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 青葉は桜が好きだった。


 ついに、青葉が喜びそうな写真を手に入れた。何度もデートした城跡の、青葉お気に入りの一本桜。誰がなんと言おうとも、満開の一本桜。

 俺は急いで病院へ向かった。この写真があれば、青葉はきっと元気になる。自分の目で見たいと言うに違いない。

 このクソ暑い中、流れる汗も拭わず、心臓がパンクするかと思うくらい全力で走った。

 ハンカチなんて持ち歩くような俺じゃない。真っ白な総合病院の入り口で、開襟シャツの裾で顔を拭き大きく深呼吸する。

 青葉の笑顔が脳裏を過る。学校ではバカな事ばかりやって、教師に目をつけられるような俺を好きだと言ってくれた青葉。

 俺が青葉の病気を治して、この先もずっと一緒に……


 しんと静まり返った病院の一角で、開けっぱなしのドアから洩れ出る噎び泣く声。

 それもひとりじゃない。複数の嗚咽が耳に突き刺さる。


 目眩がするほど血の気が引く。視界が歪む。

 吐き気と共に込み上げる恐怖に俺は口元を押さえ、頬に爪を食い込ませる。

 足が一歩も動かない。怖い、怖い怖い。

 他校の不良と喧嘩したって、学年主任に怒鳴られたって、こんなに怖かった事はない。足が震える。いや、全身が震える。病院の中は涼しいはずなのに、冷たい汗が脇を伝って流れ落ちる。

 ダラリと下がった手に握る、桜の写真に指を立てる。


 俺は何をしにここへ来た? 青葉が笑って待っていると思ったんじゃないのか?

 今日の午前中は病院へ顔を出せなかった。一刻も早く青葉に満開の桜を見せたかった。海斗に教わりながらシャッターを切って、すぐに見られない写真に悶々としつつ、急いで部室に戻り現像も手伝った。

 遅くなった。青葉に会いに来るのが。

「遅いよ、葉太くん」なんて言いながら、頬を膨らませる青葉がいると信じてた。

 信じていたんだ。


 いつもの倍以上の速さで転がる心臓が胸を叩き、俺の呼吸を荒くする。吐き出す息がまるで血反吐のように思えてくる。

 それでも何とか気合いで足を動かし、恐るおそる覗き込んだ病室で、青葉の母親が彼女の胸に突っ伏して泣き崩れていた。

 パイプイスに座り顔を覆う男性。多分、青葉の父親に違いない。その足元で背中を丸め、床に額を擦りつけるような格好で泣く青葉の妹。

 青葉の顔が見えない。滲んで見えない。

 青葉は笑わない。怒らない。しゃべらない。

 俺はそれ以上病室に入る事も出来ず、病院を後にした。







 桜子は桜が嫌いだった。


 嫌いだと思っていた。そうじゃない。そうじゃなかったんだ。

 あの日以降、頑として俺と口を聞かなかった桜子を、なんとか一本桜に呼び出した。

 地元の高校に赴任したのにアパートを借りてひとり暮らしをしていた俺が、久しぶりに帰った実家で、昔使っていた部屋ごと引っくり返す勢いで探し当てたものを手に。

 あの日と同じ、人もまばらになった城跡の一本桜近くのベンチ。

 完全に花弁の散った桜を冷たい目で見つめる桜子の前に、それを差し出す。

 青葉と約束した満開の一本桜の写真。

 それは高校時代、写真部部長だった海斗に教わりながら、何度も失敗を繰り返して撮った、一枚のモノクロームの写真だった。


「これって……」


 桜子はその写真を手に目を見張る。

 一面深い緑に染まる桜に最も陽の光が降り注ぐポイントを選びシャッターを切る。ピントは一番手前に飛び出た枝。絞りは閉じ気味に露光は長め。

 そして、モノクロフィルム。

 目映い光を孕んだ葉は、まさに満開の桜だった。


「約束したんだ。満開の一本桜を見せるって。でも間に合わなかった。この写真を見れば、きっと青葉は元気になれると思っていたのに」


 写真を持つ手を震わせて、桜子は瞳から涙を溢れさせる。空いた手で口元を押さえ噎び泣く桜子の指や顎を伝って流れ落ちた涙が、短いスカートから伸びる真っ白な太股を濡らした。


「そんな……来なかったのに。待ってたのに。ずっと、ずっと、絶対に来るって信じてたのに」


 桜子の薄茶色の髪が風に揺れる。青葉と同じ色の、青葉とは違う染髪の髪。


「青葉の死を受け入れることが出来なかった、弱い俺が悪いんだ。ごめん、桜ちゃん」

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