一生のお願い

やませ

第1話

ある朝、彼女は目を覚ました。

何の変哲もない至って普通の春の朝である。

彼女はベッドから体を起こすのと同時にカーテンを開いた。

窓から外を見やると満開の桜が花吹雪を散らせている。

どこからともなくウグイスのさえずる声も聞こえた。

「もうそんな季節か……」

そんな独白をこぼしながら彼女はいつも通り洗面に向かう。

「――え、?」

そして、そこで彼女はようやく気付く。

「――私、なんで……」

鏡に映った彼女の瞳からは一筋の涙が流れていた。

悪夢でも見ていたのだろうか。

それとも極度に目が乾燥でもしていたのだろうか。

少なくとも彼女には自分が泣いているという自覚は一切なかった。

「――――」

しかし彼女は自分の涙を鏡で見た瞬間、何故かとても寂しい気持ちになった。

泣いている理由は分からない。

それでも何かそれ相応の出来事が自分の身にあったような、そんな気がした。

「――まぁ、たまにはそんなこともあるか」

しばらく逡巡して、それから彼女は顔を洗った。

当然、涙はきれいさっぱり洗い流される。

それに伴って自分の寂寥感もどこかへ流れていった気がした。

起き抜けの洗顔は気持ちがいいものだ。

ボーっとしていた頭がシャキッと切り替わっていくのを実感する。

まさしくスイッチがONになるこの感覚が彼女は堪らなく好きだった。

洗面から部屋に戻り彼女は出掛ける身支度を開始した。

格好は高校の制服。いわゆる華のJKというやつである。

朝食のパンを片手に彼女はせわしなく準備を続けた。

かばんに使いもしない教材を詰め、叱られない程度の化粧を顔に施す。

1時間もしないうちに全ての身支度が終わり彼女は玄関に向かった。

「お!遂に今日で記念すべき100人目だ!」

出発前にそのことに気がつき彼女の気分が一気に晴れやかになる。

その調子のままにドアを開き彼女は学校へと出発した。

桜並木の通学路を制服で歩いていく彼女。まさしく絵になる光景である。

その姿からは起床時の涙と寂しさの影はもう跡形もなく消え去っていた。

こうして彼女の1日は今日もまた幕を開いたのだった。









ある朝、僕は目を覚ました。

暦ではもうとっくに春だというのに朝晩の冷え込みはまだ依然として強いままだ。

「全く、嫌になるぜ……」

自身の寝覚めの悪さも相まって僕は布団から出る気をなくしてしまっていた。

眠気に任せて惰眠をむさぼる。

刹那的な欲求に屈して二度寝を決め込んだその時、僕の視界に枕元の目覚まし時計が映り込んだ。

時刻は既に遅刻ギリギリだったがそんなことよりも気になったのは日付の表示だ。

「そっか、そういえば今日だったな、」

時計の示す日付、それは僕の通う高校の卒業式の日だった。

僕はあろうことか自分の高校生最後の日を失念していたらしい。

もっとも、そうであっても仕方がない理由はいくつかあった。

第一に僕はもう丸1か月以上学校に行っていない。

誤解を防ぐため先に言っておくと、僕は断じて不登校などではない。

ただ大学受験の関係で僕の高校は2月から自由登校になっていただけである。

そのため僕は、この期間を受験勉強に集中して過ごしていた。

学校に行かなくなったことで特に不便を感じることはなかったが、

強いて挙げるとするならカレンダー感覚が完全に崩壊してしまったことだ。

時間割も何もない同じような単調な日々を過ごしていれば当然である。

正月ボケという言葉があるが言うなれば僕はその強化版のような症状に襲われていた。

「――行くのダルいな……」

心の声を呟いた後で、僕は最後の登校準備を開始した。



眠っている体を無理矢理動かし僕は玄関を出た。

いかに行くのが面倒であっても、卒業式をサボる程の気概はない。

拘束時間が普段よりも短いだけマシだと自分に言い聞かせつつ僕は慣れ親しんだ通学路を進んだ。

「ここを歩くことも、もう当分なくなるのか」

歩きながら僕はふとこんなことを思った。

流石の僕でも最後の登校には多少なりとも思うところがある。

といってもまぁそれは卒業の感慨と呼ぶには些か軽すぎる感情だ。


振り返ってみれば恐ろしく平凡な高校生活だったと思う。

別段成績が優秀だった訳でもないが、赤点の常習犯だったという訳でもない。

帰宅部ではあったが友人にも程よく恵まれ、クラスで孤立するなんてことも3年間で一度もなかった。

大学受験にも無事成功し来月には上京して東京の大学に進学する予定だ。

まさしく順風満帆。自分で思い描いた通りの高校生活を送ることができた。

こんなわけで僕には自分が奇跡的なまでに平均的な高校生であったという自負があるのだ。


家から10分ほど歩き、電車に40分ほど揺られる。

そして高校の最寄り駅から歩くことこれまた10分。

僕は最後の高校への登校を無事に完遂した。


教室に入ろうと滑りの悪いドアに手をかける。

教室は既にクラスメイト同士の賑やかな会話に包まれていた。

1か月以上振りの登校はつまり、1か月以上振りの友達との再会を意味する。

僕は久し振りに会う友達と軽く話をしながら自分の机へと向かった。

机の上には小さなコサージュが置かれていた。

僕が何となくそれに視線を傾けていると

「久し振りだな、城崎きざき!付け方わかんねぇのか?」

背後から君嶋きみしまが怪訝そうな様子で僕に声をかけてきた。

君嶋は僕と特に親しい友人の一人だ。

1年生の時にクラスが被ったことがお互いの最初の出会いである。

君嶋も僕と同じ帰宅部だったのでそれがきっかけで意気投合。

あまり共感はされないだろうが、うちの高校は部活動が盛んだったので

自分以外の帰宅部を見つけられただけで僕らはとても嬉しかったのだ。

「久し振りに会って言うことがそれかよ」

僕はコサージュを自分の制服の右胸に着けながら応えた。

まぁこの軽口が君嶋らしさなのでそれに少し懐かしさを感じたこともまた事実である。

が、こんなことは口が裂けても本人には言えない。

なんてったって女々しすぎる。

「何ボーっとしてんだよ、卒業式始まるぞー」

「あぁ、悪い」

教室を出ようとしている君嶋の声で我に返り、僕は慌てて彼の後に続いた。


そして僕の高校生活を締めくくる卒業式が始まった。

3年間で完全に覚えきれなかった校歌をうろ覚えのまま歌い、

長ったらしい来賓や校長の話を聞く。

生徒数が多いので僕が校長から直接卒業証書を手渡されることはなかった。

こうして僕の3年間が、まさしく青春の代名詞である高校生活が、

文にしてたった三行の薄っぺらい式典で幕を閉じた。


式が終わった後は、生徒同士で写真を撮ったり、

部活の後輩との最後の会話を楽しんだりと皆が思い思いに時を過ごしていた。

僕はそうした喧騒の中で君嶋を探していた。

式が終わって以降、一度も姿を見かけていなかったのである。

「せめて卒業前にそれらしい挨拶くらいはしたかったんだけどな……」

しばらく探し歩いたが一向に見つかる気配はない。

部活にも所属していなかったアイツが一体どこで何をしているのだろうか。

校舎を隅々まで巡り、グラウンドにまで出てみたがやはり君嶋の姿は見当たらなかった。

こうなると、状況的に残された可能性は残り一つだけである。

「あの薄情者め。さてはもう帰りやがったな」

結局、僕は仕方がないので家に帰ることにした。


卒業証書の入ったケースを片手に校門を出る。

門の周りは<卒業証書授与式>の看板とそこで写真を撮る卒業生で賑わっていた。

悲しそうな顔、楽しそうな顔、晴れ晴れとした顔。

その場にいる卒業生の表情はとても豊かで、

それが彼らの送ってきた高校生活の充実度合いを如実に物語っていた。

そんな人ごみの中を僕は足も止めずに歩いてゆく。

誰を呼び止めるわけでも、誰に呼び止められるわけでもなく、

ただ一人で、普段の下校となんら変わらない足取りで進んだ。


僕は高校から駅までの道中にある歩道橋の上で歩みを止めた。

いつもは下の横断歩道を利用するのだが、何となく今日は歩道橋に足が向かっていた。

見下ろせば下の大通りをたくさんの車が行き交っている。

歩道に目をやればスーツに身を包んだ大人達が闊歩している。

それはまさしく日常そのものだった。

けれども、その日常をたった一人で眺めている僕はなんとなく異常な気がした。

高校生最後の日。

それは普通に考えれば非日常に分類されて然るべき日のはずである。

しかし、僕にとっての今日は何の変哲もない365日の中の1日としか思われなかった。

さっきも言ったが僕は自分の高校生活に不満は一切ない。

平凡な学生生活ではあったが、裏を返せばそれは全体の半分の高校生よりかは

恵まれたものだったということでもある。

それなのに感情がこうも白けきってしまっているのは何故なのだろう。

卒業式で見かけた顔は明暗に差はあれど、どれも感情深いものであった。

僕とほぼ同じような境遇であったあの君嶋ですら表情に味があった。


「何が、違ったんだろうな」

誰にともなく呟いて、僕は自嘲気味に笑った。

そもそも論として、卒業後にこんなことを考えている時点で後の祭りである。

今更考えたところでもう何もできないのだから。


僕は満足のいく答えを見つけるのを諦めて歩道橋から歩きだした。

その足取りは登校時のそれと比べて明らかに重く、そして不安定だった。

未だ頭は無益な考え事を振り払いきれていない。

脳みそ全体にぼんやりとしたもやがかかっているような、そんな気分だった。

しかし、そんな意識は一瞬にして冴えを取り戻した。否、取り戻さざるを得なくなった。

「――あっ」

不意に、僕の体を謎の浮遊感が襲ったのだ。

慌てて足元を見ると、僕の右足は見事に歩道橋の階段を踏み外していた。

血の気の引く感覚とともに脳が次第に状況を理解し本能的な警告を発し始める。

その刹那、僕の体は勢いよく音を立てて階段を転がっていった。

右肩、左ひざ、左わき腹、首、再び右肩。

人体を構成するおよそ全ての部位に痛みが走る。

階段を下りきったところで僕の体は乱暴に歩道へと投げ出された。

視界の端には行き交う車のタイヤと野次馬と思しき人々の足元が映っている。

これらが見えているということは一応どうやら僕は無事らしい。

その安堵感と同時に僕の意識は暗転した。





「――こえます――?」

「――聞こえ――すか?」

「――聞こえますか?」

耳元で女性の声がした。

僕は今どうなっているんだ?

歩道橋で階段を踏み外して、それから……

「聞こえますか?」

思考の隙間からまたも同じ声が聞こえた。


「――は、い」

僕はなんとか今の自分にできる精一杯の声で返事をした。

「――!もう気が付いたんですね」

その女性は嬉しそうに僕の応答に声を上げた。

彼女は一体何者なのだろうか。

この現代社会で、見ず知らずの自分をここまで心配してくれる人は相当珍しいように思われた。

その行動から当然といえば当然であるが、

彼女の声色はとても優しくお人好しな性格がにじみ出ているようであった。


「これ、何本に見えます?」

次に彼女は意識を取り戻した僕に救命隊員のようなことを尋ね始めた。

おそらく彼女は指を僕に見せているのだろう。

僕はそれを確認しようと目を開いた。

眩しい。光が一気に瞳孔を通して脳に侵入してくる。

しばらくして瞳がなんとかゆっくりと像を結び始めた。

目に映った光景はどうやら意識を失う直前に見たそれとおよそ同じものようだった。

違いとしては景色のど真ん中にピースをする手が加わったくらいだ。

「えっと……2本?」

僕は目に見えた本数をそのまま素直に答えた。

「オッケー、バッチリ見てるみたいですね」

彼女は僕の回答に安心したように言った。


「いてててて……」

僕は軋む体に鞭を打ち、身を投げ出した体勢からゆっくりと立ち上がった。

幸いにも僕の体に致命的な損傷は無かった。

無論、全身打撲でかなりのダメージを負ってはいるが。

「急に動いて大丈夫ですか?」

僕はそれを聞くと声のする方へと反射的に振り向いていた。

僕の視界に声の主と思しき女性が映る。


驚いたことに、彼女は女子高生だった。

茶髪のショートカットにリボンのついた制服。

さながらJKという概念を具現化したような女性がそこに立っていた。

失礼な話、およそ人助けなどしそうもない容貌である。


「君は、一体……」

本来なら僕はここで感謝の言葉を口にすべきはずだったのだろう。

しかし僕の口をついて出たのは純粋な疑問の言葉だった。

いかに同世代といえども失礼が過ぎたな、と反省するもこれまた後の祭り。

言葉を取り消すこともできず僕は彼女の次の言葉を待つしかなかった。


すると彼女は不意に僕に近づいてきた。

元々近かった距離感が一気に縮まってゆく。

彼女の予想だにしない行動に僕の体には緊張が走った。

――そして彼女はいたずらっ子のように笑ってこう言ってのけた。



「私は貴方の願いを叶えに来ました。貴方は私に何を望みますか?」



満面の笑みを浮かべた彼女はさながら羽根のない天使のようだった。


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