17

 長閑な春の風は街を覆い、残雪を道路の傍らに桜の芽を開花させた春は、いつものようにやってきた。ピンクの花びらは群青の空を舞い、行き交う人々は肌着に身を包んで爽快感を味わっている。

 私はこの春を六回見てきた。だが、私の実年齢は十八歳らしい。

 身体呼応症候群は、今も私の身体を蝕み続けていた。


 外へ出るのが、いつも煩わしかった。

 私が初めて他人の子供を見た時の衝撃は今でも忘れられない。何だこの小さい奴は、と度肝を抜かれた。

 そんな光景を当たり前のように見てくると、自分が特別な存在であることに気づくのは容易かった。一時期は、自分だけ種族でも違うのかとも考えていたが、ママの告白で、ようやく今の自分が二周目だということを理解した。

 全く、何一つ笑い話にも出来ない残酷な真実だ。新たな生命として成長を重ねていたと思ったら、もう既に体は発育済みじゃないか。脳だけ子供に戻って、一周目の自分は何を考えていたのやら。

 ちなみに、私の心境次第でこの病は治るかもしれないとのことだったが、結論から言って、一周目の煌びやかな私には出来ると思うが、今の私、そして、世界中の発症者のほとんどには出来ない。当然だろう。身体呼応症候群を発症させる者のほとんどが社会不適合者だ。そんな人間が、強く人生を楽観的に考えることが出来るだろうか。

 少なくとも、私には出来ない。人生のリセットと相反する事象は、これからの人生に約束された希望。今の私に最も欠如しているものこそが、それなのだから。

 前に一度、ママから小学校に通いたいかどうかを問われた。その頃は病気のことも熟知していたので、通ったところで何一つ将来の役には立たないこと、行くなら特別支援学校になることを理解していた。資金にも問題がありそうだし、私は断った。

 ママや未希お姉ちゃんの職場に子供たちが待っている、と何度も外出を促された時もあった。一周目の自分がよく子供と遊んでいたことは聞かされていたが、残念ながら私は断り続けた。

 外出が煩わしくて、学校にも行かず、子供たちにも会いに行かない。そうなってくると、私が世間で言う引きこもりになるのは当然の成り行きだっただろう。

 怠惰な生活を送り続けていた。二人は仕事でいつも忙しそうにしているし、パパもおじいちゃんもおばあちゃんも、二人は何も言わないが他界、または縁を切っていることは予想がついている。私が寝たと思ったら、いつも二人で深刻な表情を浮かべて何かを話し合っているのも、財布のお金を数えてため息を吐いているのも、全て私のためだと知っている。

 そうなってくると、生きるのがバカバカしくならないだろうか? 私はなった。もう死にたいくらいだ。

 確かにママも未希お姉ちゃんも優しいし、居心地も良くて大好きだ。だからこそ、こんな面倒な障害を抱えた生命には芽を摘みたい。もう二人が無理をする姿なんて見たくないのだ。

 でもまあ、私が死んでしまったら、二人の努力は水の泡になる。その方が悲しんでしまうと知っているから、何とか日々、自殺願望は抑えて生活を送っている。

 さて、閑話休題。ここで誰もが感じたであろう疑問に答えておこう。なぜ六歳の脳である私が、ここまで理性的で知的な思考能力を、知恵を持っているのか。

 あれを知るまでは、ただ漠然と何かをしながら生きていたが、あの日を境に私の脳は何かに共鳴を始め、それからおかしくなったのだ。

 あれとは、一周目の私が書き残したという、謎のメッセージのことだ。


 初めまして、二周目の私。

 あなたは今、何を思って日々を過ごしているでしょうか。

 死にたい?

 何もしたくない?

 生きている意味がない?

 あるいは、楽しい?

 後者の可能性は限りなくゼロだと想像するけど、多分、それで合っていると思う。あなたは現実が楽しくないはずだ。

 既に未希さんから説明を受けた後だと思うけど、何せ、あなたは身体呼応症候群とかいう不治の病にかかっている。そりゃ、現実から逃げたくなっても仕方がない。全てはこの病にかかった私の責任だ。ごめんなさい。

 閑話休題。

 これは、そんなあなたを立ち直らせるためのものでもある。

 少しでも、生きる意味を見出してくれれば幸いだ。


 私は未希さんが好きだ。あなたと一緒に暮らしているであろう、あの未希さんのことだ。

 多分、あなたも好きだ。もしかしたら、何か精神崩壊してしまって、きつく当たっているかもしれないけど、もしそうなら、本当は彼女はあなたをとても愛しているということを認識してほしい。

 何せ、彼女は私を救ったんだ。今のあなたのように、いえ、それ以上に自殺願望を膨らませていただろう時期に、ヒーローのように彼女は突然現れて、私を笑わせて、興味を惹かせて、生きる意味を持たせてくれた。

 彼女は私の運命を知りながら、それでも現実の全てを、自分自身の全てを投げ打って私と逃避行しようとしている。それくらい、私に全てを捧げて、愛してくれている、私の大好きなヒーローだ。

 一緒にホタルの群れを観た。

 一緒に星空を見上げた。

 一緒に遊園地を回った。

 一緒に高野市の絶景を観光した。

 一緒に子供たちと遊んだ。

 一緒に、雲隠れしていたママを探し回った。

 一緒に夜の無人の繁華街を歩いた。

 一緒に早朝五時半の寒蘭市を歩いた。

 一緒にホテルに泊まった。

 一緒に学校を観て回った。

 一緒に夏祭りに行って花火を観た。

 一緒に海に行ってはしゃいだ。

 一緒に虫取りやサッカー、鬼ごっこをして遊んだ。

 今の私には未来のことだけど、一緒に手術最後の日、二人でまたホタルを観たはずだ。

 これが私と未希さんの、二週間半ほどの闘病生活だ。どうだろう、思い出すことが出来るだろうか。

 あなたにとってこの記憶は、いわば前世の記憶に近しいもの。輪廻転生をしていないとはいえ、一度はこの私という人生に終止符を打った。もしかしたら、永久に思い出すことなんて出来ないのかもしれない。

 それでも、あなたには死んでほしくない。未希さんが頑張ってきた栄光を、無駄にしてほしくない。そんなことをしたら、私があなたを許さない。

 私にとってお母さんも大事な人だ。

 今になって思うけど、多分お母さんは、私を守ろうとして手放したんだと思う。あなたの隣にお母さんがいるかは分からないけど、いたら大切にしてほしい。私との約束だ。

 長々と書き記してしまったが、これほどの活字を幼児に読めるかと言われれば難しいかもしれない。意味の分からない単語とかがあれば、ぜひ未希さんかお母さんに聞いてほしい。

 じゃあね、二周目のあなた。

 頑張って、生きてほしい。


 私はこのメッセージを全て読むのに一日を費やした。

 難しい単語を調べていたとか、そういうのではない。

 疼くのだ。激痛が走るのだ。頭が。脳が。記憶が。

 多分、私は一周目の記憶を思い出すことが出来る。

 私にとって未希お姉ちゃんがどれほどの存在だったのか、知りたいという思いは高鳴るばかりだった。

 私が引きこもりから脱出する手立ては、この病を治す方法は、もはやこの感情以外にないだろう。

 私はママの休暇日に、二人で記憶の手がかりを探すちょっとした旅に出た。


 服装のコーディネートは実年齢相応のものにしてもらった。あえて大人のふりをして、周囲からの視線を集めないためである。

 それに、ある程度の知識を無意識に取り戻していた私にはもはや、子供の可愛げなんてない。大人ロールプレイも難なくこなせている、つもりだ。

 まず私たちが訪れたのは、佐木市の遊園地だった。親子を見る度に煩わしくなるので、なるべく視界には入れずに行きたかったが、遊園地という場でそんなことが叶うはずもなく、何とか我慢しながら門を潜った。

 ぶらぶらと園内を歩いていると、天まで届きそうな勢いの観覧車を見つけた。

 確か日記には観覧車で夜景を観たと書かれていたが、乗ってみないことには何も思い出せない。

「由紀奈が小さい頃、お父さんと三人で乗ったことがあるのよ。あの頃は借金取りに追われてばかりだったわ。その中で唯一出来たお金で、何とか贅沢をしてあげたいって思いで観覧車に乗ったのだけれど、気持ちとかも切羽詰まっていて、あまり楽しいものではなかったわね。ごめんなさい」

 ママは不意に思い出に浸るように語ると、こちらに向いて微笑んだ。

 借金取り。日記には何かに追われていたと記されていたが、借金取りにらしい。どれだけ苦労した生活を送っていたのだろうか。ママには幸せになってほしいが、私がいる限りそれも無理か。

 何となくママに抱き着いてみた。ママは微笑んで頭を撫で、楽しそうに小首を傾げてくる。

 見上げると、ママの目の下の濃いクマがはっきりと映った。私なんかのために、本当に大事な休暇を無駄にして良かったのだろうか。

 考えても仕方がないし、心配もさせたくない。ママが通常の母親の思考を持ち合わせているのなら、子供と出かけることこそが一番の休暇だろう。私はママの手を取って、観覧車へ乗車した。

 手当たり次第に乗り回した方が効果的だろうが、そこまでお金は使わせたくない。苦渋の決断だった。


「綺麗ねぇ……」

 てっぺんまで昇った観覧車から見下ろす街には心惹かれた。世界はこれほどまでに広いのだと、改めて再認識した。

 何せ、高野市ではあり得ないほどの高層ビルが、人が視界いっぱいに広がっている。都会を知らない田舎民だと当然の反応ではないだろうか。

 そう浮かれている矢先、本来の目的を思い出す。私は思考回路を精一杯巡らせて、この場所での出来事を思い返そうとしてみた。

「……どう?」

「…………ダメみたい」

 何も思い出せない。夜景でないとダメだっただろうか。

 そのまま何一つ思い出すことなく、私たちは観覧車を降りた。

「由紀奈、次はどうする?」

 ママは財布を覗いて、キャッシュカードを取り出す。

「ここに何十万と入ってるから大丈夫よ」

「うん、ありがとう、ママ」

 そのお金は本来なら別の用途で使用するものだろう。なるべく出費は避けたい。

 このまま遊園地を後にして、高野市行きの電車へ乗車した。

 隣なので十五分程度あればすぐに着く。高野市に住んで六年経つはずだが、引きこもっていたせいで駅の様子を知るのもこれが初めてだった。

 ママは持参していたらしい日記を開いて、どこを観光していたのか確認する。だが記されていたのは『観光した』という事実のみで、どこから回れば良いのか分からなかった。

「未希お姉ちゃんに電話しようよ」

 ママは申し訳なさそうに首を振った。

「今は仕事中だから、電話には出られないのよ」

「そっか……」

 私は改めてそのページの日記を読み返す。高野市と関連したワードは、マスコットのととりんだけだった。

「ママ、ととりんってどこで会えるの?」

「ととりんかぁ……。道の駅にいると思うわよ」

「じゃあ、行ってみよう」

「うん。車はやめておきましょうか。二人は歩いて観光したはずだし」

 繋いだ手を握り直して歩き始めた。


 ととりんと会ったが、やはり何も思い出すことは出来なかった。

 引っかかってはいる。漠然と、初めて見るはずの景色に既視感を抱くことは出来る。だが、ここで何をしたか、未希お姉ちゃんと何の会話をしたのか、その重要な部分は分からなかった。

 それから、とりあえず適当に高野市を観光して回った。

 高野ラーメンを昼食に挟み、高野大橋、美術館と足を運ぶが、明確な異変が訪れたのは、百光寺に登る道中だった。

「……由紀奈?」

 頭が金属で殴られたかのように痛む。ママに肩を貸してもらい、端に寄って腰をついた。

「何か思い出したの?」

「うん……」

 こうやって自然が生い茂った山道を、焼くような太陽の日差しに照らされながら私たちは登った。確かに登った。ひいひい息を切らせながら、途中は彼女におんぶまでしてもらった。

 その時交わした会話は……分からない。だが、確実にそうやって私たちはここに観光へ訪れた。

 ああ、一周目の私の言った通りだ。会話の全容は思い出せないが、確かに断言出来ることがある。それは、居心地がたまらなく良かったことだ。

「ママ、おんぶして」

「え?」

「少しで良いから、お願い」

 ママは少し考えた後、気合を入れるように両頬を叩いて背中を構えた。

「よし、来い!」

 恐る恐る両太ももをママの手のひらに乗せ、頭に手を回すとぐらぐらと立ち上がった。

「由紀奈、成長したわねぇ……」

 息を上がらせながら、たどたどしく山道を歩く。私は頭に頬をつけて、ママの温もりをいっぱいに感じた。

 ああ、こんな感じだった気がする。人前で股を開いて背中にしがみついて、視線が痛くて顔をうなじに押しつけていた。もう成長しちゃって、視界にうなじは見えないけど、鮮明に蘇る。あの日感じた、未希お姉ちゃんの温もりを。

 それを本人ではなくママで思い返すことが出来る辺り、ママと彼女は似ているのだと思う。

 顔でも声でもなく、私を愛しているというその心が。

 そうやって私たちは百光寺まで登り詰めた。ああ、既視感がとてつもない。寺の外観も、中の人だかりも。

 人混みの間に割り込み、何とか寺から街を見下ろすことが出来た。やはり発展した街の景色は、田舎民には心惹かれるものがある。

 私たちは、ここでただ眺めていただけではなかった気がする。何かひと悶着あって、若干何かを思いながらこの景色を一望していた。

 何かとは何だ? 羞恥心か? 何のために? 何に恥じた?

「……思い出せない」

 声に漏らしてしまうと、ママは私を片手で抱き寄せて、「ゆっくりで良いのよ」と優しく囁いた。

 結果として、それは最後まで思い出すことは叶わなかった。


 地上に降りると、空はすっかり赤褐色に色づいていた。

 そんな夕焼けを見上げて、外に出るのも悪くないな、と気分に浸った。

 それから私たちは家に帰ったのではない。未希お姉ちゃんを迎えに行くために、寒蘭病院を訪れていた。

 待つこと五分。彼女はロビーで私たちを見つけると、途端に泣き目になりながら駆け寄った。

「由紀奈ちゃん! ようやく外に出られたんだね……!」

「もう少しマシな言い方にしてよ。記憶を思い出したいって思って……」

「うん、良いじゃん!」

 彼女は笑うと、ママとこの成果の喜びを分け合うように目を合わせて頷いた。

「じゃあ、由紀奈ちゃん」

「何?」

水田みずた君って、分かる?」

 水田。一周目の私の重要人物だろうか。思考を巡らせてみるが、残念ながら特に何かを思い出せるわけではない。

 彼女は付け加えるように言った。

「まあ、遊んでた子供のうちの一人ってだけだけど、思い出せるかな?」

「……分からない」

「そっか。昔遊んでた子供の中で、あの子だけがまだ入院した状態なんだけど……お見舞いに行く? 何か思い出せるかも」

「……確かに」

 重要人物でないのなら難しいかもしれないが、それよりも、何となく懐かしさを感じて会ってみたくなった。

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