18
病室の扉を開けると、ベッドに寝転がりながら漫画を読む男性の姿がそこにあった。
外観からして年齢は私と同じくらいだろうか。いや、凛々しい顔つきの中に、何となく幼さも感じられる。茶色の短髪で眼鏡をかけており、体系は少しやせ細っていた。
「よっ、水田君」
未希お姉ちゃんが声をかけると、彼はこちらに振り向いて体を起こした。同時に、視界に映った私を注視して、眉をひそめた。
ママは私の肩を叩いて、「由紀奈よ」と紹介してくれる。すると彼は忙しない様子でスリッパを履くと、嬉しそうに近づいてきた。
「久しぶりだなぁ、由紀奈さん」
「……」
私には彼の記憶はない。どう反応して良いのか分からず、反射的に身の危険を感じて二人の背後に体を隠す。彼は「そうか」と微笑んだ。
「記憶が、ないんでしたね」
「……」
ごめんなさい、と謝るつもりだった。だが、言葉が出なかった。
なぜだろう。目の前の彼が、とんでもなく悪人に思えてしまう。今にも襲いかかってきそうな、そんな気迫すら感じる。
全身が震えてきた。ああ、こんなのじゃ、彼に申し訳なさ過ぎる。何か言葉を発しなければ。そもそも何なんだ? この彼に対する畏怖は。
二人は私の様子に気づくと、
「ごめんね、ちょっと……まあ、色々あるの」
と、困惑して自分を責め立てる彼に釈明して病室を出た。
「帰ろっか」
「そうですね」
二人の手が私の指と絡まる。廊下を歩きながら、私は先ほどの恐怖の正体を思い出すことが出来た。
未希お姉ちゃんをいじめた、最悪な人物がいた。
あの日から私は、男性恐怖症になったんだった。
夕飯は私の大好物のカレーライスだった。いつものように食卓を囲んで、テレビのバラエティ番組に笑みをこぼす。時期にお風呂も沸けて、ママと一緒に体を洗い流した。
変わらない日常。その中で、今日の出来事が鮮明に脳裏に過る。
身体が、何かに反応している。
何かが、脳を圧迫している。
あと一押し、その何かが足りない。記憶の欠片が、あまりにも断片的過ぎるのだろうか。
深夜の二十二時。私はコートを羽織って二人に言った。
「ホタルが観たい」
そうして車で三十分近くかけて、二人は一周目の私にとって思い出の場所だという寒蘭の山奥に連れていってくれた。
凸凹で水分を帯びた茂みを、ズボンの裾が濡れないようにまくって歩く。やがて開けた地に出ると、視界いっぱいに星空が映った。
豆の知識で星座を探し出すが、特に何も見つけられない。だが、その美しさ、広大さだけで私はその夜空に魅了された。食い入るように星を見据えて、届かないと理解しながらも天に右手を突き出した。
ある程度楽しんだ後、傍で見守る二人に問う。
「ホタルじゃないんだね」
二人は申し訳なさそうに引き攣った笑みを浮かべた。
「いやぁ、流石に春にホタルは観れないからさ。また、夏になったら三人で観に行こう? 由紀奈ちゃん」
「うんっ」
そうして、そこから二時間ほどは星空観賞会をしていただろうか。気がつけば私の視界には空ではなく、見慣れた天井が映っていた。
その日を境に、未希お姉ちゃんはいなくなった。
酷い片頭痛だった。ママが言うには、この歳でそれが発症する割合は極めて低く、記憶の影響と診て良いらしい。
何だかまるで、牢屋に閉じ込められた記憶が、出せと檻を叩いているようだった。私はその牢屋を開ける鍵を探さなければならない。
未希お姉ちゃんがいなくなった理由をママに訊くと、すぐに帰ってくる、安心してといった定型文が返ってきた。確実に何かを隠している様子だったが、嬉しそうにする辺り、何か物騒なことに巻き込まれたわけではないのかもしれない。安心して、私はその日の深夜もママと寒蘭へ向かった。
目的地は繁華街だった。日記を頼りに、深夜の放浪を忠実に再現してみようと試みるが、いかんせん情報量が少なすぎるせいで、ただ無人の繁華街を歩くだけになってしまう。本当にこれで合っているのだろうか。
「どう? 由紀奈。思い出せそうかしら」
「うーん……」
既視感はしなくもない。あるいは、記憶を思い出したいという欲望の元に生まれた幻か。とにかく何か、ここで本来起きていたはずのイベントが始まらない限りは、記憶も刺激されない。私は日記を確認した。
「そこで未希さんは告白しました。昔、何があったのか……」
立ち止まって思考を巡らせる。彼女の昔。彼女はここで、何を私に話した? 昔の彼女に、何が……。
「再現しよっか?」
「え?」
「アタシの昔で良ければ、ね」
少し考えて、「うん」と頷いておく。
ママは視線を夜空に映すと、今にも泣き出しそうな悲哀にまみれた顔で語り始めた。
「アタシ、若い頃はいわゆるギャルだったのよ。モテていたし、自分でも可愛かった自覚はあるわ。でもね、バカなことにアタシ、調子に乗っちゃったの。自分では一線を越えまいとブレーキをかけているつもりだったのだけれど、周りも調子に乗っている連中ばかりで、軽い気持ちでいけないことばかりして……ついにね、由紀奈をお腹に授かったの。
そこからは辛い毎日だったわね。相手に逃げられそうになったから無理矢理結婚させて、お金がないから借金ばかり作る生活で……。そんなある日、彼が事故に巻き込まれて亡くなっちゃったの。そうなってくると子育ても大変で、色々と精神崩壊しちゃって……。それを機にアタシは由紀奈をおばあちゃんの元へ預けて、もう迷惑をかけないように死んだことにして、溜まりに溜まった借金を返すために、医療従事者になることを決意したわ。その場限りでお金を集める方法は探せばあっただろうけれど、どれも危ない橋を渡るだろうし、これからのことも考えたり、精神崩壊した時に病院にお世話になったりしていたら、その道に進みたくなったの。
けれど、その選択がさらにアタシを苦しめる結果になったわ。だって、寒蘭病院に就職してから、由紀奈が入院してきて、おばあちゃんもおじいちゃんも亡くなったって聞いて、由紀奈は不治の病を患っていて、自殺のことしか考えていなくて……。アタシは自分の惨めさに打ちのめされたわ。自分がもっと若い頃にマシだったら、こんなことにはならなかったのだからね。……でも、そんな由紀奈を、未希は変えたのよ。本当、あの子には感謝しても感謝しきれないわね」
ママはそこまで語り終えると、「少し脱線したわね」と微笑んで歩き出した。
「……辛かったんだね、ママ」
「アタシのことはいいのよ。ほら、自分のことに集中してっ」
「……」
集中したかった。だが、そんな話を聞かされたら、思考を中断せざるを得なかった。
日記には、かつてのママとの生活を、地獄だと称していた箇所があった。確かに話を聞いてみて、その気持ちを察することが出来る。
けれど、こんなにもママがアタシのことを考えていてくれたのなら、もう何も問題なんてない。今はそう思えたから、ママを抱きしめてみた。
「……」
ここまでしたは良いものの、何て言葉をかけるのが正解なのか判断がつかなかった。結果的に数十秒ほど沈黙が続いてしまうわけだが、ママの嗚咽と鼻水をすする音で、私は唇を結んで再度抱き寄せた。
「アタシは……ママは……、由紀奈がいてくれて、良かった……」
「うん……」
「由紀奈を産んで……本当に良かったわ……」
「うん……」
「アタシ……、ようやくママに……なれた気が、するわ……」
「……良かった……」
夜、この場所で、私は今みたいに誰かの生き様に悲しんで、人の温もりを知った気がする。
私の記憶を縛る何かの答えが、漠然とだが浮かび上がってきた。私はママくらい、未希お姉ちゃんに愛されていた。今私の心を満たす、誰かと寄り添う幸せは、未希お姉ちゃんから学んだ。
私は彼女が、想像以上に大好きだったんだと思う。
途端に、――その何かは込み上げてきた。
「ママ」
「何……?」
「未希さんのところへ、行かせてほしい」
「……!」
ママは真っ赤な目を見開いて、私の両肩に手を乗せる。
数秒見つめ合った後、ママは「仕方ないわね」と嬉しそうに言ってポケットから車の鍵を取り出した。
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