坂道
朝霧 了
坂道
私はあれから、少し化粧が上手くなりました。
先輩への手紙の半ば、ペン先がわずかに余分なインクを染み出させ、小さなしみができる。
本当は、この手紙は書くはずのないものだった。そして同時に今でも、届くはずのないものでもあった。
幾重にも重なった届くことのない恋文の最後の一通だけは宛名を書く。切手を貼って、私はそれをジャージのポケットに入れた。
もう深夜になるにもかかわらず、夜の闇を反射して窓の外にはためいているドレスは、今日着るはずだった、新品の一枚。
もう式はとうに終わってしまった。そろそろ日付が変わろうとしている。時計の針は十二時をわずかに手前にして、じりじりと動き続けていた。
ため息をつく。
私は結局、いけなかった。
土踏まずに食い込むペダルを必死に踏み下げて、私は坂道を登っていた。もう押して走ったほうが速いんじゃないかと思うほどに自転車の進みはのろく、時折転びそうになりながら進んでいく。坂道の途中に一本だけあった街灯の蛍光灯は切れかけていてちらちらと瞬いて、一匹の蛾がその明かりにまとわりついていた。明かりが瞬くたびに聞こえる何かをすり減らすようなじりじりという音が耳について、私はなお足に力をこめて、そこを急いで走りぬけた。
たまらなく、泣きたい気持ちがした。結婚式にいけなかったからではない。そもそも招待状には欠席で返事を出していた。だから、これが望んだ結末であって、二週間前からわかっていた今日の深夜の風景であったはずなのだ。
下り坂の存在しない上り坂をひたすらこぎ続け、私は息切れと汗のとまらなくなった火照る体を夜風に当てながら、自転車を道路わきに停めた。
だめだ。
自転車を停めたすぐ横の、もう何年も車も人も通っていないのではないかというような細い道のコンクリート塀に背中を預けて、座り込む。
アスファルトが冷たくて、心地よかった。
手のひらを、ざらついてでこぼこと落ち着きのない地面に押し付ける。
汗が少しずつ引いていくのを感じながら、私は塀に四角く切り取られた空を見上げた。
月は見えなかった。きっともう西の空にかかっているのだろう。南の空の一部しか見えない道を東に向かって走ったのだから仕方ない。帰り道にはきっと見えるだろう。
ふと目を閉じて、先輩の顔を思い浮かべてみようとする。
なんにも、おもいだせない。
笑った顔も怒った顔も、退屈そうな顔も泣き顔も全部私が見てきたはずだった。先輩の感情の一番近くにいたのは事実私で、きっとだからこそ私は一生先輩のそばにいることができなかった。
好きだった、わけではなかった。
けれど、一番先輩の近くにいるのは、そしてこれからもその場所にいるのは、私だという根拠のない自信を持ってしまっていただけ。それがこともなく、じわじわと一瞬で奪い去られたとたん、そのあまりの重さに転げてしまっただけなのだ。
声を上げてなきたいような、静かに涙だけを流してしまいたいような、そんな感覚に襲われて、私は唇をかんだ。
痛い。
まだ感覚はあるのだと、私は妙な安心の仕方をして、口を開く。
口をすぼめ、そのわずかにできた隙間からひゅう、と息をふきだしてみる。
音はわずかに、喘息患者の喘鳴にすら聞こえないような貧相な震えを残して消えた。へたくそな口笛で、私はゆっくりと「卒業写真」をふきだす。
聞こえるか聞こえないかわからないようなメロディに、頭の中で歌詞を添えて、右手の人差し指でゆっくりと拍をとった。
かなしい、ことが、あると。
私の卒業写真にはあなたはいない。
何処を探しても、いない。もちろん、あなたの卒業写真にも、私はいない。
ひとごみにながされて、かわっていくわたしを。
変わったのはあなただ。いつまでも、あのときのまま、私のそばで笑ったりないたり、怒ったりしてくれるのだと思っていたのに。
私と先輩の間に横たわる平和を信じていた私も、先輩も、それぞれ違う形で裏切られた。先輩は私の思いを明朝知ることになるし、私は先輩が私を選ばなかったことに二週間前、気づいた。
きっとこの手紙が引き起こすであろう災厄は色々と、想像できた。例えば先輩と今後連絡できなくなるであるとか、先輩の新婚家庭での不和、私の罪悪感。
断罪できる程度の、罰で計れるほどの罪であると自負していた。この紙切れが彼らを壊すのなら、そして私たちを壊すのなら、きっと私と彼との間に横たわっていたたゆたう平和を壊した紙切れと同等の力を今、私は持っている。
いってみれば、自棄だった。
先輩を手に入れたかったわけではないし、結婚したかったわけでもない。ただ、この数年間私のものだったその一番近くの席をものの数秒で明け渡し、知らないうちに私が蚊帳の外になっているだなんて、そんなことは、絶対に許せなかったのだ。
だからこれは、復讐でもあり、終止符でもある。
私は冷たいアスファルトから腰を上げ、自転車を停めたままにして、その数メートル先に鈍く赤い色を見せる郵便ポストへ足を進めた。
ためらいがある、いまだに。
なぜこんな細い古びた道に、郵便ポストがあるのだろう。明らかに、そこだけ風景から浮いていた。赤という激しい色が、いくらかさび付きはするものの健在の熱さでそこに立ち続けているのに対し、時の止まったようなコンクリート塀の色と、アスファルトの黒。息をするものは私だけで、音を立てるのも私だけだった。
本当に、このポストに投函してこの手紙は届くのだろうかと訝る。私はポストの前にたどり着くと、投函口を左手でぱたりと押し開いてみた。
投函口の先には何も見えない。もしかしたら、その先には届くことのなかった手紙たちがぎゅうぎゅうに詰まっているんじゃないかと思ったけれど、そんなことはなかった。
一般的な郵便ポストがそうであるように、投函口は人の手がぎりぎり入るくらいの狭さで、どうにも私の手はそこから先に進まなかった。
仕方ない。
私はつぶやいて、命運を託した手紙を投函口に差し入れる。
手を離したら、この気持ちがどこかに飛んで行ってしまいそうで、上手く指が動かなかった。郵便ポストは従順に封筒を受け入れ、私に手を離すことを急かすように投函口の蓋で私の指を締め付けてきた。
諦めて、指を離す。すとん、とポストの底に手紙が落ちた音がした。
ああなんで糸か何かを付けておかなかったのだろう。あの思いは私だけのもので、先輩でさえも触れてほしくないものなのに。
そんな後悔が身を襲うのを感じながら、私は一歩後ずさった。
それを、先輩に触れて壊してもらうためにこれを送ることに決めたのだ。私の心の奥にある椅子に、大事にこの手紙の山を載せておけば、永遠に私は先輩を聖域の外に出してあげることができない。
一生懸命、椅子を磨いて、クッションも整えて、寒い日には懐炉を載せておいたし、暑い日には濡れたタオルも準備していた。的確に、ぴったりのタイミングで私は先輩の汗を拭いたし、震える肌を温めたと思う。
それでも先輩にはこの椅子が合わなかったのだ。
ということはきっともう、この椅子には誰も座れない。
先輩に合わせて高さも調節して、クッションも張り替えて、元あった飾りを削り落として、部屋には窓を付けたのに、先輩はその椅子に座ってはくれなかった。
私が見ていたのは、誰だったんだろう。
平和を信じていた頃、確かに先輩だと思っていた人は、今思えば私の中の虚像だった。
平和を信じていた頃、確かに見ていたと思った人は、ほんとうに先輩だったのだろうか。
オリジナルの彼を愛せない私を、オリジナルの彼は愛してくれるはずなんてないし、初めてオリジナルの彼の存在に気づいてしまったときに気づくべきだったのだ、可能性は皆無なのだと。
思い切ってポストに背を向ける。今ならまだ取り戻せるだなんて甘い考えを抱いてはいけないと思いながらも振り返りそうになって、あわてて私は前を向いた。
自然と、震えが収まって、いつの間にか私は自転車のそばに立っていた。
細い道から大きな道路に出て、来た道では見られなかった西の空を見上げる。
昨日のニュースで、今日は赤い月が見られると聞いていたから、わずかに期待をしたが、そこにある月は確かにいつもの通り真っ白で、わずかながらいくつかのしみを浮かせたそれ以外の何者でもなかった。
月が赤かったからなんだというのだ。私たち人類の視覚神経がその色を何かのタイミングで赤色だと判断したところでオリジナルの月は赤くもなんともない。月面着陸の映像が真実なら、その表面はどちらかというと白である。
鍵を挿したままにしていた自転車のストッパーを蹴り上げて、またがる。登ってきた坂道なんて、降りるのはその数倍も速い。
いったいなんだってこうも冷えるのだろう。そろそろ春の気候になったって良いのだろうに。
ため息が凍る。
坂道 朝霧 了 @ryo_asagi5656
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