我が隣人たちの記憶
月浦影ノ介
我が隣人たちの記憶
私の家は茨城県のとある小さな田舎町にある。平成の大合併までは村と呼ばれていた。多くの地方自治体がそうであるように高齢化と過疎化に悩み、やがて衰退してゆくだけの名もない町だ。
私はこの故郷で十六の歳まで育ち、それから遠くの街に働きに出て、三十手前で独立して戻って来た。
吹けば飛ぶような零細自営だが、それでもなんとか二十年近く続けることが出来ている。伴侶はいない。一緒に暮らしていた両親は共に認知症を患い、現在では地元近くの介護施設でお世話になっている。自宅で細々と仕事をしながら、誰にも気兼ねすることのない気ままな一人暮らしだ。
私は子供の頃から、ときどき妙なモノを見ることがあった。特に霊感が強い訳ではない。それらは何の脈絡もなく突然現れ、またふっと消える。たまたまそこに立ち会わせたに過ぎない。
怪談には文脈が必要である。幽霊を見たというだけなら、それは単なる目撃証言だ。怪異体験の前後にきちんと文脈があって、初めて「怪談」として成立する。
私の体験も、そのほとんどがいわゆる目撃証言の範囲であり、前後の文脈や物語性が決定的に欠けている。怪談として語るにはどうにも面白みがない。しかし昨今の実話怪談ブームの中で、自身の体験をまったく語らないのも少し勿体ないような気がする。
私の母や弟も奇妙な体験をしている。そのほとんどが、この自宅内での出来事である。
そこでふと、それらのうち幾つか印象的なものを列挙して、我が家の一つの記憶として、軽いエッセイのつもりで書いてみることにした。なのであまり怖くなかったとしても、どうかご容赦願いたい。
一、
まずは母の話だが、母がこの家に嫁いでまだ間もない頃で、もう五十年も前のことだ。
その頃の我が家はトタン屋根の古い平屋で、周囲と比べでも見劣りするような、みすぼらしい家だった。
ある夜、母はトイレに行きたくなって目を覚ました。その当時、トイレは一番奥の裏庭に面した屋外にあり、そこまで行くには仏間の横を通らなければならない。母は嫁いだ当初から、この仏間が怖くて仕方なかったという。
トイレで用を済ませ、戻って来ると仏間から何か物音がする。
すわ泥棒か。しかしこんな貧乏そうな家にわざわざ盗みに入る者などいるだろうか。
疑問に思いつつ、そっと襖を開けて仏間を覗くと、暗闇の中に白い煙のようなものがフワフワと漂っている。
それは母の目の前を通り過ぎると、やがて仏壇の中にすうっと吸い込まれるように消えた。
驚いた母はすぐ寝室に逃げ込み、頭から布団を被って震えていたという。翌朝、そのことを父に話すと「ご先祖さまが嫁の顔を見に来たんじゃないのか」と笑われたそうだ。
父が母と結婚したのが四十になってからで、当時としてはかなりの晩婚である。ご先祖が心配して様子を見に来たのだとしても、不思議ではなかったかも知れない。
これなどは怪談として一応の体裁は整っているだろう。だが次から語るのは、怪談としては何の文脈もないただの体験談である。
二、
人魂を見たことがある。
中学生の頃で、季節は確か夏だった。その頃には自宅はトタン屋根のあばら屋から、二階建ての新築に建て直されていた。
夜中になかなか寝付けずに、ふと風に当たろうとベランダへ出た。田舎のことなので電灯も少なく、辺りは真っ暗な宵闇に沈んでいる。
家の前は国道を挟んで空き地になっており、近所の人が駐車場として借り受け、車を何台か停めていた。
真夜中なので当然だが、辺りに人影は見えない。何の気なしに眺めていると、その空き地で何やら突然ぼうっと光る丸いモノがあった。
距離があるので正確なところは分からないが、ソフトボールぐらいの大きさはあったと思う。
怪訝に思って見つめていると、それは青白い光を放ちながら、オタマジャクシが泳ぐようにゆらゆらと漂って、やがて小さな尾を引いてふっと闇の中に消えた。
時間にして僅か数秒のことであった。しばらく待ってみたが、青白い光は再び現れる気配はない。
一体何だろうと思いながら寝床に戻り、それからややあって、あれが人魂というやつかと初めて気付いた。
特に怖いとは思わなかった。珍しいモノを見たという好奇心の方が勝った。いつかもう一度見たいと思いながら、今日まで叶わずにいる。
三、
金縛りにも結構な頻度で遭遇した。十代から二十代に掛けてが一番多かったように思う。
金縛りのメカニズムは、ほぼ科学的に解明されている。なのでそれをことさら霊体験として主張するつもりはない。
ただ一度、こんなことがあった。
これも中学生の頃の話だ。確か夏休みだったと思う。
部活から帰って来て、疲れて二階にある自分の部屋で横になっていると、急に身体が硬直して動かなくなった。
それまでに金縛りになったことは何度もあったし、中学生にもなると、金縛りとは頭が覚醒して身体が眠ったままの状態になることで生じる生理現象だ、ぐらいの認識はある。
なんだまた金縛りかと思っていると、いきなり両肩の辺りに人の手の形をしたものがペタリ、と置かれた。
指の一本一本の感触までがハッキリと分かる。これは明らかに人間の手だ。それがゆっくりと這うように動いて徐々に首元まで近付き、やがて首筋を辿ってせり上がり、喉を両側から掴む形なった。喉仏に親指の当たる感触がある。ちょっと力を入れて絞めれば、確実に窒息させられる位置だ。
これはさすがにマズイのではないかと焦りながら、なんとか薄目をこじ開けると、自分の目の前にぼんやりと人の顔があるような気がした。
気がした、というのは本当にうっすらとしか目蓋を開けられないので、それが何者なのかはっきり確かめようがないのだ。男か女か分からないが、枕元に誰かが座っていて、それがヌッと上半身を突き出して自分の顔を覗き込みながら、今にも首を絞めようとしている。そう思えてならなかった。
このままでは殺されるのではないかと思い、心の中で必死で「やめろ!」と強く念じると、いきなり金縛りが解けて身体が軽くなった。
上体を起こして周囲を見回したが誰もいない。もしかして夢だったのではないかと思ったが、それにしては首に掛けられた両手の掌や指の感触がひどく生々しかった。
四、
私には一つ違いの弟がいるが、そういえば彼もよく金縛りに遭っていた。
弟の体験談で印象に残っているものがある。確か高校生ぐらいのときのことだ。
ある夜、二階の自室で寝ていると、急に金縛りになって全身が動かなくなった。
ふと人の声が聞こえる。何を言っているのか分からないが、一定の繰り返すリズムが、耳鳴りのように頭の上で反響していた。
かろうじて目だけは何とか開けることが出来た。と、そうして視界に飛び込んで来たのは、自分の周囲を取り囲んで一心にお経を唱え続ける、僧侶の格好をした四五人の男たちの姿だった。
驚きのあまり声も出せずにいると、僧侶たちはお経を唱えながらやがてフッと消えるようにいなくなった。
僧侶に取り囲まれお経を唱えられる、というのは何やら死を連想させる。ひょっとして不幸の前触れではないかと、弟はしばらく不安な気持ちでいたそうだが、特にこれといって病気や事故に遭うこともなく、今も元気で暮らしている。あの僧侶たちは一体何だったのか、結局は謎のままだ。
我が家の二階には何かが潜んでいるのだろうか?
これまでにも夜中にふと目を覚ますと、自分の周囲を誰かが歩いている気配を感じることが度々あった。
姿は見えず足音も聞こえないのだが、物体が動くときに生じる空気の抵抗と、畳を踏み締め歩く体重の乗る感触が確かに伝わって来る。それはときどき私の上にも乗って来て、布団越しに身体を踏みつけながら目的もなく行ったり来たりした。一人のときもあれば、複数人がいるように感じるときもある。
黙って踏まれっぱなしも癪なので、どこで覚えたか九字を小声で唱えると、それらの気配はいつしか霧散してしまう。
五、
自宅での霊体験で一番強烈だったのは、二十代半ばのときのことだ。
その頃はまだアパート住まいだったが、ちょうど仕事が連休だったので実家に帰っていた。
夜、二階にある自室で寝ていると、腹の辺りに妙な痛みを感じる。腹の中が痛いのではなく、皮膚の表面をチクチクと刺されるような痛みだ。
いったい何だろうと目を開けると、布団の傍らにぼんやりとした白い人影が立っていて、刀のような細長い棒状のもので、私の腹の辺りを何度も何度も執拗に刺している。
あまりに驚いて、思わず「なんだお前、出ていけ!」と怒鳴りつけると、そいつは窓の方へスウッと姿を消した。
すぐに飛び起きて電気を点けた。自分の見たものが信じられなかったが、はっきり目覚めていたので夢とも思われぬ。刺されるほどの怨みを幽霊から買った覚えもない。恐怖心よりも、何故という不可解さの方が勝った。
結局その夜は再び寝る気になれず、電気を点けっぱなしにして朝まで過ごした。
腹を刺されたということは、内臓関係の病気の暗示ではないかとも思ったが、幸い現在に至るまで特に大きな病気もなく健康である。
両親の介護をするようになって、夜中に何かあっては困るからと、あるときから一階の両親の寝室の隣で寝るようになった。
両親が介護施設に入居した今も、それは変わらない。二階の自分の部屋は、ほとんど物置のようになっている。
掃除をしたり本を取るために二階へ上がると、ふと誰かいるように感じることがある。電気を点けても、部屋全体が何となく暗い。ただの思い込みかも知れないが、しかし私は二度と二階の自室で寝ることはないだろう。
夜、一階の寝室で寝ていると、ときどき二階からギイッと微かな物音がする。単なる家鳴りかも知れないが、しかしそれにしては規則正しく、一定の間隔を空けて音が鳴る。ちょうど人がゆっくりと歩くときのように。
夜中にトイレに起きると、階段の踊り場に誰か立っているような気がする。
先日は二階から誰かが階段を駆け下りて来る夢を見て、慌てて飛び起きたことがあった。むろんただの夢だが、それにしてはひどく生々しく現実的な夢であった。
玄関にはチャイム式の人感センサーを取り付けてあり、数年前に壊れ、電池を外してそのまま放置してあるのだが、ときどきどういう訳か思い出したように急に鳴ることがある。むろん玄関に出ても誰もいない。先日はあまりにうるさいので、とうとう取り外してしまった。
夜中に仏壇の金具がカタカタと鳴ることがある。そんな日はたいてい仏膳を供えるのを忘れていたりする。
こう書くとまるで曰く付きの事故物件のようだが、一人暮らしの日常は至って平穏なものだ。
特に不運が重なるとか、不吉な出来事が起きるなどということはない。
毎日決まった時間に起きて働き、僅かな収入を得、自分で食事を作り、本を読み、身体を鍛え、SNSで交流し、趣味の怪談を書く。決して裕福ではないが、貧しくもない。それなりに充実した日々の生活を営んでいる。
もし仮に霊能者が現れ「祓って進ぜよう」などと言われても、余計なお世話だと断るだろう。
若い頃は霊の存在など信じなかった。死後、存在が跡形もなく消滅した方がむしろ潔いとすら思っていた。ときどき妙な体験をしていたにも関わらず。
今では死後の世界はあるのかも知れない、と思うようになった。死後、何も残らないとしたら、我々が死者の冥福を祈ったり、神仏に手を合わせたりする行為は全て無意味なのだろうか?
そうではないと思いたい。人は死んでも魂は残る。神仏はある。それは我々の住む世界の傍らに薄皮一枚を隔てて存在している。そう思った方が、不思議と呼吸が楽になるような気がする。
この文章を書いている最中にも、二階から誰か畳を踏むような微かな音が聞こえる。互いに干渉もしない代わりに敵意もない。(向こうがどう思っているか知らないが)
その足音は、自分もいずれこの世を去って向こう側の住人になる日が来ることを、ふと思い出させてくれる。死を想え。私たちは世界の薄皮を一枚隔てた隣人である。
自分や家族が自宅で体験した不思議を思い出すままにつらつら書いてみたが、思いのほか長く、まとまりのない文章になってしまった。ここまでお付き合い頂いたことを心から感謝したい。
少しでも楽しんで頂けたなら幸いである。
(了)
我が隣人たちの記憶 月浦影ノ介 @tukinokage
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。我が隣人たちの記憶の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます