最終話

 街路樹もない暗闇の世界を車が走る。窓を開けて夜風を浴びながら、欠けていたピースを一つ一つはめていった。

 思えば簡単なことだったんだ。私の記憶が蘇ることなんて、一足す一が二であるくらいに必然のことだった。

 なぜならそこには、愛があったから。部外者に説明出来る根拠はないが、二人しか分かり合えない、濃厚な愛の形が心に刻まれていたのだから。

 私はこの日を彼女に何年も待たせてしまった。何も知らずに自分の環境を憎んだ時も、自身をここまで愛してくれている人に挟まれて過ごしていながら、他人に劣等感を抱いて生きる意味を失くした時も、自殺なんて最悪な思考が回った時も、ずっと彼女は望んでいた。私が幸せを再び掴み取る日が来ることを。

 ママも同じだ。二人の気も知らないで、一瞬でも努力を水の泡にしようと考えた自分が酷く憎らしい。

 気づいたら、窓の景色に見慣れた住宅街が映り込んでいた。そのまま私たちの暮らす家も通り越して、ママは近所の大きな屋敷の入り口で車を停止させた。暗闇の中でも可憐さを感じさせる豪華な外観は、お姫様のお城を連想させなくもない。

「今の由紀奈、誰かに恋しているみたいで、ママは嬉しいわ。早く行きなさい」

「ありがとう、ママ!」

 座席から急いで飛び出し、長い敷地を一直線に駆け抜けていく。

 今の私が恋をしているみたいか。確かにそうかもしれない。明確な恋愛感情というものを知らないので何とも言えないが、この愛はもはや友情の域を逸脱していると感じる。

 多分、私は恋愛観においては普通の女性だ。実のところを告白すると、小学一年生の頃に、優しくしてくれていた一人の男の子に微かながら恋心を抱いたことがある。

 でも、この胸を支配する霧のようなものが言っている気がする。私は、私のヒーローである未希さんのことが、たまらなく好きなんだと。

 同性婚は認められていないし、向こうに恋愛感情があるかどうかも分からないのに、情けない話だ。

 それでも良い。

 ただ、今は自分の感情に正直になりたい。

 どうしようもなく私は未希さんを愛しているという、この恋心に。

 玄関まで辿り着くと、勢いのあまり、インターホンを一度に何回も押す。ドアノブを捻ったところで、既に鍵がかかっていないことに気づき、私は向こうの有無を問わずに扉を開けた。

「未希さん!」

 視界に、すぐに彼女は映った。殺風景なエントランスホールの中心で、こちらに目を見開く彼女の姿が。

 じんと、心の奥底が熱くなった気がした。

「ゆ、由紀奈ちゃん、どうして……その呼び名……」

「全て、思い出しました。あなたと私の、幸せを」

「そう……っ」

 彼女はくすりと笑うと、ゆっくりとこちらに歩み寄って来る。この時、ようやく私は安心感を得られたことで、辺りの景色の異変に気がつくことが出来た。

 ホールの四方の壁には、何やら金銀に煌めく星型のガーランドが飾られている。さらに驚いたことに、何十人もの人々が、壁沿いで他にもいろんな飾りつけをしている最中だったらしい。

 彼らは近くの人同士で目配せをすると、拍手だったり、「おめでとう」といった賞賛の声だったりを送りながら、幸せそうな笑みを浮かべて玄関の方へ歩き出す。私を横を通り過ぎる去り際、肩を叩いて「頑張ったね」と涙を流してくれる人もいれば、ただ微笑んで熱烈な視線を送ってくれる人もいた。

 何が起きているのか、全く把握が出来なかった。

 彼女はついに手と手が触れ合える距離まで近づくと、「近所の人たちと、サプライズをするつもりだったんだけど」と、苦い笑顔を浮かべて後頭部に手を回す。

「さ……サプライズ……?」

「うん、サプライズ」彼女は頬を染めて満面の笑みを浮かべた。「君の願いを叶えるためにね」

 願い。その単語を聞いて、二人で見上げた夜空の記憶を思い返した。

「恋がしたいって、言ったでしょ。結婚がしたいって、言ったでしょ」

「み……未希さん……」

 彼女はついに、内ポケットから取り出した箱を私に差し出した。

 小さな小さなその物体の中に、私は一般的に何が入っているのか知っている。

 蓋を開けると、彼女はちらちらと目線を外しながら、控えめな声で言った。

「形だけでも、結婚式を挙げて、ウエディングドレスを着て、指輪をはめてほしい。相手は、同性でも良いなら、私でさ」

 銀色の指輪が、明かりに照らされて煌めいていた。

「……そんな……っ、私なんかの、ために……っ」

 私なんかのために、彼女はここを貸し切り、人を集め、そして結婚指輪代をもつぎ込んだというのか。

 だが、生活費にいつも苦しんでいるように思えたが、どうやって指輪を買うだけの大金を余すことが出来たのだろうか。

 混乱している私の手を握り、彼女は説明してくれた。

「お金のことなら、簡単だよ。私も、身体呼応症候群にかかったんだ」

 頭が真っ白になる。混乱も相まって、何が起きているのかすら分からなくなった。

 だが、数秒後、私はようやく言葉の意味を理解出来た。

「……幸せになる未来を、思い込んでいたんですか……」

 彼女はにこりと微笑んで頷いた。

「先輩の借金も残りながら、不自由しかない生活の中で、私は思い込んだんだ。いつか、君がまた幸せになってくれている未来を。そのおかげで、私の身体は何があっても精神を病むことなんてなかった。現状の金銭問題を解決するために、ありとあらゆる思考が自然と過るようになって、人生における正解の道へと導いてくれた。病なんて言われようだけど、身体の呼応に悪意なんてない。自分次第で、頼もしい味方になってくれるんだよ」

「そう、ですね……っ」

 気がつけば、私は泣いていた。彼女の努力に心が揺さぶられる嬉し涙でもあれば、自分の過ちに打ちのめされる悔し涙でもあった。

 だって、彼女がそこまで頑張らなくちゃいけなかったのは、全て私が情けなかったからだ。引きこもってばかりで、何も出会いなんてなかった。そんな、自殺願望すら一瞬は抱いていた私に、彼女はもう一度幸せを掴んでほしかったから、こういった大々的なサプライズを計画してくれていた。

 恋や結婚という夢を、叶えようとしてくれた。

 彼女は指輪を取り出すと、嬉しそうに笑い、そっと包み込むようにして私の手のひらに乗せた。

「全く……あなたには、いつも敵いませんね……」

 溢れ出す涙を手の甲で拭い、はめた指輪を照明に合わせて観察する。薔薇がモチーフにされており、花首から伸びた根が円を描いた構造になっていた。

「由紀奈ちゃん、返答を聞いてないよ」

 急かすように彼女は問うてくる。いつもの未希さんらしくない赤面に、私も顔を熱くしていた。

 涙も止まりそうにない。嗚咽で言葉を発せられなくなる前に、答えを出しておこうと思う。

「私も、未希さんのことが好きでした……っ。私で良ければ……、お願いします……!」


 車で移動していた時、私の中にこのような仮説が立っていた。

 完膚なきまでに未来を閉ざされていた、未希さんと出会うまでの半年間、私は酷く自殺願望を抱いていた。

 そして、もちろん身体呼応症候群のことは医師から聞かされていた。

 この二つの条件が並び、その時の私はこう思ったのではないか。

 身体呼応症候群の思い込みで、死ぬことが出来ないだろうか、と。

 そう閃いた瞬間、当時の私が、その思考回路を組んでいたことに連鎖反応で思い出した。そして実践もしていた。自分が死ぬ姿を妄想して、想像して、体に訴えかけていた。

 ではなぜ、身体は死滅を始めていないのだろうか。当時の私は失敗したと思い、諦めていたが、今の私には嫌な予感がしてならない。

 その予感の答えは、これまでの人生を振り返れば自ずと理解出来た。

 私が神様に希望を見出し、人生をやり直したいと思うようになったのは、小学一年生、つまり六歳の頃の話だ。しかし、身体呼応症候群の症状が現れたのは、医師の推測によると、細胞の衰退具合から十二歳だという。

 その六年間と、今の私の六歳という年齢が、引っかかってならない。

 一周目の『現状の維持』という思い込みはすぐに発症したが、例えば、身体呼応症候群の症状が実際に現れるのが、六年後でもおかしくないとしよう。そうした場合、私の体が死滅を始めるのは、今からでも不思議ではない。

 未希さんとママは、私の心境次第でこの病を治すことが出来ると言っていたが、一周目の私は結局、全ての遡行を止めることが出来なかった。

 私は死ぬのだろうか。あるいは、障害を負いつつも、生きながらえることが出来るだろうか。はたまた、愛の力が、病を完治してくれるだろうか。

 その答えは全てあり得る。私は完治している姿を強く思い込んだ。



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赤ちゃんまで巻き戻り、それを繰り返す少女 卯月目 @Simakaze

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