一番うるさい夏の日

遊川伊波

僕の殻

 十七年と十三年、蝉は素数の周期で成虫となるから、違う種類同士はお互いにあまり干渉しない夏を送るというのを聞いたことがある。

 ところが今年はそうではないみたいだ。聞こえたくもない蝉の鳴き声が、今まで生きてきた中で一番うるさい気がした。二二一年前といえばエジプトでロゼッタ・ストーンが見つかった年とかで、その当時もきっとうるさかったのだろう。エジプトに蝉なんかがいるのか分からないが、日本では今よりもうるさく羽を伸ばす蝉の姿が容易に想像できる。

 渡り廊下から校庭を見つめる。窓際に木々が生い茂ってはいるが、どこにそんな蝉が隠れているのか不思議である。本当は蝉なんて存在しなくて、自分の頭の中だけに鳴り響く音なんじゃないかと疑ってしまうほどだ。誰もいなくなった、どこか寂しそうな校庭とトラックは夏に似合わなかった。

 工芸室から帰る途中、よくわからない木箱を作った際に、余るはずのなかったか細い釘をポケットで遊ばせる。時折指に刺さって身体がびくっとなるが、冷たさが心地よくて、教室に戻る間は無心でそれを触り続けていた。

 クーラーが付いているのかいないのかはっきりしないような教室で、溶けるようにして席に着く。

「こんな暑いんじゃ死んじまうってのに、なんとも今年は蝉がうるせえな」

 窓際は中庭のおかげで日差しは遮られているが、熱気だけはどこからともなく漂っていた。

 うんざりしてもしきれないのが夏ってものだ。

 予鈴が数学の始まりを告げ、夏に呼応するかのようにだらけた同級生たちが戻ってくる。勉強せざるを得ない年であるが、全くもって身が入らない。前から三番目の窓際という絶妙に目立たない席が、ささやかかもしれないが僕を夏から隠してくれている気がした。

 この席からも見える校庭の木には一本だけ他の木よりも細いものがある。よく見ると、そこには一匹だけ蝉がいた。僕に見つかるくらいなんだから、目立ちたがり屋なのかもしれない。

 ポケットの中にあった釘を、再び掴んだ。心の中でそれを蝉の背中に突き立てて、そのまま中心をまっすぐ貫く。蝉に対していらだっていた。うるさいだけでなく、心をざわつかせる何かがあった。

 蝉はじたばた暴れるも、自分の中心を刺す釘が邪魔で飛び立つことはできない。それは想像だった。誰しもがする、ちょっとした出来心の。しかし気が付くと、ポケットの釘は消え去っていて、実際にその蝉の背中にあるのが見えたのだ。

どういうことだ。

夏の暑さで頭が沸騰してしまったのか。

 数学の授業はいつの間にか練習問題を生徒が解く時間になっていて、廊下側の生徒が誕生月で当てられると、いやいや席を立った。

 落ち着き払ったフリは保っているつもりだが、内心穏やかでない。何らかの原因で記憶を失っているのだとしても、周りは日常そのものだ。僕だけが何かおかしなことになっているらしい。いや、おかしいのは世界かもしれない。

 再び、幹の細い木を見やる。やはりそこには釘を打ち付けられた蝉がいるだけだった。

 羽ばたくのはやめたが、今度は鳴きはじめていた。

「ふうーーーーっ」

 僕は考えるのをやめた。ため息をついて椅子にもたれる。

 そしたら考えることをやめられなかった。

 なぜなら、僕のみぞおちの上あたりからも、鉄製の棒状のものが貫かれていたのがみえたからだった。


 これがどっきりだったとしたら、何が何でもそれを受け入れるだろう。むしろそうであってほしかったところだが、どこにもカメラはないし、僕は芸能人でもいじられるような明るい同級生でもなかった。

 胸を貫く釘に触れる。感触はあったが、爪だとか髪の毛みたいな感覚に近く、まるでもともと自分の体の一部であるかのようだ。違和感と言われれば違和感はあるが、昔からあったかのように馴染んでしまっていた。普通なら、もっと大騒ぎしてしまうだろうが、突飛すぎてどこか他人事のようにも感じてしまい、不思議と落ちついてしまった。

 最後の授業が終わり、帰り支度を整える。

 三度目、席を立ちながら蝉を見やるが、相変わらず単調な鳴き声を上げるだけだった。

 彼は何年の間、地中で過ごしてきたのだろう。自分の意思を持って地上に出てきたということは、おそらく自分が今夜脱皮すると気づいたのか。

 それがなんだかムカついた。

 自分の内に押し込んでいたやるせなさが胸を叩く。

 今年こそはと思ったのに……。僕は、一体あと何年過ごせばこの殻を破れるのだろうか。

 漠然とした不安があたりを暗くしたのか。外界と気分が繋がっているようで慰められた気分だった。本当は雲が気まぐれに太陽を隠しただけであっても。


 帰り道、いつも乗る電車の時刻を過ぎてしまっていて、足取りが重くなっていることに気が付いた。

 誰も僕に刺さった釘には気が付かない。

 当然だろう、こんなものが他の人の目に映っていたら、きっと病院送りにされている。

 足の先をみつめながら歩く。昔はもっと前を見ていた。それこそ幼かった時の、近所の遊具が少しと、あとは広めの林がある公園を、虫だって蝉だって日が暮れるまで追いかけまわしていた。

 目の前から僕を包み込むように水流が流れてきあたりを満たす。それは記憶の波だった。蟻の行列をじっと観察したこと、蝶の羽ばたき方を真似しようとしたこと、背の高い木をぐるぐる回りながら見上げて上っていたこと。何にでも心を躍らせて色々なものを見てきた。


 初夏の学校の帰り道、セミの抜け殻を友達が見つけた。一緒に帰っていた皆は気持ち悪がっていて、その持ってきた男の子も嫌がるのを面白がって、好きだった女の子に追いかけ見せてはけらけら笑っていた。

 でも僕はどうしてかその抜け殻がキレイだと思った。

 自分の体だったものが確かにそこにあったという証拠になって、殻が光を透かしていて、壊れてしまいそうな儚さがあって、宝物みたいだと思った。

 僕は惹かれるようにしてその子に近づいたが、ふざけあったはずみで抜け殻はバラバラにつぶされてしまっていた。


 その夜、セミの脱皮をどうしても見たかった僕は、両親に頼み込んで公園へと向かった。母親は夜も遅いことに反対したが、父親は僕の稀なわがままに快く許してくれた。

 月が明るくて、手に持っていた懐中電灯はほとんど意味がなかったけれど、僕はこの高揚感がたまらなくて、懐中電灯のスイッチをつけたり消したりしながら父と共に公園を目指した。

 林は月明かりを幾重にも不規則に引き裂く。二人で一応音を立てないように忍び足で幼虫を探す。公園の手前側から探していくが、なかなか見つからない。

 ここにはいないのかもと半ばあきらめていたら、父が大きな木の陰になった分かりづらい所に、細い木があるのを見つけた。

 あそこだけ一応探してみるかと、期待もなく近づいていく。

 すると小さな何かが見えた気がした。僕は一回立ち止まって目を凝らす。隣を見やると、にやけながら目で合図された。そのまま前へとゆっくりと近づくと、ただの抜け殻だと思ったが、よく見るとちゃんと中身があった。

「お、こいつは大きいな!」

 父が声を潜めながら嬉々として言う。

 どきどきしはじめた。

 ついにセミの脱皮が見れることがうれしくてしょうがなかった。

 しばらく待つと、背中が割け、徐々に真っ白な蝉のようなもの出てくる。それに伴って、抜け殻に透明が色づいていく。

 一晩中それを見守って、大切に抜け殻をもらうと帰路についた。

「よくあんなに土の中我慢できるよ」

「それは違うぞ」

 えっ。僕は父の顔をまじまじと見つめた。

「セミはな、我慢しているわけじゃない、じっと機を窺っているのさ。だからあれは我慢じゃなくて、辛抱をしているんだよ。実はすごい奴なんだぞ」

 幼かった僕には少し難しい話だったが、印象に残っていた。


 目の前を快速電車がものすごい速さで通り過ぎていく。

 現実へと引き戻される。過去も現実の一つだが、今まですっかり忘れてしまっていたことを思うと、現実とはなんと不確かなのだ。あの時、確かに僕は蝉の抜け殻を宝物のように保管していたが、今ではどこにやったのかも分からない。

 むしゃくしゃした。相反する二つの感情の間に揺さぶられ続けている。

 ———ギリッ。

 奥歯を噛みしめると、目の前に停車した電車を背に学校へと走り始めていた。

 なんで走っているのだろう、走り始めてから自問した。僕はこんな体が先に動くタイプだったか。おそらくそんなことはなかったはずだが、走らなくてはいけない気がいたし、走りたかった気もしたのだ。

 突然に釘を打ち付けられて、何年も何年も地中でくらし、二週間程度しか生きられない地上にやっとでたのに自由が奪われて、あの蝉は何を思ったのか。

 僕に刺さった釘は、今日刺さったわけではないのだろう。今まで見えなかっただけで、釘はずっと刺さっていたのだ。高校最後の大会が中止だと決まったあの日から。


 滲み出る汗を腕で拭いながら、校庭へと走ってあの細い木を目指す。

 蝉はまだそこに打ち付けられままだった。僕は制服が汚れるのも構わず、木へとしがみついて登る。

 夜だからか、静かになっている蝉へそうっと手を伸ばして、釘を思い切り引っこ抜く。

 意外と釘は甘く刺さっていて、僕は反動で転げ落ちてしりもちをついてしまった。

「いっつううう……」

 打ったお尻をさすりながら、丸くなって腹の方へ小さく唸る。

「あれっ?」

 いつの間にかに自分の胸の釘も消えている。

 ジジジジジッ。

 座ったまま見上げると、蝉が月光の中へと吸い込まれていった。

 ははっ。

 笑い声を一つ上げる。何かが吹っ切れた。

 理不尽はいつだって突然だ。だけれども、あの蝉は飛ぶことも鳴くことも諦めなかった。そして、あの日見たセミはずっと辛抱していた。

 立ち上がって、体中の汚れを払う。

 折角だ、トラック一周して帰るとするか。


 ジジジジジッ―――。夜中だってのに、どこかで蝉が鳴いた気がした。


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