたくし上げる手つきがまるで人形を抱いているかのように見える。実際には、子猫やら人形やらに母性的な愛情を抱く時期はとうに過ぎていたのだが。小さなアレクサンダーは、林檎をもう一度宙に放って受け止め、エリザベスのほうを振り向く。両端にキスをねだるえくぼがついた柔いくちびる。

「いやだ、僕はまだ帰らない。リジーはお姉さんのくせに、お化けが怖いんでしょ」

 アレクサンダーは、脇の下に挟んで持っていた革の鞭を手に取ってぶるんと振り回した。傾く陽を浴びて炉のなかの木炭のように赤らんだ道端の小石が跳ねた。エリザベスは、何よりも彼の恐れ知らずにぞくりとする。

「怖くなんかないわよ。お父さまやお家のみんなが心配して探しにくるわ」

 その通りだった。エリザベスの父親チャールズ・ターナーは、ふたりの姿が夕食どきになっても子ども部屋にも庭にも見えないという報告を召使いから受けると、すぐさま一帯に捜索隊を派遣した。六歳と十二歳の子どもの脚ではそう遠くには行けないだろう。しかし、領地内の谷には鬱蒼とした樫や楡の森が広がり、なだらかに見える丘の中腹には険しい岩場も点在していた。もしも、子どもを拐うような人買いや地主に恨みを持つ浮浪者が身を隠していたら?そう考えるといてもたってもいられず、御自ら馬を駆り立ててふたりを探しに出かけていった。留守を守るはずの妻は十二年前に産褥熱で没していた。

「大丈夫だよ。リジーのことは僕が守るから」

 やがて辺りに夜の帳が降りると、太陽の守護のもとでは幼い騎士道精神を発揮していたアレクサンダーはいつのまにかエリザベスの後ろを歩くようになっていた。勇ましい鞭はだらりと垂れて地面をこすり、くしゃくしゃの金髪は黄色いハリエニシダの茂みのように目鼻を隠す。美しい白馬を見るために二マイルほど離れた村の厩舎に行きたがったのはアレクサンダーのほうなのに。エリザベスにはそんなアレクサンダーを叱ることがどうしてもできない。子馬にすら乗ることを許されぬアレックスを。おそらくお父さまもそうなのだろう。だからこの歳になっても彼は、家庭教師よりエリザベスといる時間のほうが長いのだ。

 木々の間に見えていたはずの丘は今や押し黙り、ふたりに何も伝えてはくれない。ただ嗅覚と聴覚だけが昼間よりずっと鋭くなった。お化けなんていない。そう自分に言い聞かせるたびに、冷たい微風がエリザベスの頬をつねり銀色の草が後ろから足を掴むかのように思えた。ふくろうの真綿を通して鳴く声を聞いたとき、怯えたアレクサンダーがエリザベスの手に冷え切った小さな手を忍び込ませてきた。その柔らかさ、一心に庇護を求めてくるいじらしさが胸を震わせた感情のせいで、エリザベスはもう少しで辺りにほんのり漂う甘い香りに気づかずにいるところだった。

 ふたりは林檎園に来ていた。暗闇のなかでかろうじて見える枝に重く下がる球体は非現実的で、匂いのほうがずっとはっきりしていた。アレクサンダーは足を引きずり、もはやこれ以上進めそうにない。屋敷の方角すら分からなくなってしまった。途方に暮れていたエリザベスは辺りを見回していたが、ふいに数ヤード先にくろぐろとした四角い影を見つけた。納屋だ。怒られちゃうよと見上げるアレクサンダーと目が合う。

「仕方ないのよ、ここなら安全だわ」

 納屋に恐る恐る足を踏み入れ、野生動物のように梯子の影に身を隠す。林檎がごろごろして痛いとぐずるアレクサンダーの身体をエリザベスは麻袋でくるみ、自分も潜り込む。少しあやしてやると疲れ切ったアレクサンダーはすぐに眠りに落ちた。林檎の香は強く、エリザベスの心を絡め取った。恐れが麻痺してくると今度はそれなしではいられなくなるのだ。

 エリザベスはアレクサンダーのえくぼの真んなかにそっとキスをした。アレクサンダーは本当に可愛い、温かい。そしてエリザベスもまた、寝ずの番ができるほど大きくはなかったのだった。

 チャールズが子どもたちを見つけたのは、林檎園のなかの納屋にある手押し車のなかだった。小作人のランタンに照らされた、おでこと膝、手と手、両のつま先。金髪と褐色の髪がすっかり混じり、そのふたつの身体は既に、大人同士が忘れ形見に贈り合うあの真心の証―心臓の象徴的な形態を形作っていた。親の目には、ふたりの間にあるアレクサンダーの紋章入りのロケット―爵位を示す苺の葉模様の盾型紋章のほうがより際立って見えていたが。

 子どもたちをあまり長い時間一緒にしてはいけないのだ。ほっと胸をなで下ろすとともにチャールズは思った。これからはふたりを離して育てよう。エリザベス・ターナーとアレクサンダー・キャリントン卿はいずれ結ばれねばならぬのだから。



「お父さま、あんまりですわ」

 エリザベスは父と対面し、やっとのことで声を絞り出した。

「お言葉ですが、それは勝手すぎます。アレックスはやっと十六になったばかりというのに」

 書斎でマホガニーの書き物机に片手をついたチャールズは、娘の硬い面持ちとは対照的な表情を浮かべていた。

「何も早すぎるということはない、リジー。お前たちを結婚させた後、金を出して彼を一年か二年、学校にやろうというわけだ。お前は待ちすぎたくらいなのだぞ」

 そこで、はは、と笑いが漏れる。はは、分かったぞ。

「よそのご令嬢がたが可愛いアレックスに目を留めて、口説くんじゃないかと心配しているんだろう。だから先に婚礼を済ませておくのだよ」

 チャールズは押し黙ったエリザベスをよそに話し続ける。この屋敷は聖なる文句で守られているのだと信じきっているのだった。

「父親もなかなかの美男子だったよ。この頃あの子は本当によく似てきた。馬車の事故がもとで亡くなったという知らせを聞いたときは辛かったが。誰もあいつを馬には近づけんように見張っておったというのにな」

 あれから九年目の秋。薄く開いた窓辺にはまだ手のつけられていない林檎がつやつやと光っている。

 林檎の甘い匂いはどうも腐敗の予感をも湛えているようで嫌いだ。いつかのあの日を無意識に思い起こしながら、エリザベスは思った。熟れながらじりじりと終わってゆく日が紅の球体に凝縮されている。楽園喪失はその誘惑に耐えられなかったからこそ引き起こされたものではなかったか。死すべき定めの人間は、だからこそその香りに魅了されるのだ。

 窓の外は金色と銅色、赤褐色や茶で溢れ返っていているだろう。父の目の前を通り過ぎ、天井まで届く二階の窓から見下ろせばすぐに分かる。いつものように真下のポーチに横たわって読書をしているアレクサンダーの姿が。ヤグルマギクの青さの瞳は難解なラテン語の本を読むために俯いているときでさえも丸く輝き、昔のままのえくぼに挟まれたくちびるは緩い弧を描いているだろう。彫刻は年月を経て丸みを帯びてゆくものなのに、人間が逆だとは!

 エリザベスはすきま風に身を震わせ、アレクサンダーにショールを掛けてやりに行きたいと強く願った。父には届くまい。

「私には愛なんてまだ分かりません。お父さまの望む人と結ばれるだけですわ」

「旧友の息子とな。時が解決してくれるさ。アレックスは立派な紳士になって帰ってくる。お前が淑女になる間にな。そのとき愛が生まれないとも限らんじゃないか」

「でもあまりに若すぎるわ」

 エリザベスは消え入りそうな声で囁いた。どうか彼を遠くにやらないで。彼を大きくしないで。

「そうさ、あの子は若い。だが日々大きくなっているのだよ」

 やがて婚礼の日が来て、内陣へと辿り着いたエリザベスは花嫁衣装のなかで震えた。薔薇は何枚もの花びらを重ねても風雨に身を震わせる。薔薇?今は冬のさなかだというのに。教会の庭の花々はとうに散り、ガラス窓をさらさらと淡雪がこする。

 昔のままに手だけが温かい。登り詰めた幸福の頂上はあまりにも寒すぎる。牧師の文句を復唱したとき、エリザベスにははっきりと分かった。何かが確かに自分と世界の間に割り込んで、永久に隔ててしまった。エリザベスは罪を犯したのだろうか。ここは凍りつくほどの寒さだ。してはならない約束をしてしまったの?

 アレクサンダーが微笑む。囲い込まれたエリザベスは牧師と会衆に異議を唱えることもできず、ただその微笑みに応えた。

 アレクサンダーは、翌日の早朝に馬車で旅立った。



 お嬢さん、カンタベリーの街の鍵を贈りましょう

 ロンドンじゅうの鐘の音が我々の婚礼を祝福するでしょう

 もしも私の歓びに、たったひとりの愛しいひとになってくださるのなら

 共にどこまでも歩いてゆきましょう


 エリザベスは小声で口ずさみながら街路を歩く。街の喧騒はそのわらべ唄をかき消してしまったが、そんなことは気にしない。ハイヒールが泥水を跳ね返して象牙色の絹のドレスを汚したが、エリザベスは腕に抱きしめた籠が守られていれば安心だった。

 寄宿学校の門衛詰所で名前を伝えると、そばを数人の若者たちがすり抜けた。はち切れるほどの若さを誇示するように笑いさざめきながら門の奥へと走っていく。数分もすれば噂は広まってしまうだろう。キャリントンの奴の奥さんが訪ねてきたぞ。

「アレクサンダー・キャリントンさまはちょうど外出なさっております、奥さま。なかでお待ちに?」

 面談用の応接間へ通されたエリザベスは、ドレスの胸もとにしまい込んだ手紙の存在を思い出した。アレクサンダーの手紙はいつも短い。結婚はふたりを結ばせるとともに遠ざけるものだ。幼い頃はあんなに遠いと思っていた村でさえ、今では馬でひとっ飛びなのに。もしもアレクサンダーが不機嫌な顔で現れたらどうしよう。

 暖炉の火の様子を見に、何度かメイドがやってきた。いつのまにか帰らねばならない時刻になっていた。エリザベスは仕方なく応接間を出て、学内の廊下をあてもなく彷徨う。

 すると、学生たちの一団が影のように通り過ぎ、奥の部屋の扉に入っていくのが見えた。そのなかに、エリザベスはアレクサンダーの横顔を見たような気がした。

 扉の隙間からこっそりと覗くと、なかには若い紳士が六人。ひとりはやはりエリザベスのアレクサンダーだった。ランプの丸い輪の守護から離れて、若者たちからやや離れたところにいた。寝台の端にはひときわ背の高い少年が脚を組んで腰掛けている。ほかの者より年上なのだろう。

 ひとりがアレクサンダーの金髪をくしゃくしゃにし、もうひとりがその肩に腕をまわした。柔らかな巻き毛、年齢より華奢で小柄な体格のせいで、アレクサンダーは少年たちの子犬に見える。少年がこんなふうにじゃれて遊ぶものだということは、村人をよく見ているエリザベスにも分かっていた。アレクサンダーの表情はエリザベスの側からは見えない。

「キャリントンの妻が来たって話を聞いたぞ。もう所帯持ちだなんてな」

「なかなか綺麗な女。ドレスの襟ぐりが深かった」

「あのドレスの汚れ、街角で客でも取ってきたんじゃないのか?」

「何だと!」

 彼らはどうすればアレクサンダーを怒らせられるのかよく知っているのだ。そして彼には決して仕返しができないことも。

「そう、あの籠に入った金が今晩、亭主の酒代になるのさ。―誰か、マッチを持ってるか?」

 背の高い少年はひとりからマッチを受け取ると、火をつけて試しにアレクサンダーの耳を炙った。咄嗟に床にかがみ込んだ彼の握りしめた拳が見える。

 エリザベスははっと息を呑み、目を背けた。やめてやめて。叫び声が喉に詰まった。噛みしめたくちびるに血が滲んだとしても、今飛び出していくわけにはいかなかった。

 応接間のテーブルに手紙を残し、ショールをしっかり身体に巻きつけて外へ出てゆく。籠をあんまりきつく握りしめたので持ち手がきしきしと鳴った。アレクサンダーに渡すはずだった菓子は雨ですっかり台無しになってしまった。今日は歩いて帰ろう。ひとり歩きを咎められたとて構うものか。可愛いアレクサンダーはエリザベスの見ていないところで日々大きくなる。大きくならねば。



 休暇で帰ってきたアレクサンダーをひと目見て、エリザベスはあの秋の一夜から続けてきた母親ごっこが積まれた林檎のように崩れ去るのを感じた。

「エリザベス、ただいま。ずっと待っていてくれたんだね」

 ピンクのドレスで着飾ったエリザベスは、衣擦れの音をさせて玄関ポーチからアレクサンダーの腕に飛び込んだ。待っていましたとも。あなたに会うためだけに息を吸っていたの。彼の背は前の休暇のときより伸び、背中が―妻にだけ分かるほどだが硬く大きくなっていた。双眸には松明の焔が赤々と照り映えている。その色がエリザベスの心に、まるでタペストリーの丸い焼け跡のように彼専用の一度入ったら出られない小部屋をこしらえた。

 アレクサンダーが花嫁の手を取ると、屋敷じゅうの蝋燭が消されて召使いが去り衣服の山は床に散らされて、すべてが天蓋付き寝台の帳に包み込まれた。

 斜めに格子の入ったガラス窓からしんしんと降りしきる雪が見えるはずだ。心の目には見えている。ドーム状の天上から尽きることなく降り注ぎ、気をおかしくしてしまいそうな白い白い雪が。軒から滴る水音。遙か遠くの谷間で身を寄せあう馬の群れ。熱く煮えたぎる血を隠したアレクサンダーの腕。ふたりの息は白い。怖くないよとアレクサンダーは囁いた。彼はエリザベスの知らないことを知っているようだった。その目、その額、そのくちびる。外は冷たく内は熱い。互いの腕が混じりあい、どちらのものだか分からなくなる。

 今後人生で幾度こんな冬の夜を過ごすのだろう。アレクサンダーとたったふたりきりで。遠くで聞こえる馬のいななき。あれは誰の声?林檎が丘の向こうにぽとりと落ちた。さあ、もう帰りましょう―。



 どんなに小さなものでも、冬の森は誘い込まれてしまいそうになる。屋敷からあまり遠く離れてはいけない。悪い魔女に呪いを掛けられてしまうの。

 ドレスや帽子と同じ灰色の靴が降り積もった雪の下の小枝を踏みしめる。その音はエリザベスの髪の根をぞくぞくするほど冷やしたけれど、腕に抱きしめられた金髪の幼子は喜んで笑い声をあげた。エリザベスが子どもを下ろすと、彼はまだおぼつかない足取りでいつもの遊び場へとまっすぐに走ってゆく。エナメルのロケットがきらりと光った。この子はもうどの石だか分かっているのだ。エリザベスはゆっくりとその後を追い、腰を下ろして冷え切った墓石にぴったり身体を寄せる。

 アレクサンダーは、ふたりの初めての子どもが生まれた年の秋、馬から落ちて死んだ。享年十八歳。目立った傷はなかったはずなのに、晩になって打撲した膝の関節が腫れ上がり、異変に気づいたときには既に息がなかった。その祖父も、その父も、三人の兄たちも同じ病気で年を取れずに死んだのだ。灰色の細い木々は天高く伸び、墓石の足もとの草は鮮やかな緑。草木が育ちゆくのを誰にも止められはしない。

 夕暮れが迫る冬枯れの森を、わらべ唄を歌いながらどこまでも彷徨っていこう。小さなアレックが大きくなって、いつか私の手を離れるまで。

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